2014年1月13日月曜日

歴史を訪ねて一人旅 (甲府編)

毎年年末恒例の【歴史を訪ねて一人旅】として、昨年末は山梨県甲府市へ行ってきました。ちなみに一昨年末は、真田家ゆかりの地、信州上田を訪ねました。

躑躅ヶ崎館跡(つづじがさきやかたあと)

周知のとおり、甲府は戦国時代の雄、武田家三代の本拠地です。まずは躑躅ヶ崎館跡を訪ねました。現在は武田神社となっています。JR甲府駅から北へ真っ直ぐに延びる武田通りを上ってゆくと、ちょうど突き当たりに濠を廻らした神社があります。信玄はその生涯、お城というものを築造しなかったようです。『人は城、人は石垣、人は濠、情けは味方、仇は敵なり』という有名な言葉が残っているように、城郭といったものを必要としなかったのかもしれません。


 正面入り口の鳥居のあたりには、【疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山】の軍旗がはためいていました。武田信玄といえば【風林火山】ですが、やはりこれは後世の創作のようです(井上靖の作品からかも?) 【疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し】は、古代中国の軍学である『孫子』に由来するようです。


 当時の大手門は現在の正面ではなく、向かって右手のこちら側にあったようです。その周辺には、武田家臣団の屋敷跡があります。戦国最強の武田騎馬軍団と共に信玄が上杉謙信との川中島の決戦へ発ったのもこの辺りなのかと想像すると、いまにも甲冑の擦れる音や軍馬の嘶き(いななき)が聞こえてきそうでした。静かに目を閉じ、しばし佇んでしまいました。


松本清張は『信玄戦旗』で躑躅ヶ崎館をつぎのように書いています。

 信虎は、それまでの盆地の北寄りの石和(いさわ)に置いた居館を西に隣接した台地上の躑躅ヶ崎に移した。

 その広さは東西およそ百五十五間(282メートル)、南北百六間(193メートル)、土堤の高さ一丈(3メートル)、四方に濠(ほり)があり、三郭(かく)に分つ。石垣は自然石を低く積むのみで、城砦(じょうさい)ではなく、ふつうの居館である。

 ただ背後に金峯山(きんぶさん)の支脈の石水寺山(せきすいじさん)(積翠寺山)が屹立(きつりつ)している。渓流があり、鉱泉もあるから(積翠寺鉱泉)、いざというときの避難場所にもなる。一名要害山と呼ぶ。前は甲府盆地を展望する。後に風を蔵し、東西を丘阜(きゅうふ)で囲い、前に水を得る風水説の「四神に相応(かな)う」防御の地でもある。


円光院(えんこういん)

武田信玄の正室であった三条夫人のお墓があります。広々とした甲府盆地がはるか一望に見渡せる丘の上にあります。彼女も戦国時代の女性たちにみられる政略結婚により運命を翻弄された一人です。




武田信玄火葬塚

元亀4(1573)年、信玄は三河攻めの途中で病死しますが、ここは最初に遺骸を収められた場所です。遺言により三年間はその死を秘されたようです。いかにも地域の町内会によって綺麗に手入れされているといった感じです。やはり信玄はいまでも地域の人たちにとっては【お館さま】として大切に祀られているようです。



大泉寺

このあと、信虎のお墓を探して、ずいぶんとアチコチ歩き回りました。信虎は、嫡子信玄により甲斐より追放されています。たとえ下克上の戦国時代とはいえ、実の息子や家臣たちから追放されるとは、よほど人徳がなかったのでしょう。その生涯、甲府の地を再び踏むことは叶わなかったようですが、孫の勝頼によってこの大泉寺に手厚く葬られたようです。



甲斐善光寺

甲斐善光寺です。信州善光寺が川中島での戦火で消失するのを心配した信玄が本尊を移したと云われています。武田氏滅亡後、1598年に本尊は信州善光寺へ戻されています。木造建築物としては東日本でも有数で、国の重要文化財に指定されているようです。




恵林寺(えりんじ)

甲府をあとにして、お隣の甲州市を目指しました。目的地は、「乾徳山 恵林寺(えりんじ)」です。元徳2(1330)年、夢窓国師によって開創された名刹です。武田勝頼を天目山で破り一気に甲斐へ攻め込んだ織田信長の大軍は、この恵林寺へと迫りました。南近江の六角承禎(じょうてい)の子や足利義昭の密使らをかくまったということで、焼き打ちにより全山ことごとく焼き払い、僧侶ら百五十余人を楼門の階上に追い上げ、階下に籠草(かごくさ)をつみあげ、火を放ち、生きながら焼き殺したというところです。炎上する三門楼上で快川紹喜が有名な「心頭滅却すれば火自ずから涼し」といったのがこのお寺です。司馬遼太郎の『国盗り物語』には、「やがて楼門は焼け落ち、百五十余人の肉を焼く異臭があたりにただよい、この村から半里さきの光秀の陣中にまで漂った」と書いています。武田信玄の菩提寺としてお墓もここにあり、徳川五代将軍綱吉に仕えた柳沢吉保のお墓も正室定子と共に並んでいます。







蛇足ですが、快川和尚を調べてみると、国師号をもつ高名な禅僧であり、信玄とは心友ともいう間柄であったらしい。また面白いことに、美濃国の土岐氏の出です。ということは、織田家の武将明智光秀と同じ出身です。光秀も同郷のこの長老にはいたく心酔しており、主君とはいえ信長によって生身のまま焼き殺されたという、拭いきれないほどの凄まじい怨念をひそかに心の奥底に抱いたであろうことは想像に難くありません。つまり、光秀が謀反を起こした本能寺の変の原因も、このあたりにあるのではないかと思うのは考え過ぎでしょうか。

さて今年はどこへ行こうかなぁ。

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