パリを出発した列車は、ずいぶんと長い間フランス国内を走りました。列車の単調な揺れと振動音に、疲れてもいたので、床に座り込んでリュックを抱えて眠ってしまいました。ふと眼が覚めて前を見ると、途中から乗り込んできた若いカップルが、同じように座って肩を抱き合って眠っていました。隣を見ると、赤居さんがスヤスヤと寝息を立てていました。
列車が突然音を立てて停止しました。スペインとの国境に到着したようでした。イルン(IRUN)という名の駅でした。これからスペインへの入国手続きをするため、パリから乗ってきた列車を降りました。暗い中、目を凝らしてみると、フランス側の駅舎は大理石造りで、スペイン側は粗末なものでした。そんなところにも、まさに両国の経済力の差が出ているようでした。
入国手続きを済ませると、スペイン側の列車に乗り換えました。本当かどうかは判然としませんが、フランス側とスペイン側では線路の幅が違っているので、乗り換えなければならないようでした。新たに乗り込んだ列車は年季の入った車両でした。それだけで、もうスペインへ入国したんだなぁ、と感慨深いものがありました。
今度は座席も空いていました。長い間、床に座っていたので、お尻が痛くなっていました。古くなってスプリングのあまり効かない座席でしたが、床よりはマシでした。車両が古いので、フランス側の列車よりも揺れや振動が大きいように感じました。しばらく走って窓の外を眺めると、一面砂漠のような景色が広がっていました。
太陽が次第に上り始めました。列車内の冷房もあまり効かないようで、暑くなってきました。汗がじっとりと出てきました。しばらく砂漠の中を走っていると、突然、車両の両サイドから白い煙が立ちのぼってきました。故障かな、と思って、隣の座席の乗客に尋ねると、たぶん速く走りすぎたので車輪と車軸との摩擦で煙が出たんだろう、と屈託(くったく)のない顔で笑っていました。唖然(あぜん)としてしまいました。
窓の外を見ると、運転手が車輪のあたりを調べていました。しきりに首を傾げているその様子には、別段、慌てているようでもなく、よくある不具合のようでした。隣の乗客が言ったことも、まんざら冗談ではないのかな、と思えました。その後、何事もなかったように、列車はまた走り出しました。目的地のマドリッドは、まだ遥(はる)か遠くにありました。
(つづく)
2015年7月19日日曜日
2015年7月7日火曜日
「20歳(ハタチ)のころ(22)」
パリでは、結局2泊しました。もっと美術館巡りなどもしたかったのですが、時間的、金銭的制約もあり、希望通りにはいきませんでした。石畳通りに面したカフェに座り、道行く人たちをボンヤリ眺めて過ごしました。
赤居さんはというと、隣でしきりにガイドブック『地球の歩き方』を読んでいました。これから訪ねる場所の確認をしているようでした。まさに赤居さんを頼りにしている旅行でした。赤居さんが一緒に居ないと、確実に路頭に迷ってしまったかもしれません。
パリの街角を彼方此方(アチコチ)歩き回ったので、二人とも汗をかいていました。長髪の頭も次第に痒(かゆ)くなってきていました。そこで市民プールへ行くことにしました。思いっきりシャワーを浴びて、温泉にでも浸かっているように、プールでしばらくプカプカ浮いていました。
身体を洗うのに石鹸を使えたらよかったのですが、そうも出来ませんでしたので、プールの水でゴシゴシと身体を擦(こす)りました。赤居さんも同じように擦っているのを見て、思わず爆笑しました。憧れのパリに来て、プールでしきりに身体をクネクネさせながら擦っているのは、なんとも滑稽でした。まわりにいた人たちに気づかれはしませんでしたが、さぞかし迷惑だったでしょうね。二人ともサッパリとリフレッシュして、次の目的地であるスペインのマドリッド(Madrid)へと向かいました。
夕方、パリの駅を出発しました。マドリッドへは次の日の到着予定でした。夕暮れのパリは美しく、立ち去るのは名残惜しい気持ちがありました。しかし、これからヨーロッパ中を訪ね歩くのですから、そうも言ってはおれません。列車に乗り込むと、座席はどれも一杯でした。仕方ないので、赤居さんと車両どうしの連結部分脇の床に座り込みました。このまま夜通しここで過ごすのかと思うと、憂鬱(ゆううつ)になりました。
時折、立ち上がっては、出口ドアの窓を通して、外を流れる景色を眺めていました。暮れなずむ空には、ぽっかりと銀(しろがね)色の月が浮かんでいました。パリの郊外に出ると、一面、どこまでも田園風景が広がり、フランスは豊かな農業国であるということが分かりました。列車は単調な振動音を繰り返していました。月明かりに照らされた風景を見ていると、旅愁が感じられました。月が列車と並走していました。次に訪ねるマドリッドでは、ブライトンで同居していたサルバに再会する予定でした。手紙には、奥さんと一緒に首を長くして待っている、とありました。
途中、どこの駅かは分かりませんが、若いカップルが白い子犬を連れて、乗り込んできました。二人とも大学生のようでした。私たちの反対側の床に肩を寄せあって座っていました。子犬がそんな二人のまえでクンクンと鼻を鳴らしていました。お互い愛し合っていて、とても幸せそうでした。30数年経ったいまでも、古い映画のワンシーンのように、その情景が浮かんできます。いまでも覚えているのは、そんな二人の姿を横目で見ていて、余程、羨(うらや)ましかったのかもしれません(苦笑)。あの二人はその後、きっと幸せな結婚をしたでしょうね。そして、おそらく犬を飼っていることでしょう。
(つづく)
赤居さんはというと、隣でしきりにガイドブック『地球の歩き方』を読んでいました。これから訪ねる場所の確認をしているようでした。まさに赤居さんを頼りにしている旅行でした。赤居さんが一緒に居ないと、確実に路頭に迷ってしまったかもしれません。
パリの街角を彼方此方(アチコチ)歩き回ったので、二人とも汗をかいていました。長髪の頭も次第に痒(かゆ)くなってきていました。そこで市民プールへ行くことにしました。思いっきりシャワーを浴びて、温泉にでも浸かっているように、プールでしばらくプカプカ浮いていました。
身体を洗うのに石鹸を使えたらよかったのですが、そうも出来ませんでしたので、プールの水でゴシゴシと身体を擦(こす)りました。赤居さんも同じように擦っているのを見て、思わず爆笑しました。憧れのパリに来て、プールでしきりに身体をクネクネさせながら擦っているのは、なんとも滑稽でした。まわりにいた人たちに気づかれはしませんでしたが、さぞかし迷惑だったでしょうね。二人ともサッパリとリフレッシュして、次の目的地であるスペインのマドリッド(Madrid)へと向かいました。
夕方、パリの駅を出発しました。マドリッドへは次の日の到着予定でした。夕暮れのパリは美しく、立ち去るのは名残惜しい気持ちがありました。しかし、これからヨーロッパ中を訪ね歩くのですから、そうも言ってはおれません。列車に乗り込むと、座席はどれも一杯でした。仕方ないので、赤居さんと車両どうしの連結部分脇の床に座り込みました。このまま夜通しここで過ごすのかと思うと、憂鬱(ゆううつ)になりました。
時折、立ち上がっては、出口ドアの窓を通して、外を流れる景色を眺めていました。暮れなずむ空には、ぽっかりと銀(しろがね)色の月が浮かんでいました。パリの郊外に出ると、一面、どこまでも田園風景が広がり、フランスは豊かな農業国であるということが分かりました。列車は単調な振動音を繰り返していました。月明かりに照らされた風景を見ていると、旅愁が感じられました。月が列車と並走していました。次に訪ねるマドリッドでは、ブライトンで同居していたサルバに再会する予定でした。手紙には、奥さんと一緒に首を長くして待っている、とありました。
途中、どこの駅かは分かりませんが、若いカップルが白い子犬を連れて、乗り込んできました。二人とも大学生のようでした。私たちの反対側の床に肩を寄せあって座っていました。子犬がそんな二人のまえでクンクンと鼻を鳴らしていました。お互い愛し合っていて、とても幸せそうでした。30数年経ったいまでも、古い映画のワンシーンのように、その情景が浮かんできます。いまでも覚えているのは、そんな二人の姿を横目で見ていて、余程、羨(うらや)ましかったのかもしれません(苦笑)。あの二人はその後、きっと幸せな結婚をしたでしょうね。そして、おそらく犬を飼っていることでしょう。
(つづく)
2015年6月18日木曜日
世にも怪奇な物語
昨夜、今まで経験したことのない出来事がありました。いま思い返しても、とても不思議です。まさか自分自身にそんなことが起きたこと自体、いまだに信じられません。
夜中、ベッドにひとりで寝ていると、突然、女性の声が聞こえました。明らかに女性の声でした。左側を下にして横向きに寝ていたので、ちょうど右耳の近くで聞こえたのです。その声は、はっきりと聞こえました。内容はわかりませんでしたが、若い女性の声だったのは確かです。一瞬で眼が覚めました。しかし、あまりの恐怖に眼を開けることができませんでした。
最初は、隣の部屋で寝ている娘のひとりが、また寝言でも言っているのかと思いましたが、その女性の声は明瞭な音で、部屋の中から聞こえているのは明らかでした。寝室のドアは閉まっていましたし、そこには、私しかいませんでした。もちろん、テレビもラジオも消してありました。若い女性の低くて澄んだ声でした。その声は、部屋の中で続いていました。
とうとう自分にも聞こえてしまった、と思って、しばらく怖くて眼を開けることができませんでした。恐怖で身体が震えてきました。その声に対して何も出来ず、ベッドにそのままの状態でじっとしていました。震えが止まりませんでした。すると、声が消えたので、意を決して、眼を開けました。しかし、暗闇で何も見えませんでした。
声が聞こえた方に向かって、「誰ですか? どうしましたか?」、と声をかけました。しかし部屋の中はシーンと静まりかえっていました。『彼女』は、何も答えてくれませんでした。何度か声をかけましたが、沈黙が続きました。すると、何故か今までの恐怖は消え去り、震えもおさまりました。ベッド脇の目覚まし時計を見ると、3時を少し過ぎていました。
一体、彼女は誰だったのでしょうか? また、どうして私に声をかけたのでしょうか? 声の調子は、悲しんでいるようでも、苦しんでいるようでもありませんでした。先祖のひとりが何かを告げに来たのでしょうか? それとも行きずりの霊とたまたま波長が合ってしまったのでしょうか? あくまで幻聴だったということもありえますが、なんとも不思議です。
早速、一階に寝ていた妻を起こしました。何度か女性の声が聞こえた、という私の話を聞いた彼女は、また冗談を言っている、と思っているようでした。しかし異様な体験をした真剣な様子に、本当に起きたことだと信じてくれました。霊の声を聞いたのは、もちろん生まれて初めてでした。
また今夜も彼女は現れるのか、今からドキドキしています。
夜中、ベッドにひとりで寝ていると、突然、女性の声が聞こえました。明らかに女性の声でした。左側を下にして横向きに寝ていたので、ちょうど右耳の近くで聞こえたのです。その声は、はっきりと聞こえました。内容はわかりませんでしたが、若い女性の声だったのは確かです。一瞬で眼が覚めました。しかし、あまりの恐怖に眼を開けることができませんでした。
最初は、隣の部屋で寝ている娘のひとりが、また寝言でも言っているのかと思いましたが、その女性の声は明瞭な音で、部屋の中から聞こえているのは明らかでした。寝室のドアは閉まっていましたし、そこには、私しかいませんでした。もちろん、テレビもラジオも消してありました。若い女性の低くて澄んだ声でした。その声は、部屋の中で続いていました。
とうとう自分にも聞こえてしまった、と思って、しばらく怖くて眼を開けることができませんでした。恐怖で身体が震えてきました。その声に対して何も出来ず、ベッドにそのままの状態でじっとしていました。震えが止まりませんでした。すると、声が消えたので、意を決して、眼を開けました。しかし、暗闇で何も見えませんでした。
声が聞こえた方に向かって、「誰ですか? どうしましたか?」、と声をかけました。しかし部屋の中はシーンと静まりかえっていました。『彼女』は、何も答えてくれませんでした。何度か声をかけましたが、沈黙が続きました。すると、何故か今までの恐怖は消え去り、震えもおさまりました。ベッド脇の目覚まし時計を見ると、3時を少し過ぎていました。
一体、彼女は誰だったのでしょうか? また、どうして私に声をかけたのでしょうか? 声の調子は、悲しんでいるようでも、苦しんでいるようでもありませんでした。先祖のひとりが何かを告げに来たのでしょうか? それとも行きずりの霊とたまたま波長が合ってしまったのでしょうか? あくまで幻聴だったということもありえますが、なんとも不思議です。
早速、一階に寝ていた妻を起こしました。何度か女性の声が聞こえた、という私の話を聞いた彼女は、また冗談を言っている、と思っているようでした。しかし異様な体験をした真剣な様子に、本当に起きたことだと信じてくれました。霊の声を聞いたのは、もちろん生まれて初めてでした。
また今夜も彼女は現れるのか、今からドキドキしています。
2015年6月14日日曜日
「20歳(ハタチ)のころ(21)」
パリでは、まずは最初にお決まりの観光コースとして、ルーブル美術館へ行きました。大理石造りの立派な建物で、それぞれの展示スペースの広さには驚きました。やはりルーブルに来たからには、レオナルド・ダビンチ作のモナリザを観なければと思い、眼前にその「謎の微笑」を見たときには感動しました。絵を前に右や左に動いても、モナリザの瞳がどこまでもこちらを見詰めて追いかけてきました。まるで生きているようで、なんとも不思議でした。流石(さすが)は天才ダビンチだ、と感心しました。ふと横を見ると、ハリウッド・スターのジェーン・フォンダが同じようにモナリザを鑑賞していました。
ルーブル美術館は、ミロのビィーナスなどの古代ギリシャの芸術作品や、エジプトの遺跡からナポレオンがかき集めたという数々の品々、そして膨大な数の有名絵画が展示されてあります。それぞれの作品をじっくり鑑賞して歩いていると、一日あっても足りないほどの規模です。残念ながら時間的制約もあり、結局、足早に観て歩かなければなりませんでした。いま思うと、もう少し予定を延ばして滞在する必要があったようです。パリは芸術・文化の街と言われていますが、ルーブル美術館はその象徴的な存在です。
パリのどこをどう訪ねて廻ったのか、いまでは記憶にありません。シャンゼリゼ通りを凱旋門へ向かってブラブラと歩き、お決まりのようにエッフェル塔を手のひらに乗せたような写真を撮ったのは覚えています。それと、「おノボリさん」の文字通り、塔に登ってパリの街を一望しました。セーヌ川沿いを散策し、せむし男で有名なノートルダム寺院も訪ねました。お腹が空いたので、フランスパンのハム・チーズサンドを買って食べました。まるで煉瓦(レンガ)のように硬いパンでした。
芸術家たちの溜り場ともいわれているモンマルトルの丘あたりへも足を運びました。辺りはもう日が暮れて薄暗く、古いアパルトマンの立ち並ぶ路地を赤居さんとトボトボと歩いていると、妖しい娼婦に何度も声をかけられました。一日中、歩き回っていたので、疲労困憊(こんぱい)している二人には、正直もうそんな元気は残っていませんでした(苦笑)。どんな女性でも美人に見える設定条件に、『夜の目、遠の目、傘のうち』、と言われていますが、薄暗い中でみる娼婦たちは、皆すこぶる美人でしたね。
(つづく)
ルーブル美術館は、ミロのビィーナスなどの古代ギリシャの芸術作品や、エジプトの遺跡からナポレオンがかき集めたという数々の品々、そして膨大な数の有名絵画が展示されてあります。それぞれの作品をじっくり鑑賞して歩いていると、一日あっても足りないほどの規模です。残念ながら時間的制約もあり、結局、足早に観て歩かなければなりませんでした。いま思うと、もう少し予定を延ばして滞在する必要があったようです。パリは芸術・文化の街と言われていますが、ルーブル美術館はその象徴的な存在です。
パリのどこをどう訪ねて廻ったのか、いまでは記憶にありません。シャンゼリゼ通りを凱旋門へ向かってブラブラと歩き、お決まりのようにエッフェル塔を手のひらに乗せたような写真を撮ったのは覚えています。それと、「おノボリさん」の文字通り、塔に登ってパリの街を一望しました。セーヌ川沿いを散策し、せむし男で有名なノートルダム寺院も訪ねました。お腹が空いたので、フランスパンのハム・チーズサンドを買って食べました。まるで煉瓦(レンガ)のように硬いパンでした。
芸術家たちの溜り場ともいわれているモンマルトルの丘あたりへも足を運びました。辺りはもう日が暮れて薄暗く、古いアパルトマンの立ち並ぶ路地を赤居さんとトボトボと歩いていると、妖しい娼婦に何度も声をかけられました。一日中、歩き回っていたので、疲労困憊(こんぱい)している二人には、正直もうそんな元気は残っていませんでした(苦笑)。どんな女性でも美人に見える設定条件に、『夜の目、遠の目、傘のうち』、と言われていますが、薄暗い中でみる娼婦たちは、皆すこぶる美人でしたね。
(つづく)
2015年6月7日日曜日
「20歳(ハタチ)のころ(20)」
ドーバー海峡を無事横断しました。
フェリーの乗り心地は上々でした。よほど興奮していたのかもしれません、フランス側のカレーに到着したあたりの記憶が欠落しています。その後、どのようにパリへ向かったのか、遠い微かな記憶を探ってみても、あいにく覚えていません。おそらく夕暮れ迫る頃にカレーへ到着し、入国審査を済ませ、その足でパリ行きの列車に乗ったのでしょう。カルガモの雛(ひな)のように、旅慣れた赤居さんに遅れないように後ろをついてゆくので必死だったのかもしれません。
カレーからパリまでは急行で1時間半ほどで到着します。パリに着くと、辺りはすでに暗く、やっと安ホテルを探して、ベッドへもぐりこみました。情景の記憶は曖昧(あいまい)ですが、臭いについての記憶は比較的残るようで、ベッドに入ったときに嗅いだ饐(す)えたようなカビの臭いを覚えています。あくまで学生の貧乏旅行ですから、文句はいえません。一応、最初の目的地であるパリへ無事にたどり着いたことにホッとしました。
そんな次の日の早朝、突然ものすごい音がして、ベッドから跳ね起きました。何事が起きたのかと、一気に窓を開けてみると、その目の前に教会の巨大な鐘(かね)がありました。ゴゥオーン・ゴゥオーンと荘厳な鐘の音がホテルの部屋中に響きわたりました。窓際に立って、呆然とその鐘を見つめていました。パリの朝日がその鐘を輝かせていました。
昨晩ホテルにチェックインしたときには夜も更けていたので、ホテルの目の前が教会の尖塔であることに気づきませんでした。ただ驚いてしまって、すっかり眼も覚めてしまいました。パリでの第一日は、こうして始まりました。まるでヨーロッパ旅行スタートの号砲のようです。
後年、同じような経験をしたことがあります。結婚してまだ日も浅い頃、神戸の祖母が亡くなりました。その葬儀は禅寺で行われ、新妻と本堂に泊り込みました。するとまだ夜も明けやらぬ頃、突然、寺の釣鐘(つりがね)がすぐ近くで鳴り響きました。その轟音に即座に飛び起きてしまいましたが、となりで寝ていた妻はスヤスヤと寝息を立てていました。まるで何事も起こっていないというように、ピクリともしていませんでした。その安らかな寝顔を眺めながら、これはスゴイ女を嫁にもらった、と苦笑しました。
(つづく)
2015年5月27日水曜日
「20歳(ハタチ)のころ(19)」
結局、ヨーロッパ旅行へは、赤居さんと二人で出発することになりました。関戸さんは、あいにく夏季特別講習の予定が入ってしまって、私たちより遅れてイギリスを出発することになりました。イタリアあたりで会おうということになりました。もう30年以上も前のことですから、実際、何処でどのように再会したのか記憶が欠落していて、どうしても思い出せません。当然、携帯電話もない時代ですから、どのようにお互い連絡をとりあって落ち会ったのか、まったく憶えていません。
関戸さんが始めから同行しないのは至極残念でした。この旅行のもともとの発案者であるにも拘(かかわ)らず、一緒に出発できないことになり、関戸さんはしきりに恐縮していました。しかし、再会を期して赤居さんとロンドンへ向けて出発しました。これからの旅がどのような展開になるのか、炭酸水の気泡が沸々と湧き立つように、胸は期待で次第に膨らんでいきました。
ケンブリッジ駅から南に真っ直ぐロンドンのリバプール・ストリート駅(Liverpool Street Station)を目指しました。到着後、地下鉄に乗り換えてヴィクトリア駅(Victoria Station)まで行き、それから東へと向きを変え、フェリー乗り場のある東海岸のドーバー(Dover)へと向かいました。ドーバーは、海峡を渡ってフランス側のカレー(Calais)へと向かう、イギリス側の出発地点です。1994年に英仏海峡トンネル(英国名 the Channel Tunnel 仏名 le Tunnel sous la Manche)が開通し、いまでは列車によって両国は繋がっていますが、その当時はもちろんありませんでした。
紀元前55年、かの有名なローマ帝国のシーザーが、このドーバーの北の海岸に上陸しています。彼は、その当時のイギリスを、ローマ帝国の属州<ブリタニア>とする 端緒をつくっています。また17世紀には、革命によって大陸へ亡命していたチャールズ2世が、1660年の王政復古によって帰国の第一歩をしるしたのもこのドーバーの海岸です。大勢の群衆、貴族、軍隊に埋めつくされた歓喜の中を、王政復古の立役者ともいえるモンク将軍が渚(なぎさ)まで国王を出迎えています。
フェリー乗り場は、同じ学生たちの旅行者で溢れかえっていました。みんな判で押したように同じようなヨレヨレのTシャツに擦り切れたジーンズといった格好でした。背中には、同様に大きめのリュックを背負っていました。かれらも夏休みを利用して、ヨーロッパ各地を旅行するようでした。フェリーや鉄道を乗り継いで気ままに旅をするというのは、やはり時間はたっぷりあるけど、フトコロは寂しいという同じ立場のようで、妙な仲間意識を覚えました。
出国手続きを済ませると、'Sea Link'と船腹に大きく書かれたフェリーは、ゆっくりと岸壁を離れました。一路、フランス側のカレーへとその船先を進め、ドーバー海峡を渡ります。振り返ると、イギリス側の白い石灰岩の海岸線が望めました。不思議なことに、故郷を離れるような想いに駆られました。くだけ散る波の音と海鳥の鳴き声があたりに響いていました。これから始まるヨーロッパを巡る旅に、一抹(いちまつ)の不安や期待が交錯していました。赤居さんとふたり、船のデッキに立ち、全身に潮風を浴びていました。イギリスは、次第に離れていきました。
(つづく)
関戸さんが始めから同行しないのは至極残念でした。この旅行のもともとの発案者であるにも拘(かかわ)らず、一緒に出発できないことになり、関戸さんはしきりに恐縮していました。しかし、再会を期して赤居さんとロンドンへ向けて出発しました。これからの旅がどのような展開になるのか、炭酸水の気泡が沸々と湧き立つように、胸は期待で次第に膨らんでいきました。
ケンブリッジ駅から南に真っ直ぐロンドンのリバプール・ストリート駅(Liverpool Street Station)を目指しました。到着後、地下鉄に乗り換えてヴィクトリア駅(Victoria Station)まで行き、それから東へと向きを変え、フェリー乗り場のある東海岸のドーバー(Dover)へと向かいました。ドーバーは、海峡を渡ってフランス側のカレー(Calais)へと向かう、イギリス側の出発地点です。1994年に英仏海峡トンネル(英国名 the Channel Tunnel 仏名 le Tunnel sous la Manche)が開通し、いまでは列車によって両国は繋がっていますが、その当時はもちろんありませんでした。
紀元前55年、かの有名なローマ帝国のシーザーが、このドーバーの北の海岸に上陸しています。彼は、その当時のイギリスを、ローマ帝国の属州<ブリタニア>とする 端緒をつくっています。また17世紀には、革命によって大陸へ亡命していたチャールズ2世が、1660年の王政復古によって帰国の第一歩をしるしたのもこのドーバーの海岸です。大勢の群衆、貴族、軍隊に埋めつくされた歓喜の中を、王政復古の立役者ともいえるモンク将軍が渚(なぎさ)まで国王を出迎えています。
フェリー乗り場は、同じ学生たちの旅行者で溢れかえっていました。みんな判で押したように同じようなヨレヨレのTシャツに擦り切れたジーンズといった格好でした。背中には、同様に大きめのリュックを背負っていました。かれらも夏休みを利用して、ヨーロッパ各地を旅行するようでした。フェリーや鉄道を乗り継いで気ままに旅をするというのは、やはり時間はたっぷりあるけど、フトコロは寂しいという同じ立場のようで、妙な仲間意識を覚えました。
出国手続きを済ませると、'Sea Link'と船腹に大きく書かれたフェリーは、ゆっくりと岸壁を離れました。一路、フランス側のカレーへとその船先を進め、ドーバー海峡を渡ります。振り返ると、イギリス側の白い石灰岩の海岸線が望めました。不思議なことに、故郷を離れるような想いに駆られました。くだけ散る波の音と海鳥の鳴き声があたりに響いていました。これから始まるヨーロッパを巡る旅に、一抹(いちまつ)の不安や期待が交錯していました。赤居さんとふたり、船のデッキに立ち、全身に潮風を浴びていました。イギリスは、次第に離れていきました。
(つづく)
2015年5月13日水曜日
「20歳(ハタチ)のころ(18)」
ヨーロッパ旅行への準備を始めました。あくまで野宿覚悟の貧乏旅行ですから、まるでヒマラヤにでも登るのかと思うほどの大きめのバックパックや寝袋を購入しました。それに折角の旅行ですから、記念になるような写真を撮るため、ライオン・ヤード近くのカメラ店で新たに一眼レフを購入しました。もちろんメイド・イン・ジャパン(Made in Japan)です。店員も、日本で買った方が安いんじゃないか、と冗談を言って笑っていました。それもそうだな、と思いました。それと同時に、少々散財したかな、と後悔しました。
赤居さんの練りあげた旅行計画は、次のようなものでした。まずはロンドンへ列車で行って東へと向きを変え、フェリーでドーバー海峡を渡ってフランスは花のパリを訪ねる。ルーブル美術館でモナリザを鑑賞して芸術的感性を刺激し、シャンゼリゼ通りをぶらついて凱旋門を見上げ、エッフェル塔に登ったあと、モンマルトルの丘のカフェで詩想に耽る(ふけ)る。そして一路、列車でスペインのマドリッド、トレド、そしてバルセロナへと足を伸ばして建設中のサクラダ・ファミリア教会を見物し、そのあと地中海沿いにモナコやフランスのニースに立ち寄って、ビーチでビキニやトップレスのオネェイちゃん達を眺めながら眼の保養をする。
イタリアに入ってからは、ジェノア、ミラノ、ローマ、フィレッチェと歴史遺跡群を訪ねて知的興奮を覚え、水の都ベニスから一路北へ向かって、衝立(ついたて)のように眼前に聳(そび)えるスイス・アルプスを仰ぎ見て感動し、オーストリアの音楽の都ザルツブルグやウイーンへと巡ってクラッシック愛好家のような振りをしてワルツなどを堪能する。その後ドイツへ向かって、ミューヘンのビール祭りでたらふく美味しいビールを飲み、フランクフルトで地元本場のソーセージを食して英気を満たし、オランダのアムステルダムでは運河沿いの飾り窓を巡って性風俗の社会見学をする、等など。
正直、ポルトガルのリスボンやギリシャのアテネへも足を伸ばしたかったのですが、知り合った両国の留学生もいなかったし、時間的・金銭的余裕もなかったので、泣く泣く諦めました。しかし、ほぼヨーロッパ全域をカバーした旅程でした。途中、それぞれの友達がいたので、別行動をとることもありましたが、まさに三人での珍道中となりました。旅は人生を豊かにする、と言いますが、まさしく貴重な体験をすることができました。
(つづく)
赤居さんの練りあげた旅行計画は、次のようなものでした。まずはロンドンへ列車で行って東へと向きを変え、フェリーでドーバー海峡を渡ってフランスは花のパリを訪ねる。ルーブル美術館でモナリザを鑑賞して芸術的感性を刺激し、シャンゼリゼ通りをぶらついて凱旋門を見上げ、エッフェル塔に登ったあと、モンマルトルの丘のカフェで詩想に耽る(ふけ)る。そして一路、列車でスペインのマドリッド、トレド、そしてバルセロナへと足を伸ばして建設中のサクラダ・ファミリア教会を見物し、そのあと地中海沿いにモナコやフランスのニースに立ち寄って、ビーチでビキニやトップレスのオネェイちゃん達を眺めながら眼の保養をする。
イタリアに入ってからは、ジェノア、ミラノ、ローマ、フィレッチェと歴史遺跡群を訪ねて知的興奮を覚え、水の都ベニスから一路北へ向かって、衝立(ついたて)のように眼前に聳(そび)えるスイス・アルプスを仰ぎ見て感動し、オーストリアの音楽の都ザルツブルグやウイーンへと巡ってクラッシック愛好家のような振りをしてワルツなどを堪能する。その後ドイツへ向かって、ミューヘンのビール祭りでたらふく美味しいビールを飲み、フランクフルトで地元本場のソーセージを食して英気を満たし、オランダのアムステルダムでは運河沿いの飾り窓を巡って性風俗の社会見学をする、等など。
正直、ポルトガルのリスボンやギリシャのアテネへも足を伸ばしたかったのですが、知り合った両国の留学生もいなかったし、時間的・金銭的余裕もなかったので、泣く泣く諦めました。しかし、ほぼヨーロッパ全域をカバーした旅程でした。途中、それぞれの友達がいたので、別行動をとることもありましたが、まさに三人での珍道中となりました。旅は人生を豊かにする、と言いますが、まさしく貴重な体験をすることができました。
(つづく)
登録:
投稿 (Atom)