2015年6月18日木曜日

世にも怪奇な物語

昨夜、今まで経験したことのない出来事がありました。いま思い返しても、とても不思議です。まさか自分自身にそんなことが起きたこと自体、いまだに信じられません。

夜中、ベッドにひとりで寝ていると、突然、女性の声が聞こえました。明らかに女性の声でした。左側を下にして横向きに寝ていたので、ちょうど右耳の近くで聞こえたのです。その声は、はっきりと聞こえました。内容はわかりませんでしたが、若い女性の声だったのは確かです。一瞬で眼が覚めました。しかし、あまりの恐怖に眼を開けることができませんでした。

最初は、隣の部屋で寝ている娘のひとりが、また寝言でも言っているのかと思いましたが、その女性の声は明瞭な音で、部屋の中から聞こえているのは明らかでした。寝室のドアは閉まっていましたし、そこには、私しかいませんでした。もちろん、テレビもラジオも消してありました。若い女性の低くて澄んだ声でした。その声は、部屋の中で続いていました。

とうとう自分にも聞こえてしまった、と思って、しばらく怖くて眼を開けることができませんでした。恐怖で身体が震えてきました。その声に対して何も出来ず、ベッドにそのままの状態でじっとしていました。震えが止まりませんでした。すると、声が消えたので、意を決して、眼を開けました。しかし、暗闇で何も見えませんでした。

声が聞こえた方に向かって、「誰ですか? どうしましたか?」、と声をかけました。しかし部屋の中はシーンと静まりかえっていました。『彼女』は、何も答えてくれませんでした。何度か声をかけましたが、沈黙が続きました。すると、何故か今までの恐怖は消え去り、震えもおさまりました。ベッド脇の目覚まし時計を見ると、3時を少し過ぎていました。

一体、彼女は誰だったのでしょうか? また、どうして私に声をかけたのでしょうか? 声の調子は、悲しんでいるようでも、苦しんでいるようでもありませんでした。先祖のひとりが何かを告げに来たのでしょうか? それとも行きずりの霊とたまたま波長が合ってしまったのでしょうか? あくまで幻聴だったということもありえますが、なんとも不思議です。

早速、一階に寝ていた妻を起こしました。何度か女性の声が聞こえた、という私の話を聞いた彼女は、また冗談を言っている、と思っているようでした。しかし異様な体験をした真剣な様子に、本当に起きたことだと信じてくれました。霊の声を聞いたのは、もちろん生まれて初めてでした。

また今夜も彼女は現れるのか、今からドキドキしています。

2015年6月14日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(21)」

パリでは、まずは最初にお決まりの観光コースとして、ルーブル美術館へ行きました。大理石造りの立派な建物で、それぞれの展示スペースの広さには驚きました。やはりルーブルに来たからには、レオナルド・ダビンチ作のモナリザを観なければと思い、眼前にその「謎の微笑」を見たときには感動しました。絵を前に右や左に動いても、モナリザの瞳がどこまでもこちらを見詰めて追いかけてきました。まるで生きているようで、なんとも不思議でした。流石(さすが)は天才ダビンチだ、と感心しました。ふと横を見ると、ハリウッド・スターのジェーン・フォンダが同じようにモナリザを鑑賞していました。

ルーブル美術館は、ミロのビィーナスなどの古代ギリシャの芸術作品や、エジプトの遺跡からナポレオンがかき集めたという数々の品々、そして膨大な数の有名絵画が展示されてあります。それぞれの作品をじっくり鑑賞して歩いていると、一日あっても足りないほどの規模です。残念ながら時間的制約もあり、結局、足早に観て歩かなければなりませんでした。いま思うと、もう少し予定を延ばして滞在する必要があったようです。パリは芸術・文化の街と言われていますが、ルーブル美術館はその象徴的な存在です。

パリのどこをどう訪ねて廻ったのか、いまでは記憶にありません。シャンゼリゼ通りを凱旋門へ向かってブラブラと歩き、お決まりのようにエッフェル塔を手のひらに乗せたような写真を撮ったのは覚えています。それと、「おノボリさん」の文字通り、塔に登ってパリの街を一望しました。セーヌ川沿いを散策し、せむし男で有名なノートルダム寺院も訪ねました。お腹が空いたので、フランスパンのハム・チーズサンドを買って食べました。まるで煉瓦(レンガ)のように硬いパンでした。

芸術家たちの溜り場ともいわれているモンマルトルの丘あたりへも足を運びました。辺りはもう日が暮れて薄暗く、古いアパルトマンの立ち並ぶ路地を赤居さんとトボトボと歩いていると、妖しい娼婦に何度も声をかけられました。一日中、歩き回っていたので、疲労困憊(こんぱい)している二人には、正直もうそんな元気は残っていませんでした(苦笑)。どんな女性でも美人に見える設定条件に、『夜の目、遠の目、傘のうち』、と言われていますが、薄暗い中でみる娼婦たちは、皆すこぶる美人でしたね。

(つづく)

2015年6月7日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(20)」


ドーバー海峡を無事横断しました。

フェリーの乗り心地は上々でした。よほど興奮していたのかもしれません、フランス側のカレーに到着したあたりの記憶が欠落しています。その後、どのようにパリへ向かったのか、遠い微かな記憶を探ってみても、あいにく覚えていません。おそらく夕暮れ迫る頃にカレーへ到着し、入国審査を済ませ、その足でパリ行きの列車に乗ったのでしょう。カルガモの雛(ひな)のように、旅慣れた赤居さんに遅れないように後ろをついてゆくので必死だったのかもしれません。

カレーからパリまでは急行で1時間半ほどで到着します。パリに着くと、辺りはすでに暗く、やっと安ホテルを探して、ベッドへもぐりこみました。情景の記憶は曖昧(あいまい)ですが、臭いについての記憶は比較的残るようで、ベッドに入ったときに嗅いだ饐(す)えたようなカビの臭いを覚えています。あくまで学生の貧乏旅行ですから、文句はいえません。一応、最初の目的地であるパリへ無事にたどり着いたことにホッとしました。

そんな次の日の早朝、突然ものすごい音がして、ベッドから跳ね起きました。何事が起きたのかと、一気に窓を開けてみると、その目の前に教会の巨大な鐘(かね)がありました。ゴゥオーン・ゴゥオーンと荘厳な鐘の音がホテルの部屋中に響きわたりました。窓際に立って、呆然とその鐘を見つめていました。パリの朝日がその鐘を輝かせていました。

昨晩ホテルにチェックインしたときには夜も更けていたので、ホテルの目の前が教会の尖塔であることに気づきませんでした。ただ驚いてしまって、すっかり眼も覚めてしまいました。パリでの第一日は、こうして始まりました。まるでヨーロッパ旅行スタートの号砲のようです。

後年、同じような経験をしたことがあります。結婚してまだ日も浅い頃、神戸の祖母が亡くなりました。その葬儀は禅寺で行われ、新妻と本堂に泊り込みました。するとまだ夜も明けやらぬ頃、突然、寺の釣鐘(つりがね)がすぐ近くで鳴り響きました。その轟音に即座に飛び起きてしまいましたが、となりで寝ていた妻はスヤスヤと寝息を立てていました。まるで何事も起こっていないというように、ピクリともしていませんでした。その安らかな寝顔を眺めながら、これはスゴイ女を嫁にもらった、と苦笑しました。

(つづく)
 

2015年5月27日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(19)」

結局、ヨーロッパ旅行へは、赤居さんと二人で出発することになりました。関戸さんは、あいにく夏季特別講習の予定が入ってしまって、私たちより遅れてイギリスを出発することになりました。イタリアあたりで会おうということになりました。もう30年以上も前のことですから、実際、何処でどのように再会したのか記憶が欠落していて、どうしても思い出せません。当然、携帯電話もない時代ですから、どのようにお互い連絡をとりあって落ち会ったのか、まったく憶えていません。

関戸さんが始めから同行しないのは至極残念でした。この旅行のもともとの発案者であるにも拘(かかわ)らず、一緒に出発できないことになり、関戸さんはしきりに恐縮していました。しかし、再会を期して赤居さんとロンドンへ向けて出発しました。これからの旅がどのような展開になるのか、炭酸水の気泡が沸々と湧き立つように、胸は期待で次第に膨らんでいきました。

ケンブリッジ駅から南に真っ直ぐロンドンのリバプール・ストリート駅(Liverpool Street Station)を目指しました。到着後、地下鉄に乗り換えてヴィクトリア駅(Victoria Station)まで行き、それから東へと向きを変え、フェリー乗り場のある東海岸のドーバー(Dover)へと向かいました。ドーバーは、海峡を渡ってフランス側のカレー(Calais)へと向かう、イギリス側の出発地点です。1994年に英仏海峡トンネル(英国名 the Channel Tunnel 仏名 le Tunnel sous la Manche)が開通し、いまでは列車によって両国は繋がっていますが、その当時はもちろんありませんでした。

紀元前55年、かの有名なローマ帝国のシーザーが、このドーバーの北の海岸に上陸しています。彼は、その当時のイギリスを、ローマ帝国の属州<ブリタニア>とする 端緒をつくっています。また17世紀には、革命によって大陸へ亡命していたチャールズ2世が、1660年の王政復古によって帰国の第一歩をしるしたのもこのドーバーの海岸です。大勢の群衆、貴族、軍隊に埋めつくされた歓喜の中を、王政復古の立役者ともいえるモンク将軍が渚(なぎさ)まで国王を出迎えています。

フェリー乗り場は、同じ学生たちの旅行者で溢れかえっていました。みんな判で押したように同じようなヨレヨレのTシャツに擦り切れたジーンズといった格好でした。背中には、同様に大きめのリュックを背負っていました。かれらも夏休みを利用して、ヨーロッパ各地を旅行するようでした。フェリーや鉄道を乗り継いで気ままに旅をするというのは、やはり時間はたっぷりあるけど、フトコロは寂しいという同じ立場のようで、妙な仲間意識を覚えました。

出国手続きを済ませると、'Sea Link'と船腹に大きく書かれたフェリーは、ゆっくりと岸壁を離れました。一路、フランス側のカレーへとその船先を進め、ドーバー海峡を渡ります。振り返ると、イギリス側の白い石灰岩の海岸線が望めました。不思議なことに、故郷を離れるような想いに駆られました。くだけ散る波の音と海鳥の鳴き声があたりに響いていました。これから始まるヨーロッパを巡る旅に、一抹(いちまつ)の不安や期待が交錯していました。赤居さんとふたり、船のデッキに立ち、全身に潮風を浴びていました。イギリスは、次第に離れていきました。

(つづく)

2015年5月13日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(18)」

ヨーロッパ旅行への準備を始めました。あくまで野宿覚悟の貧乏旅行ですから、まるでヒマラヤにでも登るのかと思うほどの大きめのバックパックや寝袋を購入しました。それに折角の旅行ですから、記念になるような写真を撮るため、ライオン・ヤード近くのカメラ店で新たに一眼レフを購入しました。もちろんメイド・イン・ジャパン(Made in Japan)です。店員も、日本で買った方が安いんじゃないか、と冗談を言って笑っていました。それもそうだな、と思いました。それと同時に、少々散財したかな、と後悔しました。

赤居さんの練りあげた旅行計画は、次のようなものでした。まずはロンドンへ列車で行って東へと向きを変え、フェリーでドーバー海峡を渡ってフランスは花のパリを訪ねる。ルーブル美術館でモナリザを鑑賞して芸術的感性を刺激し、シャンゼリゼ通りをぶらついて凱旋門を見上げ、エッフェル塔に登ったあと、モンマルトルの丘のカフェで詩想に耽る(ふけ)る。そして一路、列車でスペインのマドリッド、トレド、そしてバルセロナへと足を伸ばして建設中のサクラダ・ファミリア教会を見物し、そのあと地中海沿いにモナコやフランスのニースに立ち寄って、ビーチでビキニやトップレスのオネェイちゃん達を眺めながら眼の保養をする。

イタリアに入ってからは、ジェノア、ミラノ、ローマ、フィレッチェと歴史遺跡群を訪ねて知的興奮を覚え、水の都ベニスから一路北へ向かって、衝立(ついたて)のように眼前に聳(そび)えるスイス・アルプスを仰ぎ見て感動し、オーストリアの音楽の都ザルツブルグやウイーンへと巡ってクラッシック愛好家のような振りをしてワルツなどを堪能する。その後ドイツへ向かって、ミューヘンのビール祭りでたらふく美味しいビールを飲み、フランクフルトで地元本場のソーセージを食して英気を満たし、オランダのアムステルダムでは運河沿いの飾り窓を巡って性風俗の社会見学をする、等など。

正直、ポルトガルのリスボンやギリシャのアテネへも足を伸ばしたかったのですが、知り合った両国の留学生もいなかったし、時間的・金銭的余裕もなかったので、泣く泣く諦めました。しかし、ほぼヨーロッパ全域をカバーした旅程でした。途中、それぞれの友達がいたので、別行動をとることもありましたが、まさに三人での珍道中となりました。旅は人生を豊かにする、と言いますが、まさしく貴重な体験をすることができました。

(つづく)

2015年5月4日月曜日

「20歳(ハタチ)のころ(17)」


関戸さんに関しての話は尽きません。人間的にも非常に魅力的でした。長野の実家は運送業を営んでいるとのことでした。その関係もあって、大学卒業後は日本通運本社に就職したそうです。入社式では、新入社員総代として挨拶をしたようです。英国留学によって得られた貴重な財産の一つとして、関戸さんと知り合えたことだったように思えます。人生において、人との出会いは大切です。そのことをつくづく感じさせます。

当初から関戸さんは、ケンブリッジから英国北西部の大学へ転入する予定でした。かれの留学の目的のひとつでもあった、本場のラグビーを体験したいとの希望を叶えるためです。国際関係論を学んで、政治の道へ進みたいという希望も語っていました。日本へ帰国した後は、かねてから交際していた彼女と結婚し、その長野での結婚式には、私も九州から参列しました。関戸さん夫婦はその後、仕事の関係上、シンガポールでしばらく生活したようです。

ある天気の良い日、関戸さんといつものように近所のパーカーズ・ピースと呼ばれる広い公園の芝生に腰をおろして、チャーシュー・フライド・ライスを食べていました。見上げると、真っ青な空が広がっていました。そよ風が吹いていました。そんな中、空腹も満たされ、ふたりで他愛もない話をしていると、関戸さんがふいに、夏休みを利用してヨーロッパを旅行してみないか、と芝生に横になりながら呟きました。もちろん赤居さんも一緒です。ワインバー『シェイズ』で親しくなった留学生たちを訪ねるのもいいな、と笑っていました。夏休みになると、一旦、母国へ帰る留学生たちも多いからです。

それを聞いて、「せっかくイギリスにいるんだから、3人でヨーロッパを旅するのも面白いかもしれません」、と即答しました。、関戸さんはそれを聞くと、赤居さんの都合も確かめず、「よし、決まった!」、と両手をパチンと叩いて起き上がりました。それからは、それぞれの希望の訪問地を持ち寄り、旅行の予定を立て始めました。しかし結局は、赤居さんがすべての計画を練り、それに沿って3人は旅を続けることとなりました。

(つづく)

2015年4月25日土曜日

「20歳(ハタチ)のころ(16)」

ケンブリッジでの生活もすっかり慣れ、留学生活を満喫しました。

授業が終わると、ライオン・ヤード(Lion Yard)にある本屋や図書館へ直行しました。学生街ということもあり、図書館内の施設や蔵書も非常に充実しており、様々な本を時を忘れて読んだ記憶があります。まさに、お金はないけど、時間は有り余るほどある、といった生活でした。

殊に、歴史家G.M.トレヴェリアン(G.M.Trevelyan)の『イギリス史』は愛読書でした。辞書を頼りに、没頭しながら読みました。その中でも、ノルマンディー候ウイリアム征服王の記述は、とても興味深いものがありました。夫婦ともども異常なほど小柄で、殊に征服王はその晩年、腹部が異様に膨らみ、亡くなったときに柩(ひつぎ)に収まりきらず、無理に押し込むとお腹が破裂して、あたり一面、異常なほどの臭気が漂ったそうです。ロンドンへの小旅行の折、ウエストミンスター寺院内の奥でウイリアム王夫妻の柩(ひつぎ)を見ましたが、やはりその小ささには驚きました。まるで子供のようでした。

関戸さんは、大学教授のお宅にホームステイをしていました。ケム川(Cam River)沿いの白壁に大きな木組みの家だったような記憶があります。関戸さんは、その明るくて、ひょうきんな性格のおかげで、ホームステイ家族みんなからも親しくされていたようです。神経質そうな銀髪の奥さんと、中学生くらいの可愛い娘がいるといっていました。その娘から日本について様々な質問を浴びせられ、ひとつひとつ答えるのに苦労している、と笑っていました。

その質問のひとつに、「どうして日本人は電話をしているときも、受話器を持ったままお辞儀をするのか?」、と訊いてきたそうです。関戸さんがどのように返答したかは覚えていません。関戸さんによると、その娘は学校での成績も優秀らしく、夜中の3時くらいまでひたすら本を読んでいると驚いていました。ある日、「三島由紀夫の作品をどう思うか?」と訊かれたそうです。イギリスの中学生が、遠い日本の三島由紀夫をすでに読んでいるという事実に愕然(がくぜん)としたそうです。

(つづく)

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