2015年1月30日金曜日

「20歳(ハタチ)のころ(6)」

「サア、英国へ出発!」、と故郷を旅立つ当日は、家族全員で駅まで見送りにきてくれました。新しく買った合皮革のスーツケースは、これ以上は入らないほど膨(ふく)らんでいました。英国の冬はさぞかし厳しいだろうと、母親が厚手の下着やセーターをこれでもかと詰め込んでいました。当座のお金も、用心のため、そのほとんどをトラベラーズ・チェック(Traveler’s Check)に換えていました。

駅のホームでは、家族全員が口数も少なく、列車の予定時刻を待っていました。母親が泣いていました。妹は心配そうな顔をしていました。弟は当時まだ小学生でしたから、母親の脇に所在なさそうに立っていました。父親は毅然(きぜん)としていました。しかし内心ではさぞかし心配だったでしょう。しきりに煙草を吸っていました。

『なごり雪』の歌詞ではありませんが、♪汽車を待つ彼らの横で僕は、時計を気にしていました。 重いスーツケースを引いて列車に乗り込もうと振り返ると、悲しそうな顔が並んでいました。母親はまだ泣いていました。そんな家族の気持ちとは裏腹に、当の本人は、これから旅立つ期待に胸を膨(ふく)らませていました。まさに、「親の心、子知らず」といった情景です。動き始めた列車の窓から手を振ると、ホームにたたずむ家族が次第に遠くなっていきました。思わず涙が出ました。

さて、念願の英国留学へと出発したのですが、不思議なことに、それから成田空港までの記憶がすっぽりと抜けています。途中、神戸の叔母さんの家に立ち寄ったのか、そのまま成田まで直行したのか、まったく憶えていません。東京に着いて、成田までシャトルバスに乗ったような微(かす)かな記憶がありますが、その時の情景が浮かんできません。心はもうすでに英国へと飛び立っていたのかもしれません。

英国へは、当時のソ連の飛行機、アエロフロート航空(Aeroflot)で行きました。神戸の叔母が海外旅行好きだったので、おそらく彼女が旅行会社に連絡し予約をしてくれたのでしょう。乗ったアエロフロートの機体は不気味に銀色に光っていて、ソ連という国の印象も相まって、妙に冷たく感じました。スチュワーデスはみな大柄で、見るからに威圧的でした。旧型の機体らしく、揺れるたびにギシギシと異様な音がしました。海外旅行の経験もない地方の純朴な(?)青年にとっては、まさしく不安だらけの旅立ちでした。

成田を飛び立ってしばらくすると、張り詰めていた緊張感が解けたのか、眠ってしまいました。ふと眼が覚めて、小窓を覗(のぞ)くと、眼下には広大な森林が地平線まで続いていました。その大地のスケールの大きさには驚きました。森が果てしなく拡がっていて、それ以外は一切何もありません。おそらくシベリア上空を飛んでいたのでしょう。それから数時間ほど眠って、また下界を見ると、まったく同じ景色が拡がっていました。森は限りなくどこまでも続いていました。地平線というものを見たのは、この時が初めてでした。

(つづく)

2015年1月25日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(5)」


留学生活が長引いてくると、少しは節約しなければ、と思い始めました。切り詰めるのは食費です。夕食は、安いフランスパンを買って、よくハムやチーズなどをはさんで食べました。コンクリートのように硬(かた)いパンでしたね。しかし日持ちがよかったので、何本か買って、毎日齧(かじ)りついては飽きずに食べました。

またはキングス・カレッジ(King’s College)の前にあるマーケット・プレイスまで歩いて、フィッシュ・アンド・チップス(Fish & Chips)や、即席のマッシュポテト、缶詰のビーンズなどを買って食べたりもしました。散歩がてら、ケンブリッジのメイン・ストリートというべき聖アンドリュース通り(St. Andrew’s Street) を上って、ショッピング・モールのあるライオン・ヤード (Lion Yard) あたりの安食堂へも行きました。

その食堂は、『ゴールデン・ボールズ(Golden Balls)』という妙な名前でした。シミのついたメニューには、イギリスの家庭料理ものっていました。ケンブリッジの主(ぬし)ともいえる『あんちゃん』も、この食堂は行きつけらしく、「今日もあの『キンタマ』でよ、ミートボール食ってきたぜ」、とよく言って豪快に笑っていました。

この『ゴールデン・ボールズ』では、かれは日本語でしか注文しませんでした。一切英語を話さないのです。「オイ、ネエちゃんョ、いつものコレとコレな。ハラへってるから、早くしてくれよな」、といった調子です。若いウェイトレスも、いつものことなのか、かれの注文どおりの料理を運んできました。なんとも不思議な光景でした。

たまには栄養をつけるため、少しは贅沢(ぜいたく)な食事もしなければと思いました。しかし、絶えず懐(ふところ)の寒い身にはそうも出来ませんでした。殊になかなか陽の落ちない白夜など、おなかを空かしてトボトボと歩いていると、家々の窓に灯る穏やかな明かりがやたら目について、無性に日本へ帰りたくなりました。「どうして僕はこんなイギリスまで来たんだろう?」、と自問しました。

とくにクリスマス・シーズンになると、街は華やいでいます。あたりは一様にイルミネーションで飾りつけられ、クリスマス・ソングが流れています。学生のカップルが楽しそうに腕を組んで歩いているのを見るたびに、羨(うらや)ましげに眺めていました。当時は、ポール・マッカートニーの『ワンダフル・クリスマスタイム(Wonderful Christmastime)』という曲が、やたらどこでも流れていました。

♪Simply having a wonderful Christmastime♪

♪Simply having a wonderful Christmastime♪

ポールのそんなやけに陽気な歌声があふれる街の雰囲気とは裏腹に、遠く離れた家族のことを思うと、淋しさで胸がいっぱいになりました。親元を離れて生活したのも始めてでしたし、ましてや異国の空の下、心細い思いが絶えず心を支配していました。しかし、いま思うと、若い頃、このように孤独に耐える日々を過ごしたのは、貴重な経験でした。勉学では得ることのできない、心の成長にとって必要な養分だったのかもしれません。

そんな時は、よく故郷の両親に手紙を書きました。電話をすることもできましたが、その当時、国際電話料金は高額でしたので、よほどのことがない限り連絡はしませんでした。留学期間、一度だけ電話をしました。金の無心をしたような覚えがあります。それ以外は、ひたすら手紙を書きました。薄いエアメール用の便箋(びんせん)と封筒を使いました。健気(けなげ)にも、親に心配をかけないように、変わらず元気でいることを伝えました。

当然、当時はインターネットやメールなどの便利で安価な通信方法はありません。淋しさを紛らわすためコツコツと手紙を書きました。普通郵便で1週間から10日ほどかかったようにおもいます。実家には、探せば今でもその手紙の束があるはずです。そこには、20歳(ハタチ)のころの思いがたくさん詰まっているような気がします。

いま子供を持つ身になって思うと、両親もよく思い切って息子を留学させたものです。金銭的な負担もあったでしょうし、誰ひとり知り合いもいない異国へ旅立たせた心境は察して余りあるものがあります。しかし私の、留学したい、という強い希望と、英国留学の経験があった今は亡き神戸の叔母の勧めもあり、決心したものとおもいます。両親の決断には、いまでも感謝の気持ちでいっぱいです。

(つづく)


2015年1月21日水曜日

[「20歳(ハタチ)のころ(4)」


YMCAには、中東からの留学生も多数住んでいました。見るからにオイル・マネーの恩恵を受けていて、勉強もせず遊んでばかりの生活を送っているようでした。貧乏留学生にとっては、羨(うらや)ましいかぎりでした。かれらは毎晩のようにパーティをして、中東のエスニックな音楽をかけて騒いでいました。いつの日か石油が枯渇(こかつ)してしまったら、かれらはどうするのだろうと思っていました。

YMCAでの生活は快適でしたが、その後、中心街から少し外れた3階建てのレンガ造りアパートの2階に引っ越しました。広いキッチンとシャワー・ルームが別にあって、家具付きの部屋でした。寝室だけで10畳くらいはあったようにおもいます。当時のレートで5万円くらいの家賃でした。光熱費も込みでしたから、貧乏学生の身には助かりました。

そのアパートは、ウィリス・ロード(Willis Road)にあって、広い通りから入った、静かな環境にありました。周りの住人は、ほとんどが学生でした。おなじ日本からの留学生も数人住んでいました。通りをはさんで向かい側には、『妙子さん』という秋田出身の女性が住んでいました。ある日、数人の日本人留学生たちが集まるということで、妙子さんの部屋ですき焼きをご馳走になりました。当然、このパーティには、『カバ尾さん』も参加しました。

いま思い出しても、そこに集まった留学生たちは非常に個性的な人たちでした。老舗(しにせ)旅館のあと取り息子なのにJALの機長になって辞めてきた人、みんなに『あんちゃん』と呼ばれている、ケンブリッジに居ついてしまったような中年のおじさん、いかにもやり手のキャリア・ウーマン、慶応大ラグビー部にいたので、本場英国ラグビーを体験したいと留学してきた人、阪大卒のバリバリの大阪人(のち滋賀県出身だと判る)など、当時の世間知らずの私にとって、かれらの話は興味の尽きないものでした。

JALの機長だったという人は、JALでも一番若くて機長になった、と自慢していました。柔道も合気道も上段者で、「コックピットから見る夕暮れのニューヨークは美しかった」、が口癖でした。かれの話には大風呂敷的なところがみられ、やたらと誇張された表現には少々ウンザリしていました。日本人留学生たちにとっては、「また始まった・・・」と、かれの話は眉唾(まゆつば)で聞いていました。

そんな中でも、とくに慶応卒の関戸さんには影響を受けました。長野の人でした。かれの体からにじみ出るような人柄や揺るぎのない言葉には、人としての生き方について様々なことを学びました。ラグビー以外にも、英国の大学で国際関係論を学ぶつもりだ、と言っていました。かれの言葉の端々には、政治の世界への興味が読みとれました。将来は政治家を目指しているように思えました。まだ若いのに頭髪はすでに禿げ上がっていましたが、小柄ながらラグビーで鍛え上げられた身体は、見るからに頑丈そうでした。

かれら留学生との交流は、青春時代の楽しい思い出として、心の奥底に宝物のようにしまってあります。その宝箱をそっと開けると、ひとつひとつの宝石たちは輝きはじめ、30数年前のいくつもの懐かしい情景がよみがえってきます。それらは大切な記憶として、いつまででも輝きつづけ、思い出すたびに胸をあつくします。

(つづく)

2015年1月16日金曜日

「20歳(ハタチ)のころ(3)」

少々英語力にも自信がつき、異国での生活にも慣れたので、一人暮らしを始めることにしました。まずはYMCAに引っ越しました。赤銅色のタイル張りの建物で、中庭を囲むような造りになっていました。清潔で、内部の手入れも行き届いていました。

通りをはさんだ前面には、広大な芝地の公園がありました。日本のように無駄な建造物などありません。その広々とした緑の公園は、「パーカーズ・ピース(Parker’s Peace)」とよばれていました。天気の良い日には、ベンチに腰かけて本を読んだり、芝生に寝ころんで、白い雲が静かに流れるのを眺めて過ごしたりしました。背中に大きな地球を感じ、一人ぼんやりとイギリスの空を見ているのが不思議な気分でした。

YMCAには、おなじ日本人留学生もひとり住んでいました。藤尾さんといって、千葉の出身でした。20代前半の気さくな人で、洋楽が好きでした。かれの部屋でエルトン・ジョンの曲をカセットテープで聴きました。そのいくつかの曲の中でも、とくに「ロケットマン(Rocket Man)」や「ベニー & ザ・ジェット(Bennie & The Jets)」が好きでした。いまもこの曲などを聴くと、遠い異国での心細かった生活がじんわりと思い出されます。

藤尾さんとは、おなじ留学生といった絆(きづな)によって、とても親しくなりました。かれは中古のフォルクス・ワーゲンのビートルを買って、たまにロンドンや郊外の田園地帯へドライブにいってました。彼よりも年下である私は、名前に『君』づけで呼ばれていましたが、藤尾さんには、そのズングリとした風貌と口元の形状から、失礼にも、『カバ尾さん』と呼んでいました。藤尾さんは、そんなことには一向に気にする風はなく、絶えず笑顔を浮かべて接してくれました。

YMCAのフロント・デスクに、赤毛の可愛いイギリス人女性が働いていました。年齢も近く、とても愛嬌のある笑顔が印象的でした。小柄で、ショート・ヘアーがよく似合っていました。目元にはうっすらとソバカスがあり、すい込まれるような青い瞳がキラキラと輝いていました。フロントの前を通るたびに、何気なく挨拶を交わし、幾度か会話も弾んで、淡い恋心を抱きました。日本人以外の女性に心が惹かれたのは、彼女が始めてでした。甘酸っぱい懐かしい思い出です。

一度デートをしたような記憶があるのですが、どこへ行って、どんなことを話したのか、どうしても思い出せません。デート中、よほど緊張していたのかもしれません。彼女の名前も、「E」で始まる名前だったような気がしますが、エリーだったのか、エミリーだったのか、はたまたエレンだったのか、どうも思い出せません。今では彼女も家庭をもって、さぞかしオバサンになっているでしょうねぇ~(溜息)。

(つづく)

2015年1月12日月曜日

「20歳(ハタチ)のころ(2)」


ケンブリッジに住み始めた家は、中心街から少し南へ下った閑静な住宅地にありました。そこで、しばらくホームステイをしました。生の英語に慣れるには、それが一番だとおもったからです。

ホームステイ先のその家は、ストレンジウェイ・ロード(Strangeway Road)といった不思議な(ストレンジ)名前の通りにありました。品の良い老婦人がひとりで住んでいました。名前は忘れてしまいました。もう30数年も前ですから、彼女もすでに亡くなったでしょうね。大きな木組みに白壁の映えた瀟洒(しょうしゃ)な家でした。よく手入れされた庭があって、芝生の脇には赤いバラが咲いていました。

しばらくそこにお世話になりました。快適でしたね。ある週末の朝、あまりに良い天気なので、ジョギングに出ました。ケンブリッジの郊外は、一面どこまでも続く草原地帯です。ジョギングに出たのは良かったのですが、その美しい田園風景に魅了され、真っ直ぐに伸びた道路を気持ち良くひたすら走りました。

ふと気づいたときには、ずいぶんと遠くまで走っていました。帰りも同じ距離を戻らなければならないことに暗澹(あんたん)とし、もう疲労困憊(こんぱい)で家路につきました。辺りもすっかり暗くなってしまい、走りすぎて痛くなった両脚を引きずりながら帰り着きました。

(つづく)

2015年1月10日土曜日

「20歳(ハタチ)のころ(1)」


 
いまから30数年前、英国のケンブリッジ(Cambridge)に住んでいました。単身での留学でした。いま振り返ってみても、よくもまあ思い切った行動に出たものです。当時、海外旅行の経験すらないのに、ひとり海外で生活しようというのですから、いやはや呆れたものです。いわゆる、「若気(わかげ)の至り」といったところでしょうか。まさに、無知は怖いもの知らず。

周知のように、ケンブリッジは、オックスフォードと並び称される英国有数の大学都市です。ロンドンの北北東に位置し、街全体が中世の面影を色濃く残しています。緑豊かで、中心街の西側にはケム川(Cam River)がゆるやかに流れ、パント(punt)とよばれる小舟が行き来しています。ホームシックになると、よくこのケム川沿いの芝地に寝ころんで、あきずに空を眺めていました。

授業のない週末には、古色蒼然(そうぜん)とした石造りの建物群のなかを散策したり、おなかが空くと、英国のファースト・フードであるフィッシュ・アンド・チップス(Fish & Chips)を買って食べたりしました。ホクホクとした白身の魚を頬張りながら、あてもなく街中をよくブラブラ歩きました。

たまには中国人がやっている路地の小さなお店で、チャーシュー・フライドライス(焼き飯)を食べました。とても安くて美味しかったのを覚えています。ここの小柄な中国人のおじさんが、勘定を済ませるたびに、「再見!(サイチェン!)」と言っていたのが今でも耳の奥に残っています。「また来てね!」といったくらいの意味でしょうか。

(つづく)

2015年1月8日木曜日

「20歳(ハタチ)のころ(序)」


年をとったせいか、最近よく若い頃のことを思い出します。

ふとした折りに、遠い記憶の断片が次々によみがえってくるのです。特にその中でも、20歳(ハタチ)のころに遠い異国のイギリスで暮らした月日が、しきりに思い出されます。いままでの人生において、かけがえのない日々だったのでしょう。

時の流れというものは、人それぞれ違っています。ある時は、ゆっくりと流れ、またある時は、めまぐるしく流れる。その時の年齢や時期によっても変わってくるでしょう。最近ことに感じるのは、年を重ねるにしたがって、加速度的に時間の経つのが速くなってきていることです。

そんなことをボンヤリ考えていたら、『そうだ、若き日の思い出を書き残そう』、と思い立ちました。次第に曖昧になってゆく記憶をたどりながら、これから少しずつ若い頃のことを書きとめてゆこうと思います。

いま思い返すと、イギリスで過ごした時間は、ひとつの清らかな流れとなっていたように思います。

2015年1月6日火曜日

短編小説を書いてみました。

今からちょうど6年前、髄膜炎を患って入院しました。その後、長期の自宅療養となりました。結局、半年ちかく仕事を休んだと思います。

医者からは、なるべく運動は控えるようにとの指示もあり、毎日読書をするしか仕方ありませんでした。仕事をしているときには忙しくて感じませんでしたが、別段なにもすることもなく日々過ごすというのは、ある意味苦痛でした。

そんな折、気まぐれに小説でも書いてみようかと思い立ち、毎日少しずつ書いていたら、100ページほどの短編になりました。

先日、自宅のパソコンのファイルを整理していたら、その小説を見つけましたので、ここに添付しておきます。いま読み返してみて、なんとも気恥ずかしいものがあります(苦笑)

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