気温34度を超える茹だるような暑さの中、三浦半島の南西に位置する油壷へ行ってきました。
かの北条早雲が足かけ7年にも及ぶ彼の晩年の精力をつぎ込んで討滅させた三浦一族の終焉の地、新井城址を訪ねるためです。
油壷マリンパーク手前を荒浜海水浴場に向かって下りてゆくと、ちょうど中程の右側に新井城址の説明板がありました。
この説明板の裏辺りには空堀跡が見えました。現在は東京大学地震研究所の敷地になっており、残念ながら中へは入れませんでした。
それとは反対方向を見ると、その名のとおり油を流したように穏やかな油壷湾が望めました。三浦一族が滅亡したあと、その血で真っ赤に染まったという伝説があります。
油壷湾の説明板もありました。
そのまま荒浜海水浴場へ歩いてゆくと、右手に相模湾に突き出た岬が見えてきました。こんもりとした森の右奥辺りが新井城址です。
荒浜海水浴場から見上げた新井城址です。北条早雲の生涯を描いた司馬遼太郎の名作、「箱根の坂」では、
―「岬の上の城は幾重にも土塁を築き、岬のつけ根には空堀をうがち、引橋をかけている。いざというとき橋を落とせば岬そのものが海中にうかぶ小島のようになり、とても陸路から攻めがたい要害だ。といって海から崖をよじのぼるわけにはいかぬ。関東第一の要害とはあの城のことかもしれぬ」と、早雲はとほうに暮れたような表情をした。―
と、その難攻不落の新井城を書いています。
荒浜から見上げた新井城址です。やはり海側から攻めるのは無理でしょうね。
岬の反対側、つまり油壷湾から小網代湾側へ回ると、その上に三浦道寸(どうすん)義同(よしあつ)の墓がありました。油壷マリンパーク前の駐車場奥の細い道を小網代湾側へ下りて行った方が安全です。三浦道寸の墓の説明板です。道寸の辞世の句が載っていました。
「討つものも討たるるものも土器(かわらけ)よ 砕けてあとはもとの土くれ」
三浦道寸義同の墓。海音寺潮五郎の「武将列伝」によると、「義同は武勇絶倫、しかも歌道に通ずるという文武兼備の人物」としています。
道寸の墓から海側に下りて行くと、小網代湾が見渡せます。とても静かに澄んだ海で、手前には美しい「瑠璃色スズメダイ」が見えました。
左手を見ると、はるかに相模湾が望めました。かすかに富士山も見えそうです。
戦国時代の幕開けを飾った北条早雲。永正9年に戦いを始めてから7年もの歳月をかけて悲願の三浦一族討滅を果たします。早雲はその時87歳だったそうです。そして、その翌年、波乱の生涯を韮山城中で終えます。道寸の辞世にあるように、まさに「もとの土くれ」となりました。
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