2017年10月3日火曜日

エコー検査

今日は久しぶりにエコー検査を受けた。内視鏡がいつも苦痛なので担当医師にエコーをお願いした。

薄暗く、カーテンで仕切られたベッドに上半身をはだけて横になっていると、若くてキレイな女性の検査士が入ってきた。すると、おもむろにローションを塗って、優しく検査スティックを腹部全体に動かし始めた。脇腹やおヘソのあたりをヌルヌルと。

別のことを考えて、気を紛らわせようと努めたが、もしこれが心電図だったら、明らかに異常値を示したに違いない (苦笑)。

2017年6月14日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(33)」


バチカン市国のシスティナ礼拝堂は訪ねてみる価値がありました。歴史的、文化的、思想的、さらには芸術的な要素をすべて内包した建造物であり、キリスト教の信者ではなくとも、その偉大さには圧倒されます。まさにイエスが後世に残した影響力は計り知れないものがあります。

ローマでは、赤居さんと街中を一日あてどもなく歩きまわりました。ただひたすら歩き、人や建物などを観察することによって、この世界的観光地を肌で感じることができました。いまでも歴史小説を愛読していますが、やはりその作品の地へ実際に足を運ぶというのは、その場の空気を実感することができ、小説の情景を想像するのに役にたちます。

さて、おなかも空いたので、本場のパスタを食べようということになり、場末のレストランで夕食をとりました。なにぶん貧乏旅行のふたりですから、贅沢はできませんでしたが、遅くまでワインを飲んだりして、活気にあふれるローマの夜を満喫しました。おそらくシコタマ飲んだのではないでしょうか、その夜はどんなホテルに宿泊したのか、一向に思い出せません。

翌日、ローマをあとにしたふたりは、さらに南のナポリへ向かうのを諦め、イタリア半島右側のつけ根にあたるヴェニスへと列車に乗り込みました。それからの記憶は、何故かすっぽりと抜けています。まるでローマからヴェニスへと一瞬にワープしたような感覚です。映画のフラッシュバックのように鮮やかな記憶として残っているのは、ヴェニスの駅を一歩出て目にした大運河です。その光景には驚きましたね。

駅頭のさきには、キラキラと輝く水面がひろがり、黒いゴンドラが行きかっていました。赤居さんとふたりでその場に立ちすくみ、目前に拡がる運河をしばらく眺めていました。まさにそこは、『水の都、ヴェニス』です。

(つづく)


2016年12月30日金曜日

「20歳(ハタチ)のころ(32)」

近頃しきりに読みはじめた歴史小説家の宮城谷昌光氏のエッセイに、以下のような文章がありました。

”人が最も早く賢くなりたかったら、旅にでることだ、といわれるが、たしかにそうで、中国の大歴史家である司馬遷は20歳になると南方を遊歴した。日本では長州の思想家である吉田松陰が21歳で見聞を広めるために遊子となっている。そもそも、そういう感受性の豊かな年齢を選んで旅行に出発したこと自体が、かれらの賢明さをあらわしているが、ものごとに感動する頻度が低くなる高年齢になっても、やはり旅は人に豊かさをあたえてくれる。”

なるほど、そうかもしれません。偉大な司馬遷や吉田松陰と比べるつもりは毛頭ありませんが、同じ年頃にヨーロッパ大陸を旅したことは、自らの人生にとって貴重な体験であったと思えます。青二才の世間知らずが、幾ばくかでも内面的な成長をすることができたのも、この旅行のおかげかもしれません。

さて、赤居さんと続けている貧乏旅行は、やっとイタリアの首都、ローマ(Rome)へとたどりつきました。まさに、『すべての道はローマへと通ずる』、ですね。

ローマでは、有名な観光スポットのスペイン広場やトレビの泉などを見てまわりました。オードリー・ヘップバーン主演の名画、『ローマの休日』にでてきた名所の数々が実際に眼前にあることに不思議な感動をおぼえました。チャールトン・ヘストン主演の名画、『ベンハー』で見たような戦闘用馬車が疾走していたであろうコロッセウムや、ジュリアス・シーザーが演説をしていたであろう古代ローマの遺跡群も見てまわりました。

ローマは、さすが世界有数の観光地です。見るものすべてが偉大で、歴史の重みを感じさせる建造物がありました。そのローマで一番訪れたいところが、バチカン市国のシスティナ礼拝堂でした。周知のように、全世界12億7千万人いるといわれるカソリック教徒たちの総本山です。ローマ法王がおられるところですね。素晴らしいの一言です。

巨大なドーム型の礼拝堂内へ入ると、天井一面にルネッサンスの巨匠、レオナルド・ダビンチが描いた聖書を題材にしたテンペラ画が描かれてありました。その芸術性や荘厳さには圧倒されました。

奥には、ダビンチと並び称されるルネッサンス期の彫刻家ミケランジェロの名作、『ピエタ』の彫刻が据えられてありました。傷ついたイエスを抱いたマリアの姿は哀しく美しく、まさに天才による作品です。魅了されました。

もし数々の芸術的天才を生み出したイタリアのルネッサンスというものがなかったとしたら、いまの世界のあらゆる芸術はどのように変わっていただろう、と想像してしまいます。

(つづく)

2016年11月9日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(31)」

アッツシジを後にしたふたりは、ふたたび列車に揺られ、つぎの目的地、フィレンチェへと向かいました。フィレンチェは、英語でフローレンスと呼ばれます。フィレンチェは、トスカーナ州の州都で、まさにルネッサンス芸術の都です。街全体が美術館のよう風情です。

まず始めに、中世イタリアの大富豪、メディチ家の愛蔵した美術品が展示されているウフィツィ美術館へと向かいました。このウフィツィ美術館には、ルネッサンス期を代表する有名な画家のひとり、サンドロ・ボッティチェッリの傑作が展示されています。

とくにかれの代表作、『春』や『ビーナスの誕生』を観た感動はいまでも忘れることはできません。絵画を見てこれほど心を揺さぶられた経験はありませんでした。いつまでもその絵画のまえで佇んでいたといっても過言ではありません。まさにそれら絵画の発するオーラに圧倒させられました。無から生み出される創造力の結晶が、そこにはありました。

フィレンチェは、ダビンチやミケランジェロなどの芸術家たちが活躍した都市です。また街の南側をアルノ川が流れていて、それに架かっているヴェッキオ橋は有名です。また、貴金属や装飾品などのブランドのお店が軒を並べています。まさに芸術とファッションの街ともいえます。

赤居さんとふたりで路地を散策し、街のシンボルであるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を訪ねました。教会の名前は「花のマリア」という意味だそうです。15世紀に建てられたモザイクタイルの美しい教会です。屋根は赤銅色のドームで、細い階段で建物の上部まで登ることができました。中世そのままの街並みが眼下に一望できました。

夕方には、街の南に位置する『ミケランジェロ広場』まで歩き、丘のうえから眺める、夕陽に染まったフィレンチェの街並みを堪能しました。目の前にアルノ川が静かに蛇行し、大聖堂が遠望できました。まさに思い描いていたイタリアの原風景がそこにはありました。

(つづく)

2016年8月14日日曜日

DIYにハマってます。

今年の夏は、娘ふたりは部活で忙しく、うちのカミさんも仕事を休めないとのことで、あいにく帰省できませんでした。そのかわり、DIYで既存のウッドデッキに物干し場を作りました。われながら完成品に大満足です。

現在、洗濯物は2階のベランダに干していますが、うちのカミさんからは、『せっかくウッドデッキがあるんだし、娘の部屋を通らずに洗濯物を干せるようにしたい』との以前からの要望です。家の正面サッシの前に洗濯物がぶら下がっているのも見ばえが良いものではないと、少々渋っていましたが、うまくタテに配置を変えて、DIYで作ってみました。

まずはホームセンターから木材や取りつけ用の金具などを購入しました。9センチ角の柱を一本買って、真ん中で切断して2本にし、上部を物干しザオ受けの角度に合わせて斜めの切り口にしました。こうすることにより、雨によって支柱
の上部が腐食するのを少しでも防げるのではと思います。

物干しザオ受けの上下4枚の板も長さに合わせて切り分け、ドリルで物干しザオが通るサイズの穴を4つあけました。支柱に角度をつけて打ちつけ、柱の転倒を防ぐため、ウッドデッキのフェンスにも後部を打ちつけ強度を高めました。なぜかと言うと、デッキの床板に支柱固定金具を取りつけましたが、強風などで転倒しないかどうも安心できなかったからです。これで少々の風でも、大量の洗濯物でも大丈夫です。

下側に干す洗濯物が見えないように、またプライベート確保のため、既存のフェンスに幅の微妙に違う部材を等間隔に取りつけました。出来合いのラティス・フェンスを買って取りつけようかとも思いましたが、なかなかの出来に我ながら満足しています。

最後は腐食防止のステインを塗りました。炎天下の作業だったので、熱中症に注意して、適度に水分を補給し、休憩をとりながら進めました。支柱固定金具が2個で2800円、ホームセンターにはなかったので、ネットで注文しました。9センチ角の柱が2580円、ビスと固定金具取りつけ用ワッシャーが792円、その他の部材が5782円かかりましたので、総額1万円ちょっとで出来ました。最初はコンクリート土台の物干し台を買ってデッキに直接置こうかとも考えましたが、せっかくのウッドデッキなのに、あまりにセンスがないと、今回の夏休みを利用してDIYで作ってみました。

もうひとつの写真は、先月に作ったウッドデッキ用の踏み台です。ウッドデッキのステップが腐食していたので、新たにベンチのような踏み台を作成し、下の部分には束石で基礎を固め、周りをレンガで囲って白い敷石を敷きつめました。

このように近ごろはDIYにハマってます(苦笑)。娘に言わせると、「お父さん、定年後の趣味がまたひとつ増えたね」とのことです。それにしても疲れました(笑)。いまは完成品を見ながら、自己満足に浸って、缶ビールを飲んでいます。



2016年7月24日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(30)」

わたしたちはつぎの目的地、アッシジ(Assisi)へと向かいました。アッシジも赤居さんがどうしても訪ねてみたい観光地のひとつだったようです。いつものように道中、赤居さんの後ろをついてゆくしかありません。

コモからアッシジまでは、イタリア半島をかなり南下します。しかしその途中の記憶がまったくありませんので、おそらく前日のジュリアーナ宅での歓迎パーティで飲みすぎたせいか、ずっと眠っていたのかもしれません。

やっと列車を降りて駅舎のそとへ一歩出ると、ほそ長い道路がまっ直ぐに田園を貫いてのびていました。その前方の小高い丘の上にアッツシジの古い街並みが遠望できました。まるで蜃気楼をみているようでした。

まっ青な空にまっ白な雲がいくつかぽっかりと浮いていました。あたりは静寂に包まれていて、空気は乾燥していました。一瞬、耳が聞こえなくなったような錯覚を覚えました。あたりには一面オリーブの木が植えられていました。

アッツシジの街は、中世そのままの趣きを残しており、白っぽい石造りの街並みは陽光をいっぱいに浴びていました。すり減った石畳の路地をぬけると、荘厳な教会がありました。

その教会は聖フランチェスコ聖堂といって、13世紀に建てられた由緒ある歴史的建造物です。中に入ってみると、ひんやりとして、外とは違ってピンと張り詰めた厳かな空気に包まれました。壁面は、数々の中世美術のフレスコ画で飾られていました。

高い天井や美しいステンドグラスを仰ぎみながらさらに奥へと進むと、祭壇中央の上部に十字架のキリスト像(聖母マリア像だったかもしれません)が見えました。キリスト教徒でなくとも、厳粛な気持ちになりました。

赤居さんとしばらくアッツシジの街路を散策しました。その通りには、カリフォルニアにある都市の名前の由来となったらしい、サンフランチェスコ通りやロスアンジェロス通りなどがありました。薄いピンク色の大理石をつかった優美な修道院もありました。

歩き疲れて、通りに面した小さなカフェに入りました。石畳通りに面したパティオの椅子に座り、コーヒーを注文しました。初めて飲んだ本場のエスプレッソは、とても苦味があって閉口しました。店のおじさんも日本人がよほど珍しいのか、しきりに話しかけてきましたが、そのイタリア訛りのきつい英語にも閉口しました。

(つづく)

2016年5月23日月曜日

「20歳(ハタチ)のころ(29)」

コモ(Como)では、1泊の滞在でした。イタリア人留学生たちに別れを告げました。か れらはその大きな瞳に涙をあふれさせていました。みんなで駅舎まで見送ってくれま した。駅のホームには、再びかれらの唄うジャクソン・ブラウンの『ステイ』が響き ました。

涙が出ました。イタリア語の「チャオ(Cao)」と日本語の「サヨナラ」を交えて、 ジュリアーナやパオラたちと別れのキスをしました。列車に乗り込むと、かれらの悲 しい顔が並んでいました。発車の合図でゆっくりとホームを離れていきました。赤居 さんと列車の窓から、かれらの姿が見えなくなるまで手を振りつづけました。

「――ホントにイイ奴らですね・・・」と、後ろで手を振っている赤居さんを振り返 ると、その丸メガネの奥の細い眼はしとどの涙で濡れていました。それにつられて、 不覚にも涙がとめどもなく流れました。もうかれらに一生会えないのかもしれないと いう刹那(せつな)さに、われを忘れて涙しました。

座席に深く身を沈め、車両の単調な振動に身をまかせました。ケンブリッジでかれら と過ごした日々が思い出されました。特に、ワインバー『シェイズ』で唄い飲み明か した夜が、懐かしく浮かんでは消えました。胸にじんわりと熱いものがこみ上げてき ました。

赤居さんとふたり、おし黙ったまま、気が抜けたようにぼんやりと外の景色を眺めて いました。イタリア北部の穏やかな田園風景が車窓に流れていました。あれから30 数年、いまごろかれらはどうしているだろう――。 さぞや、みんないいオバサンや オジサンになっただろうな。

列車は、南へと進んでいました。

(つづく)

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