2020年11月7日土曜日

 〈人はみな外見だけであなたを知り、ごくわずかな人しかじっさいにあなたと接触できない。人はただ結果だけで見てしまう〉

                        『君主論』マキアヴェッリ

2020年9月12日土曜日

Dear Mr. Tim Cook

Dear Mr. Tim Cook,


Good Day,


Please allow me to drop a few words here for your attention.  I know you are extremely busy as the Apple CEO, but I hope you can spare your precious time to read my concerns below.


I bought your iMac for telework about three months ago.  But soon after, something weird happened.  All of sudden, it started typing the same letter on the screen before my eyes.  Also on the other day when I set my iMac "sleep" before I went to bed, its monitor just opened up by itself in the middle of the night with a bunch of "z" in my login password window.


I was scared.  I mean,  I was so worried about the situation that someone was using my iMac remotely without consent.  I feared my account got hacked!  So, I immediately changed all my passwords and deleted all the pics my wife has not seen or will never see.  Subsequently, I tried to trace the path to see if someone virtually touched my system and played with it.


After all, I realized there was something wrong with its "magic keyboard".  Some shortcut keys did not work and a bunch of "z" just appeared in the Yahoo search window.  So I contacted your Apple Support in Japan and got the keyboard replaced free of charge since it was covered by one year warranty.  Fortunately, it appears it has been working fine so far.


That being said,  please do not get me wrong.  I love all your Apple products.  As a matter of fact, I admire your leadership and want you to continue producing innovative gadgets.  But I must tell you that I am a little disappointed this time.  I know your company values as the best of all, but you need to fix something like this manufacturing "snafu" before enjoying the success.  Just my two cents from Japan....  Thank you.


Sincerely yours,


P.S.  I just noticed a tiny seal on the back of the new keyboard I received.  It says "Made in China".

2017年10月3日火曜日

エコー検査

今日は久しぶりにエコー検査を受けた。内視鏡がいつも苦痛なので担当医師にエコーをお願いした。

薄暗く、カーテンで仕切られたベッドに上半身をはだけて横になっていると、若くてキレイな女性の検査士が入ってきた。すると、おもむろにローションを塗って、優しく検査スティックを腹部全体に動かし始めた。脇腹やおヘソのあたりをヌルヌルと。

別のことを考えて、気を紛らわせようと努めたが、もしこれが心電図だったら、明らかに異常値を示したに違いない (苦笑)。

2017年6月14日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(33)」


バチカン市国のシスティナ礼拝堂は訪ねてみる価値がありました。歴史的、文化的、思想的、さらには芸術的な要素をすべて内包した建造物であり、キリスト教の信者ではなくとも、その偉大さには圧倒されます。まさにイエスが後世に残した影響力は計り知れないものがあります。

ローマでは、赤居さんと街中を一日あてどもなく歩きまわりました。ただひたすら歩き、人や建物などを観察することによって、この世界的観光地を肌で感じることができました。いまでも歴史小説を愛読していますが、やはりその作品の地へ実際に足を運ぶというのは、その場の空気を実感することができ、小説の情景を想像するのに役にたちます。

さて、おなかも空いたので、本場のパスタを食べようということになり、場末のレストランで夕食をとりました。なにぶん貧乏旅行のふたりですから、贅沢はできませんでしたが、遅くまでワインを飲んだりして、活気にあふれるローマの夜を満喫しました。おそらくシコタマ飲んだのではないでしょうか、その夜はどんなホテルに宿泊したのか、一向に思い出せません。

翌日、ローマをあとにしたふたりは、さらに南のナポリへ向かうのを諦め、イタリア半島右側のつけ根にあたるヴェニスへと列車に乗り込みました。それからの記憶は、何故かすっぽりと抜けています。まるでローマからヴェニスへと一瞬にワープしたような感覚です。映画のフラッシュバックのように鮮やかな記憶として残っているのは、ヴェニスの駅を一歩出て目にした大運河です。その光景には驚きましたね。

駅頭のさきには、キラキラと輝く水面がひろがり、黒いゴンドラが行きかっていました。赤居さんとふたりでその場に立ちすくみ、目前に拡がる運河をしばらく眺めていました。まさにそこは、『水の都、ヴェニス』です。

(つづく)


2016年12月30日金曜日

「20歳(ハタチ)のころ(32)」

近頃しきりに読みはじめた歴史小説家の宮城谷昌光氏のエッセイに、以下のような文章がありました。

”人が最も早く賢くなりたかったら、旅にでることだ、といわれるが、たしかにそうで、中国の大歴史家である司馬遷は20歳になると南方を遊歴した。日本では長州の思想家である吉田松陰が21歳で見聞を広めるために遊子となっている。そもそも、そういう感受性の豊かな年齢を選んで旅行に出発したこと自体が、かれらの賢明さをあらわしているが、ものごとに感動する頻度が低くなる高年齢になっても、やはり旅は人に豊かさをあたえてくれる。”

なるほど、そうかもしれません。偉大な司馬遷や吉田松陰と比べるつもりは毛頭ありませんが、同じ年頃にヨーロッパ大陸を旅したことは、自らの人生にとって貴重な体験であったと思えます。青二才の世間知らずが、幾ばくかでも内面的な成長をすることができたのも、この旅行のおかげかもしれません。

さて、赤居さんと続けている貧乏旅行は、やっとイタリアの首都、ローマ(Rome)へとたどりつきました。まさに、『すべての道はローマへと通ずる』、ですね。

ローマでは、有名な観光スポットのスペイン広場やトレビの泉などを見てまわりました。オードリー・ヘップバーン主演の名画、『ローマの休日』にでてきた名所の数々が実際に眼前にあることに不思議な感動をおぼえました。チャールトン・ヘストン主演の名画、『ベンハー』で見たような戦闘用馬車が疾走していたであろうコロッセウムや、ジュリアス・シーザーが演説をしていたであろう古代ローマの遺跡群も見てまわりました。

ローマは、さすが世界有数の観光地です。見るものすべてが偉大で、歴史の重みを感じさせる建造物がありました。そのローマで一番訪れたいところが、バチカン市国のシスティナ礼拝堂でした。周知のように、全世界12億7千万人いるといわれるカソリック教徒たちの総本山です。ローマ法王がおられるところですね。素晴らしいの一言です。

巨大なドーム型の礼拝堂内へ入ると、天井一面にルネッサンスの巨匠、レオナルド・ダビンチが描いた聖書を題材にしたテンペラ画が描かれてありました。その芸術性や荘厳さには圧倒されました。

奥には、ダビンチと並び称されるルネッサンス期の彫刻家ミケランジェロの名作、『ピエタ』の彫刻が据えられてありました。傷ついたイエスを抱いたマリアの姿は哀しく美しく、まさに天才による作品です。魅了されました。

もし数々の芸術的天才を生み出したイタリアのルネッサンスというものがなかったとしたら、いまの世界のあらゆる芸術はどのように変わっていただろう、と想像してしまいます。

(つづく)

2016年11月9日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(31)」

アッツシジを後にしたふたりは、ふたたび列車に揺られ、つぎの目的地、フィレンチェへと向かいました。フィレンチェは、英語でフローレンスと呼ばれます。フィレンチェは、トスカーナ州の州都で、まさにルネッサンス芸術の都です。街全体が美術館のよう風情です。

まず始めに、中世イタリアの大富豪、メディチ家の愛蔵した美術品が展示されているウフィツィ美術館へと向かいました。このウフィツィ美術館には、ルネッサンス期を代表する有名な画家のひとり、サンドロ・ボッティチェッリの傑作が展示されています。

とくにかれの代表作、『春』や『ビーナスの誕生』を観た感動はいまでも忘れることはできません。絵画を見てこれほど心を揺さぶられた経験はありませんでした。いつまでもその絵画のまえで佇んでいたといっても過言ではありません。まさにそれら絵画の発するオーラに圧倒させられました。無から生み出される創造力の結晶が、そこにはありました。

フィレンチェは、ダビンチやミケランジェロなどの芸術家たちが活躍した都市です。また街の南側をアルノ川が流れていて、それに架かっているヴェッキオ橋は有名です。また、貴金属や装飾品などのブランドのお店が軒を並べています。まさに芸術とファッションの街ともいえます。

赤居さんとふたりで路地を散策し、街のシンボルであるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を訪ねました。教会の名前は「花のマリア」という意味だそうです。15世紀に建てられたモザイクタイルの美しい教会です。屋根は赤銅色のドームで、細い階段で建物の上部まで登ることができました。中世そのままの街並みが眼下に一望できました。

夕方には、街の南に位置する『ミケランジェロ広場』まで歩き、丘のうえから眺める、夕陽に染まったフィレンチェの街並みを堪能しました。目の前にアルノ川が静かに蛇行し、大聖堂が遠望できました。まさに思い描いていたイタリアの原風景がそこにはありました。

(つづく)

2016年8月14日日曜日

DIYにハマってます。

今年の夏は、娘ふたりは部活で忙しく、うちのカミさんも仕事を休めないとのことで、あいにく帰省できませんでした。そのかわり、DIYで既存のウッドデッキに物干し場を作りました。われながら完成品に大満足です。

現在、洗濯物は2階のベランダに干していますが、うちのカミさんからは、『せっかくウッドデッキがあるんだし、娘の部屋を通らずに洗濯物を干せるようにしたい』との以前からの要望です。家の正面サッシの前に洗濯物がぶら下がっているのも見ばえが良いものではないと、少々渋っていましたが、うまくタテに配置を変えて、DIYで作ってみました。

まずはホームセンターから木材や取りつけ用の金具などを購入しました。9センチ角の柱を一本買って、真ん中で切断して2本にし、上部を物干しザオ受けの角度に合わせて斜めの切り口にしました。こうすることにより、雨によって支柱
の上部が腐食するのを少しでも防げるのではと思います。

物干しザオ受けの上下4枚の板も長さに合わせて切り分け、ドリルで物干しザオが通るサイズの穴を4つあけました。支柱に角度をつけて打ちつけ、柱の転倒を防ぐため、ウッドデッキのフェンスにも後部を打ちつけ強度を高めました。なぜかと言うと、デッキの床板に支柱固定金具を取りつけましたが、強風などで転倒しないかどうも安心できなかったからです。これで少々の風でも、大量の洗濯物でも大丈夫です。

下側に干す洗濯物が見えないように、またプライベート確保のため、既存のフェンスに幅の微妙に違う部材を等間隔に取りつけました。出来合いのラティス・フェンスを買って取りつけようかとも思いましたが、なかなかの出来に我ながら満足しています。

最後は腐食防止のステインを塗りました。炎天下の作業だったので、熱中症に注意して、適度に水分を補給し、休憩をとりながら進めました。支柱固定金具が2個で2800円、ホームセンターにはなかったので、ネットで注文しました。9センチ角の柱が2580円、ビスと固定金具取りつけ用ワッシャーが792円、その他の部材が5782円かかりましたので、総額1万円ちょっとで出来ました。最初はコンクリート土台の物干し台を買ってデッキに直接置こうかとも考えましたが、せっかくのウッドデッキなのに、あまりにセンスがないと、今回の夏休みを利用してDIYで作ってみました。

もうひとつの写真は、先月に作ったウッドデッキ用の踏み台です。ウッドデッキのステップが腐食していたので、新たにベンチのような踏み台を作成し、下の部分には束石で基礎を固め、周りをレンガで囲って白い敷石を敷きつめました。

このように近ごろはDIYにハマってます(苦笑)。娘に言わせると、「お父さん、定年後の趣味がまたひとつ増えたね」とのことです。それにしても疲れました(笑)。いまは完成品を見ながら、自己満足に浸って、缶ビールを飲んでいます。



2016年7月24日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(30)」

わたしたちはつぎの目的地、アッシジ(Assisi)へと向かいました。アッシジも赤居さんがどうしても訪ねてみたい観光地のひとつだったようです。いつものように道中、赤居さんの後ろをついてゆくしかありません。

コモからアッシジまでは、イタリア半島をかなり南下します。しかしその途中の記憶がまったくありませんので、おそらく前日のジュリアーナ宅での歓迎パーティで飲みすぎたせいか、ずっと眠っていたのかもしれません。

やっと列車を降りて駅舎のそとへ一歩出ると、ほそ長い道路がまっ直ぐに田園を貫いてのびていました。その前方の小高い丘の上にアッツシジの古い街並みが遠望できました。まるで蜃気楼をみているようでした。

まっ青な空にまっ白な雲がいくつかぽっかりと浮いていました。あたりは静寂に包まれていて、空気は乾燥していました。一瞬、耳が聞こえなくなったような錯覚を覚えました。あたりには一面オリーブの木が植えられていました。

アッツシジの街は、中世そのままの趣きを残しており、白っぽい石造りの街並みは陽光をいっぱいに浴びていました。すり減った石畳の路地をぬけると、荘厳な教会がありました。

その教会は聖フランチェスコ聖堂といって、13世紀に建てられた由緒ある歴史的建造物です。中に入ってみると、ひんやりとして、外とは違ってピンと張り詰めた厳かな空気に包まれました。壁面は、数々の中世美術のフレスコ画で飾られていました。

高い天井や美しいステンドグラスを仰ぎみながらさらに奥へと進むと、祭壇中央の上部に十字架のキリスト像(聖母マリア像だったかもしれません)が見えました。キリスト教徒でなくとも、厳粛な気持ちになりました。

赤居さんとしばらくアッツシジの街路を散策しました。その通りには、カリフォルニアにある都市の名前の由来となったらしい、サンフランチェスコ通りやロスアンジェロス通りなどがありました。薄いピンク色の大理石をつかった優美な修道院もありました。

歩き疲れて、通りに面した小さなカフェに入りました。石畳通りに面したパティオの椅子に座り、コーヒーを注文しました。初めて飲んだ本場のエスプレッソは、とても苦味があって閉口しました。店のおじさんも日本人がよほど珍しいのか、しきりに話しかけてきましたが、そのイタリア訛りのきつい英語にも閉口しました。

(つづく)

2016年5月23日月曜日

「20歳(ハタチ)のころ(29)」

コモ(Como)では、1泊の滞在でした。イタリア人留学生たちに別れを告げました。か れらはその大きな瞳に涙をあふれさせていました。みんなで駅舎まで見送ってくれま した。駅のホームには、再びかれらの唄うジャクソン・ブラウンの『ステイ』が響き ました。

涙が出ました。イタリア語の「チャオ(Cao)」と日本語の「サヨナラ」を交えて、 ジュリアーナやパオラたちと別れのキスをしました。列車に乗り込むと、かれらの悲 しい顔が並んでいました。発車の合図でゆっくりとホームを離れていきました。赤居 さんと列車の窓から、かれらの姿が見えなくなるまで手を振りつづけました。

「――ホントにイイ奴らですね・・・」と、後ろで手を振っている赤居さんを振り返 ると、その丸メガネの奥の細い眼はしとどの涙で濡れていました。それにつられて、 不覚にも涙がとめどもなく流れました。もうかれらに一生会えないのかもしれないと いう刹那(せつな)さに、われを忘れて涙しました。

座席に深く身を沈め、車両の単調な振動に身をまかせました。ケンブリッジでかれら と過ごした日々が思い出されました。特に、ワインバー『シェイズ』で唄い飲み明か した夜が、懐かしく浮かんでは消えました。胸にじんわりと熱いものがこみ上げてき ました。

赤居さんとふたり、おし黙ったまま、気が抜けたようにぼんやりと外の景色を眺めて いました。イタリア北部の穏やかな田園風景が車窓に流れていました。あれから30 数年、いまごろかれらはどうしているだろう――。 さぞや、みんないいオバサンや オジサンになっただろうな。

列車は、南へと進んでいました。

(つづく)

2016年5月8日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(28)」

南フランスのニースを出発したふたりは、つぎの目的地であるイタリアへと向かいました。

ブーツの形をしたイタリア半島西側のつけ根に位置するジェノバ(Genova)を過ぎ、列車は一路、北へと進路を変え、ミラノ(Milano)へと向かいました。

アニメ好きの赤居さんは、『母をたずねて三千里』の舞台でもある港町ジェノバに立ち寄りたかったようですが、しだいに旅の予定が狂い出していたふたりは、つぎの目的地、コモ(Como)へと急ぎました。

コモは、ケンブリッジで知り合ったイタリア人留学生たちが住んでいる街です。かれらに再会するのは、今回のヨーロッパ旅行で楽しみにしていた予定のひとつでした。

毎週金曜日の夜にワインバー『シェイズ』で、一緒にドンチャン騒ぎをしていた連中です。あらかじめ連絡を入れていたので、コモ駅に到着すると、イタリア人特有の大げさなジェスチャーをまじえて大歓迎をうけました。

イタリア人は一般に喜怒哀楽の感情の起伏が激しいといわれていますが、かれらの再会時の喜びようは凄まじいものがありました。長年生き別れた肉親が、苦難の末やっと会えたような情景でした。

コモは、まわりを森と湖にかこまれた、それはそれは美しい街でした。さぞかし待ち望んでいたのでしょう、到着するやいなや、ふたりのための予定がびっしりと組まれてありました。

かれらは得意になって私たちを街のあちらこちらに案内すると、コモ湖へと連れて行ってくれました。

そこはまさに息をのむような景観でした。ボートで澄みきった湖面を滑るように進むと、湖の両側の緑の丘陵には、いくつもの豪奢な別荘が建ちならんでいるのが見えました。そのうちの一つは、かのナポレオンの別荘であったそうです。

いくつかの観光名所を巡ったあと、留学生の一人、ジュリアーナの自宅で夕食をご馳走になりました。一見すると石造りの古い家でしたが、内装や家具類はとてもシックなデザインに統一されてありました。

ケンブリッジで知り合った留学生たち以外も集まっていました。いくつものイタリア料理が大きなダイニング・テーブルに並べられてあり、何本ものワインやフルーツなどのデザートが用意されてありました。

そのかれらの歓待ぶりには、しきりに赤居さんとふたり恐縮してしまいました。その夜は、遅くまで飲み明かし、歌ったり踊ったり、ケンブリッジでの旧交を温めました。

かれらは、最後に私たちのために、何度もジャクソン・ブラウン(Jackson Browne)の『ステイ(Stay)』を歌いました。

♪ People, stay just a little bit longer ♪
♪ We wanna play just a little bit longer ♪

かれらの友情に、涙があふれました。

(つづく)

2016年4月18日月曜日

「20歳(ハタチ)のころ(27)」

バルセロナ観光を満喫した私たちは、ふたたび列車に乗って地中海沿いにフランスへと入国しました。進行方向の右手の窓辺には碧い地中海が見渡す限りどこまでも拡がっていました。南仏の穏やかな陽光が、あたり一面にふりそそいでいました。まさに地中海気候ともいうべき気持ちの良い陽気でした。心地良い単調な列車の揺れと、ときおり訪れる眠気でボーっとしているうちに、私たちはマルセイユ(Marseille)、カンヌ(Cannes)と素通りし、ニース(Nice)で下車しました。

ニースは、いわずと知れたヨーロッパ屈指のリゾート地です。お決まりの美しいビーチがあり、赤居さんとそのビーチ沿いの歩道をブラブラ歩いていると、その横を高級スポーツ・カーが颯爽(さっそう)と走り去っていきます。ハッとするように魅力的なブロンド美女たちを何人も見かけ、おもわず振りかえりました。ヨーロッパの成り金連中がバカンスに来ているようでした。あいも変わらずフトコロ寒い二人にとって、世の中は何と不条理で不平等に出来ているのかと呪わずにはいられませんでした。

いつものように裏路地の安ホテルを探しだし、ようやくその日のネグラを確保しました。ホテルの支配人は、頭髪の薄い、無精ひげを生やした、いかにもダサい中年男でした。着ているランニング・シャツがピッチリとそのでっぷりとした体に張りついていました。狭い階段をのぼって、暗い部屋に入ると、カビ臭いにおいが鼻につきました。陽光溢(あふ)れる同じニースにいるとは思えませんでした。古く軋(きし)んだ窓を開けて、何気なく路地に目をやると、けだるそうに野良犬が寝そべっていました。

どうもそれ以外の記憶が定かではないので、さぞかし長旅で疲れ果て、眠りこけてしまったのかもしれません。折角、ヨーロッパ屈指のリゾート地に足を運んだのに惜しいことをしたものです。しかし別段、高級なレストランで食事をしたり、贅沢にショッピングをしたりするつもりもなかったので、もともと身分不相応な観光地を訪れたのがオコガマシイのかもしれません。しかしながら、南フランスの有名リゾート地で一泊でも過ごせたことは事実です。たとえキラキラと輝く地中海に面した勝ち組エリアとは隔絶され、路地裏の安ホテルの一室で惰眠を貪っていたとしても・・・。

(つづく)

2016年2月6日土曜日

「20歳(ハタチ)のころ(26)」

バレンシアからは地中海沿いに列車で北東へと進みました。つぎの目的地は、バルセロナ(Valcerona)です。バルセロナは、マドリッドに次ぐスペイン第二の都市です。古い石造りの建物が立ち並ぶ街路は、とても開放的で魅力にあふれていました。ベランダにはベゴニアの赤い花々が飾られていました。街全体が陽光にあふれていて、美しいビーチがどこまでも続いていました。もちろん当時はまだオリンピックの開催まえです。

バレンシア同様、真っ青に澄みきった空の下、赤居さんと眼前にひろがる地中海の碧い海原を眺めながら、時折、眼の覚めるように美しいスパニッシュ女性たちにすっかり心を奪われていました。貧弱で挙動不審な若い東洋人ふたりが何やら物欲しそうに砂浜にすわってキョロキョロしている様子というのも、何とも痛ましい光景だったでしょうね。

しかしながら、あくまでふたりの名誉のために言っておくと、バルセロナを訪ねた目的は、もちろんビーチで日長一日、眼の保養の『ビキニ・ウォッチング』をすることではありません。現在も建設中のサクラダ・ファミリア(Sagrada Família)を訪ねることが主な目的でした。

その教会を訪ねた折、観光客の出入り口付近で一心に石を削っている若い日本人作業員を見かけました。頭にはタオルを巻いて、全身が粉塵で真っ白でした。思わず声を掛けましたが、どんな会話をしたのか今では思い出せません。まだ重要な仕事を任せられていない一介の作業員のようでした。コツコツと地道に作業している彼の姿がいまでも記憶に残っています。

日本に帰国して数年後、何気なく、サクラダ・ファミリアを特集したテレビの旅番組を見ていると、あの時の日本人作業員が映っていました。なんと彼は全工事の監督責任者になっていました。いや驚きましたね。さすがに勤勉な日本人です。いつ終わるのかも分からない歴史的建造物の工事に、日本人が携わっていることに同じ日本人として誇りを感じました。

(つづく)

2015年11月1日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(25)」

マドリッドでは、そのほかに荘厳な王宮やプラド美術館を訪ねました。とくにプラド美術館は素晴らしかった。スペインを代表する画家、アル・グレコやセルバンテスなどの絵画が展示されてあり、その独特な色合いと構成は美術鑑賞素人(しろうと)の自分でも感動しました。それぞれの絵に表現されている宗教的背景や歴史を理解できていれば、作品の魅力も増すのではないかと思いました。パリのルーブル美術館も感動しましたが、プラド美術館も引けをとらない芸術の宝庫でした。この貴重な体験以来、絵画芸術の魅力に惹かれ、帰国後も美術館へ足を運ぶようになりました。

マドリッドを後にし、南へ少し下ったトレド(Toledo)という街へ向かいました。おそらく赤居さんがスペインでどうしても訪ねてみたい場所だったようです。トレドはアル・グレコを輩出した街です。城壁に囲まれた中世の街並みは、一見の価値があります。まるで何百年も時間が止まったような雰囲気でした。ゆっくりと古い石畳を歩いていると、タイムスリップしたような感覚におそわれました。街の南側には旧市街を取り巻くようにテージョ川が緩やかに流れています。

トレドの街を散策したあと、進路を東に変え、バレンシア(Valencia)へと向かいました。世界遺産のアルハンブラ宮殿で有名なスペイン南部のグラナダ(Granada)やセビーリャ(Sevilla)へも足を延ばしたかったのですが、やはり時間的・金銭的制約によって泣く泣く諦めました。広大なアフリカ大陸を目の前に、是非ともジブラルタル海峡を見たかった。残念です。したがって、ポルトガルも訪ねることができませんでした。

バレンシアはオレンジなどの果実が豊富で有名です。街の市場に行くと、色とりどりのフルーツを売っていました。あたり一面に甘い香りが溢れていました。ひとつオレンジを買ってナイフを入れると、誤って指を切ったかと思うほど真っ赤な汁が滴り出ました。ひと切れ食べてみると、甘酸っぱい果汁が口の中に広がりました。

バレンシアでは、ビーチへ行きました。真っ白な砂浜と真っ青な空、それに群青色の地中海が目の前に広がっていました。まず一番に眼を引いたのが、スパニッシュ女性の美しさでした。とび色の瞳に小麦色の肌が印象的でした。世界にはこんなに美しい女性たちがいるのかと、唖然としました。赤居さんとしばらく口をアングリと半開きにして、セクシーなビキニ姿のそんな彼女たちを眺めていました。まさに至福の時でしたね(笑)。

(つづく)

2015年9月9日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(24)」

スペインの首都、マドリッドへ向かう列車は、順調に砂漠の中を走っていました。南欧の強い日差しが窓から差し込んできました。ウトウトとしていると、また突然、列車が止まってしまい目が覚めました。窓の外を覗くと、そこは駅でもなく、砂漠の途中の何もないようなところでした。また速く走りすぎて故障でもしたのかと思い、前方を見ると、運転手が昼食をとっていました。驚いたことに乗客は誰一人それについて苦情を言っていません。みんな運転手の食事が終わるのをボンヤリ待っているようでした。なんとも長閑(のどか)な光景でした。

マドリッドに到着しました。パリからの長い長い列車の旅でした。空気は乾いていて、街の雰囲気もフランスとは違っていました。街全体が、開放感に溢れていて、明るく、時間の流れが緩やかで、のんびりしているようでした。しかし治安はあまりよくないようでした。驚いたことに、街のあちこちに公衆電話ボックスがありましたが、その中には肝心の電話機がありませんでした。どうもすべて盗難にあったようで、電話機もろとも外されていました。

スペインといえば闘牛ということで、赤居さんと一緒に闘牛場へ行きました。そこは小さな野球場といった場所でした。派手な衣装を身にまとった闘牛士が現れ、次々と暴れ狂う牛たちの眉間にすれ違いざまに剣を刺していきました。まさにテレビで観たことのある光景です。観客たちの興奮も最高潮に達しました。これこそスペインに来た甲斐があったものです。闘牛ショーを満喫しました。闘牛場の裏手では、牛たちを解体していました。コンクリートの床に真っ赤な血が流れていたのが、今でも鮮明に思い出されます。

マドリッドを訪ねた理由の一つは、以前、ブライトンで同居人だったサルバに再会するためでした。短い期間でしたが、慣れないイギリスでの留学生活を共にした友人でした。ヨーロッパ旅行に出発する前に、あらかじめ手紙で訪ねる予定を伝えていました。再会できる喜びを綴りました。彼の奥さんと会えるのも楽しみの一つでした。サルバも、再会を楽しみにしているとの返信をくれました。現在のようにメールで簡単にやり取りできる時代ではありませんでしたので、手紙の一字一字に心がこもっているようで、愛(いと)おしく感じられました。

サルバとの再会は感動でした。うっすらと涙が出ました。固い握手をして、抱き合いました。日本人以外では始めての友人でしたので、感動はまたひとしおでした。彼はまったく変わっていませんでした。かつてのように立派な黒髭をたくわえていました。その横には奥さんも一緒でした。とても美人でした。陽気な人で、少々寡黙(かもく)なサルバにはよく似合っていました。二人には、マドリッドでも有名なレストランで食事をご馳走になり、王宮にも連れて行ってくれました。彼との友情がまた一段と深まりました。はるばるマドリッドを訪ねて本当に良かった。

(つづく)

2015年8月9日日曜日

世にも怪奇な物語 PART II

以前、夜中ひとりで寝ている折に女性の声を聞いた不思議な体験を書きました。

コチラ → http://c007jp-sam.blogspot.jp/2015/06/blog-post_18.html

とても恐ろしい体験でしたが、その後日談があります。

女性の声を聞いたあと、うちのヤマノカミ(妻)に話したところ、『ご先祖様の一人が、あなたに何か伝えたいことがあるんじゃないの。最近九州では豪雨続きだし、お墓のあたりに土砂崩れでも・・・』と、不安そうに言いました。『まさかぁ・・・』とは思いましたが、気になったので実家の父親に連絡しました。

父親は笑いながら、『気にすんな、お前も長年生きとると色んなことがあるさ。お墓には時々行っとるけん、大丈夫』と、心配もしていませんでした。 それ以来、電話したこともすっかり忘れていました。

ところが、その後、家族で旅行へ行っていた折、突然、父親から携帯に連絡がありました。声の調子が少々興奮しているのようでした。それによると、久しぶりにお墓の掃除に行ったら、古い自然石を使った緒方家代々の墓石のひとつ、夫婦で隣り合って立てられてある墓石の女性側に、矢竹が倒れかかり、その笹が覆いかぶさって、葛(かずら)が絡(から)まっていたとのことでした。なぜか女性の墓石側だけがそういう状態だったようです。

父親はそれを見て、息子(私)が夜中に女性の声を聞いて電話してきたことを思い出し、あまりの不思議さに驚いて連絡をしたとのことでした。やはりあの声の主は、何かを訴えるためだったのでしょうか。

不思議なことはそれだけではありませんでした。その旅行中、周りに草木もない、見渡す限りの砂浜で家族と座って海を見ていると、大きくて美しいアゲハ蝶がずっと離れず回りをヒラヒラと飛び回っていました。スピリチュアルの世界では、蝶々というのは霊的存在だそうです。今思うと、お墓がきれいになったお礼をするために現れたのでしょうか。

やはり、この世の中には不思議なことがあるものだ、と改めて痛感しました。

2015年7月19日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(23)」

パリを出発した列車は、ずいぶんと長い間フランス国内を走りました。列車の単調な揺れと振動音に、疲れてもいたので、床に座り込んでリュックを抱えて眠ってしまいました。ふと眼が覚めて前を見ると、途中から乗り込んできた若いカップルが、同じように座って肩を抱き合って眠っていました。隣を見ると、赤居さんがスヤスヤと寝息を立てていました。

列車が突然音を立てて停止しました。スペインとの国境に到着したようでした。イルン(IRUN)という名の駅でした。これからスペインへの入国手続きをするため、パリから乗ってきた列車を降りました。暗い中、目を凝らしてみると、フランス側の駅舎は大理石造りで、スペイン側は粗末なものでした。そんなところにも、まさに両国の経済力の差が出ているようでした。

入国手続きを済ませると、スペイン側の列車に乗り換えました。本当かどうかは判然としませんが、フランス側とスペイン側では線路の幅が違っているので、乗り換えなければならないようでした。新たに乗り込んだ列車は年季の入った車両でした。それだけで、もうスペインへ入国したんだなぁ、と感慨深いものがありました。

今度は座席も空いていました。長い間、床に座っていたので、お尻が痛くなっていました。古くなってスプリングのあまり効かない座席でしたが、床よりはマシでした。車両が古いので、フランス側の列車よりも揺れや振動が大きいように感じました。しばらく走って窓の外を眺めると、一面砂漠のような景色が広がっていました。

太陽が次第に上り始めました。列車内の冷房もあまり効かないようで、暑くなってきました。汗がじっとりと出てきました。しばらく砂漠の中を走っていると、突然、車両の両サイドから白い煙が立ちのぼってきました。故障かな、と思って、隣の座席の乗客に尋ねると、たぶん速く走りすぎたので車輪と車軸との摩擦で煙が出たんだろう、と屈託(くったく)のない顔で笑っていました。唖然(あぜん)としてしまいました。

窓の外を見ると、運転手が車輪のあたりを調べていました。しきりに首を傾げているその様子には、別段、慌てているようでもなく、よくある不具合のようでした。隣の乗客が言ったことも、まんざら冗談ではないのかな、と思えました。その後、何事もなかったように、列車はまた走り出しました。目的地のマドリッドは、まだ遥(はる)か遠くにありました。

(つづく)

2015年7月7日火曜日

「20歳(ハタチ)のころ(22)」

パリでは、結局2泊しました。もっと美術館巡りなどもしたかったのですが、時間的、金銭的制約もあり、希望通りにはいきませんでした。石畳通りに面したカフェに座り、道行く人たちをボンヤリ眺めて過ごしました。

赤居さんはというと、隣でしきりにガイドブック『地球の歩き方』を読んでいました。これから訪ねる場所の確認をしているようでした。まさに赤居さんを頼りにしている旅行でした。赤居さんが一緒に居ないと、確実に路頭に迷ってしまったかもしれません。

パリの街角を彼方此方(アチコチ)歩き回ったので、二人とも汗をかいていました。長髪の頭も次第に痒(かゆ)くなってきていました。そこで市民プールへ行くことにしました。思いっきりシャワーを浴びて、温泉にでも浸かっているように、プールでしばらくプカプカ浮いていました。

身体を洗うのに石鹸を使えたらよかったのですが、そうも出来ませんでしたので、プールの水でゴシゴシと身体を擦(こす)りました。赤居さんも同じように擦っているのを見て、思わず爆笑しました。憧れのパリに来て、プールでしきりに身体をクネクネさせながら擦っているのは、なんとも滑稽でした。まわりにいた人たちに気づかれはしませんでしたが、さぞかし迷惑だったでしょうね。二人ともサッパリとリフレッシュして、次の目的地であるスペインのマドリッド(Madrid)へと向かいました。

夕方、パリの駅を出発しました。マドリッドへは次の日の到着予定でした。夕暮れのパリは美しく、立ち去るのは名残惜しい気持ちがありました。しかし、これからヨーロッパ中を訪ね歩くのですから、そうも言ってはおれません。列車に乗り込むと、座席はどれも一杯でした。仕方ないので、赤居さんと車両どうしの連結部分脇の床に座り込みました。このまま夜通しここで過ごすのかと思うと、憂鬱(ゆううつ)になりました。

時折、立ち上がっては、出口ドアの窓を通して、外を流れる景色を眺めていました。暮れなずむ空には、ぽっかりと銀(しろがね)色の月が浮かんでいました。パリの郊外に出ると、一面、どこまでも田園風景が広がり、フランスは豊かな農業国であるということが分かりました。列車は単調な振動音を繰り返していました。月明かりに照らされた風景を見ていると、旅愁が感じられました。月が列車と並走していました。次に訪ねるマドリッドでは、ブライトンで同居していたサルバに再会する予定でした。手紙には、奥さんと一緒に首を長くして待っている、とありました。

途中、どこの駅かは分かりませんが、若いカップルが白い子犬を連れて、乗り込んできました。二人とも大学生のようでした。私たちの反対側の床に肩を寄せあって座っていました。子犬がそんな二人のまえでクンクンと鼻を鳴らしていました。お互い愛し合っていて、とても幸せそうでした。30数年経ったいまでも、古い映画のワンシーンのように、その情景が浮かんできます。いまでも覚えているのは、そんな二人の姿を横目で見ていて、余程、羨(うらや)ましかったのかもしれません(苦笑)。あの二人はその後、きっと幸せな結婚をしたでしょうね。そして、おそらく犬を飼っていることでしょう。

(つづく)
 

2015年6月18日木曜日

世にも怪奇な物語

昨夜、今まで経験したことのない出来事がありました。いま思い返しても、とても不思議です。まさか自分自身にそんなことが起きたこと自体、いまだに信じられません。

夜中、ベッドにひとりで寝ていると、突然、女性の声が聞こえました。明らかに女性の声でした。左側を下にして横向きに寝ていたので、ちょうど右耳の近くで聞こえたのです。その声は、はっきりと聞こえました。内容はわかりませんでしたが、若い女性の声だったのは確かです。一瞬で眼が覚めました。しかし、あまりの恐怖に眼を開けることができませんでした。

最初は、隣の部屋で寝ている娘のひとりが、また寝言でも言っているのかと思いましたが、その女性の声は明瞭な音で、部屋の中から聞こえているのは明らかでした。寝室のドアは閉まっていましたし、そこには、私しかいませんでした。もちろん、テレビもラジオも消してありました。若い女性の低くて澄んだ声でした。その声は、部屋の中で続いていました。

とうとう自分にも聞こえてしまった、と思って、しばらく怖くて眼を開けることができませんでした。恐怖で身体が震えてきました。その声に対して何も出来ず、ベッドにそのままの状態でじっとしていました。震えが止まりませんでした。すると、声が消えたので、意を決して、眼を開けました。しかし、暗闇で何も見えませんでした。

声が聞こえた方に向かって、「誰ですか? どうしましたか?」、と声をかけました。しかし部屋の中はシーンと静まりかえっていました。『彼女』は、何も答えてくれませんでした。何度か声をかけましたが、沈黙が続きました。すると、何故か今までの恐怖は消え去り、震えもおさまりました。ベッド脇の目覚まし時計を見ると、3時を少し過ぎていました。

一体、彼女は誰だったのでしょうか? また、どうして私に声をかけたのでしょうか? 声の調子は、悲しんでいるようでも、苦しんでいるようでもありませんでした。先祖のひとりが何かを告げに来たのでしょうか? それとも行きずりの霊とたまたま波長が合ってしまったのでしょうか? あくまで幻聴だったということもありえますが、なんとも不思議です。

早速、一階に寝ていた妻を起こしました。何度か女性の声が聞こえた、という私の話を聞いた彼女は、また冗談を言っている、と思っているようでした。しかし異様な体験をした真剣な様子に、本当に起きたことだと信じてくれました。霊の声を聞いたのは、もちろん生まれて初めてでした。

また今夜も彼女は現れるのか、今からドキドキしています。

2015年6月14日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(21)」

パリでは、まずは最初にお決まりの観光コースとして、ルーブル美術館へ行きました。大理石造りの立派な建物で、それぞれの展示スペースの広さには驚きました。やはりルーブルに来たからには、レオナルド・ダビンチ作のモナリザを観なければと思い、眼前にその「謎の微笑」を見たときには感動しました。絵を前に右や左に動いても、モナリザの瞳がどこまでもこちらを見詰めて追いかけてきました。まるで生きているようで、なんとも不思議でした。流石(さすが)は天才ダビンチだ、と感心しました。ふと横を見ると、ハリウッド・スターのジェーン・フォンダが同じようにモナリザを鑑賞していました。

ルーブル美術館は、ミロのビィーナスなどの古代ギリシャの芸術作品や、エジプトの遺跡からナポレオンがかき集めたという数々の品々、そして膨大な数の有名絵画が展示されてあります。それぞれの作品をじっくり鑑賞して歩いていると、一日あっても足りないほどの規模です。残念ながら時間的制約もあり、結局、足早に観て歩かなければなりませんでした。いま思うと、もう少し予定を延ばして滞在する必要があったようです。パリは芸術・文化の街と言われていますが、ルーブル美術館はその象徴的な存在です。

パリのどこをどう訪ねて廻ったのか、いまでは記憶にありません。シャンゼリゼ通りを凱旋門へ向かってブラブラと歩き、お決まりのようにエッフェル塔を手のひらに乗せたような写真を撮ったのは覚えています。それと、「おノボリさん」の文字通り、塔に登ってパリの街を一望しました。セーヌ川沿いを散策し、せむし男で有名なノートルダム寺院も訪ねました。お腹が空いたので、フランスパンのハム・チーズサンドを買って食べました。まるで煉瓦(レンガ)のように硬いパンでした。

芸術家たちの溜り場ともいわれているモンマルトルの丘あたりへも足を運びました。辺りはもう日が暮れて薄暗く、古いアパルトマンの立ち並ぶ路地を赤居さんとトボトボと歩いていると、妖しい娼婦に何度も声をかけられました。一日中、歩き回っていたので、疲労困憊(こんぱい)している二人には、正直もうそんな元気は残っていませんでした(苦笑)。どんな女性でも美人に見える設定条件に、『夜の目、遠の目、傘のうち』、と言われていますが、薄暗い中でみる娼婦たちは、皆すこぶる美人でしたね。

(つづく)

2015年6月7日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(20)」


ドーバー海峡を無事横断しました。

フェリーの乗り心地は上々でした。よほど興奮していたのかもしれません、フランス側のカレーに到着したあたりの記憶が欠落しています。その後、どのようにパリへ向かったのか、遠い微かな記憶を探ってみても、あいにく覚えていません。おそらく夕暮れ迫る頃にカレーへ到着し、入国審査を済ませ、その足でパリ行きの列車に乗ったのでしょう。カルガモの雛(ひな)のように、旅慣れた赤居さんに遅れないように後ろをついてゆくので必死だったのかもしれません。

カレーからパリまでは急行で1時間半ほどで到着します。パリに着くと、辺りはすでに暗く、やっと安ホテルを探して、ベッドへもぐりこみました。情景の記憶は曖昧(あいまい)ですが、臭いについての記憶は比較的残るようで、ベッドに入ったときに嗅いだ饐(す)えたようなカビの臭いを覚えています。あくまで学生の貧乏旅行ですから、文句はいえません。一応、最初の目的地であるパリへ無事にたどり着いたことにホッとしました。

そんな次の日の早朝、突然ものすごい音がして、ベッドから跳ね起きました。何事が起きたのかと、一気に窓を開けてみると、その目の前に教会の巨大な鐘(かね)がありました。ゴゥオーン・ゴゥオーンと荘厳な鐘の音がホテルの部屋中に響きわたりました。窓際に立って、呆然とその鐘を見つめていました。パリの朝日がその鐘を輝かせていました。

昨晩ホテルにチェックインしたときには夜も更けていたので、ホテルの目の前が教会の尖塔であることに気づきませんでした。ただ驚いてしまって、すっかり眼も覚めてしまいました。パリでの第一日は、こうして始まりました。まるでヨーロッパ旅行スタートの号砲のようです。

後年、同じような経験をしたことがあります。結婚してまだ日も浅い頃、神戸の祖母が亡くなりました。その葬儀は禅寺で行われ、新妻と本堂に泊り込みました。するとまだ夜も明けやらぬ頃、突然、寺の釣鐘(つりがね)がすぐ近くで鳴り響きました。その轟音に即座に飛び起きてしまいましたが、となりで寝ていた妻はスヤスヤと寝息を立てていました。まるで何事も起こっていないというように、ピクリともしていませんでした。その安らかな寝顔を眺めながら、これはスゴイ女を嫁にもらった、と苦笑しました。

(つづく)
 

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