2015年5月27日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(19)」

結局、ヨーロッパ旅行へは、赤居さんと二人で出発することになりました。関戸さんは、あいにく夏季特別講習の予定が入ってしまって、私たちより遅れてイギリスを出発することになりました。イタリアあたりで会おうということになりました。もう30年以上も前のことですから、実際、何処でどのように再会したのか記憶が欠落していて、どうしても思い出せません。当然、携帯電話もない時代ですから、どのようにお互い連絡をとりあって落ち会ったのか、まったく憶えていません。

関戸さんが始めから同行しないのは至極残念でした。この旅行のもともとの発案者であるにも拘(かかわ)らず、一緒に出発できないことになり、関戸さんはしきりに恐縮していました。しかし、再会を期して赤居さんとロンドンへ向けて出発しました。これからの旅がどのような展開になるのか、炭酸水の気泡が沸々と湧き立つように、胸は期待で次第に膨らんでいきました。

ケンブリッジ駅から南に真っ直ぐロンドンのリバプール・ストリート駅(Liverpool Street Station)を目指しました。到着後、地下鉄に乗り換えてヴィクトリア駅(Victoria Station)まで行き、それから東へと向きを変え、フェリー乗り場のある東海岸のドーバー(Dover)へと向かいました。ドーバーは、海峡を渡ってフランス側のカレー(Calais)へと向かう、イギリス側の出発地点です。1994年に英仏海峡トンネル(英国名 the Channel Tunnel 仏名 le Tunnel sous la Manche)が開通し、いまでは列車によって両国は繋がっていますが、その当時はもちろんありませんでした。

紀元前55年、かの有名なローマ帝国のシーザーが、このドーバーの北の海岸に上陸しています。彼は、その当時のイギリスを、ローマ帝国の属州<ブリタニア>とする 端緒をつくっています。また17世紀には、革命によって大陸へ亡命していたチャールズ2世が、1660年の王政復古によって帰国の第一歩をしるしたのもこのドーバーの海岸です。大勢の群衆、貴族、軍隊に埋めつくされた歓喜の中を、王政復古の立役者ともいえるモンク将軍が渚(なぎさ)まで国王を出迎えています。

フェリー乗り場は、同じ学生たちの旅行者で溢れかえっていました。みんな判で押したように同じようなヨレヨレのTシャツに擦り切れたジーンズといった格好でした。背中には、同様に大きめのリュックを背負っていました。かれらも夏休みを利用して、ヨーロッパ各地を旅行するようでした。フェリーや鉄道を乗り継いで気ままに旅をするというのは、やはり時間はたっぷりあるけど、フトコロは寂しいという同じ立場のようで、妙な仲間意識を覚えました。

出国手続きを済ませると、'Sea Link'と船腹に大きく書かれたフェリーは、ゆっくりと岸壁を離れました。一路、フランス側のカレーへとその船先を進め、ドーバー海峡を渡ります。振り返ると、イギリス側の白い石灰岩の海岸線が望めました。不思議なことに、故郷を離れるような想いに駆られました。くだけ散る波の音と海鳥の鳴き声があたりに響いていました。これから始まるヨーロッパを巡る旅に、一抹(いちまつ)の不安や期待が交錯していました。赤居さんとふたり、船のデッキに立ち、全身に潮風を浴びていました。イギリスは、次第に離れていきました。

(つづく)

2015年5月13日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(18)」

ヨーロッパ旅行への準備を始めました。あくまで野宿覚悟の貧乏旅行ですから、まるでヒマラヤにでも登るのかと思うほどの大きめのバックパックや寝袋を購入しました。それに折角の旅行ですから、記念になるような写真を撮るため、ライオン・ヤード近くのカメラ店で新たに一眼レフを購入しました。もちろんメイド・イン・ジャパン(Made in Japan)です。店員も、日本で買った方が安いんじゃないか、と冗談を言って笑っていました。それもそうだな、と思いました。それと同時に、少々散財したかな、と後悔しました。

赤居さんの練りあげた旅行計画は、次のようなものでした。まずはロンドンへ列車で行って東へと向きを変え、フェリーでドーバー海峡を渡ってフランスは花のパリを訪ねる。ルーブル美術館でモナリザを鑑賞して芸術的感性を刺激し、シャンゼリゼ通りをぶらついて凱旋門を見上げ、エッフェル塔に登ったあと、モンマルトルの丘のカフェで詩想に耽る(ふけ)る。そして一路、列車でスペインのマドリッド、トレド、そしてバルセロナへと足を伸ばして建設中のサクラダ・ファミリア教会を見物し、そのあと地中海沿いにモナコやフランスのニースに立ち寄って、ビーチでビキニやトップレスのオネェイちゃん達を眺めながら眼の保養をする。

イタリアに入ってからは、ジェノア、ミラノ、ローマ、フィレッチェと歴史遺跡群を訪ねて知的興奮を覚え、水の都ベニスから一路北へ向かって、衝立(ついたて)のように眼前に聳(そび)えるスイス・アルプスを仰ぎ見て感動し、オーストリアの音楽の都ザルツブルグやウイーンへと巡ってクラッシック愛好家のような振りをしてワルツなどを堪能する。その後ドイツへ向かって、ミューヘンのビール祭りでたらふく美味しいビールを飲み、フランクフルトで地元本場のソーセージを食して英気を満たし、オランダのアムステルダムでは運河沿いの飾り窓を巡って性風俗の社会見学をする、等など。

正直、ポルトガルのリスボンやギリシャのアテネへも足を伸ばしたかったのですが、知り合った両国の留学生もいなかったし、時間的・金銭的余裕もなかったので、泣く泣く諦めました。しかし、ほぼヨーロッパ全域をカバーした旅程でした。途中、それぞれの友達がいたので、別行動をとることもありましたが、まさに三人での珍道中となりました。旅は人生を豊かにする、と言いますが、まさしく貴重な体験をすることができました。

(つづく)

2015年5月4日月曜日

「20歳(ハタチ)のころ(17)」


関戸さんに関しての話は尽きません。人間的にも非常に魅力的でした。長野の実家は運送業を営んでいるとのことでした。その関係もあって、大学卒業後は日本通運本社に就職したそうです。入社式では、新入社員総代として挨拶をしたようです。英国留学によって得られた貴重な財産の一つとして、関戸さんと知り合えたことだったように思えます。人生において、人との出会いは大切です。そのことをつくづく感じさせます。

当初から関戸さんは、ケンブリッジから英国北西部の大学へ転入する予定でした。かれの留学の目的のひとつでもあった、本場のラグビーを体験したいとの希望を叶えるためです。国際関係論を学んで、政治の道へ進みたいという希望も語っていました。日本へ帰国した後は、かねてから交際していた彼女と結婚し、その長野での結婚式には、私も九州から参列しました。関戸さん夫婦はその後、仕事の関係上、シンガポールでしばらく生活したようです。

ある天気の良い日、関戸さんといつものように近所のパーカーズ・ピースと呼ばれる広い公園の芝生に腰をおろして、チャーシュー・フライド・ライスを食べていました。見上げると、真っ青な空が広がっていました。そよ風が吹いていました。そんな中、空腹も満たされ、ふたりで他愛もない話をしていると、関戸さんがふいに、夏休みを利用してヨーロッパを旅行してみないか、と芝生に横になりながら呟きました。もちろん赤居さんも一緒です。ワインバー『シェイズ』で親しくなった留学生たちを訪ねるのもいいな、と笑っていました。夏休みになると、一旦、母国へ帰る留学生たちも多いからです。

それを聞いて、「せっかくイギリスにいるんだから、3人でヨーロッパを旅するのも面白いかもしれません」、と即答しました。、関戸さんはそれを聞くと、赤居さんの都合も確かめず、「よし、決まった!」、と両手をパチンと叩いて起き上がりました。それからは、それぞれの希望の訪問地を持ち寄り、旅行の予定を立て始めました。しかし結局は、赤居さんがすべての計画を練り、それに沿って3人は旅を続けることとなりました。

(つづく)

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