2015年3月27日金曜日

「20歳(ハタチ)のころ(12)」

英国留学の当初は、ケンブリッジではなく、ブライトン(Brighton)という街に住んでいました。ロンドンのビクトリア(Victoria)駅から列車で真っ直ぐ南に下ったところにある海辺の保養地です。サセックス(Sussex)州に属しています。いつもどんよりとした天気のイギリスには珍しく、陽光あふれる明るくて緑豊かな街です。海岸線は、白い石灰岩の断崖が続います。街の前面には、大西洋が広がっています。

まずは英会話を習得するため、数ヶ月間、語学学校へ通いました。クラス担任の先生は、リンダ(Linda)とセーラ(Sera)という二人でした。ふたりとも若くて、美しく魅力的な女性でした。特にリンダは、小柄でしたがスタイルもよく、鳶色(とびいろ)の瞳と小麦色の肌が印象的でした。いつも胸元が微妙に開いた、身体に密着したTシャツを着ていました。純粋無垢(むく)な青年(?)には、少々刺激が強すぎましたね。時折、目のやり場に困って、授業に集中できないこともありました。

セーラも清楚な美人で、いつもブロンドの髪をポニーテールにして、深く澄んだブルーの瞳が輝いていました。リンダとは違って、質素で地味な服を好んで着ていましたが、淡い色合いでセンスがあり、よく似合っていました。まだ新婚で、イケメンのご主人がいつも終業時に迎えにきていました。セーラはリンダ同様、非常に優秀で、クラスメイトによると、二人とも一流大学を卒業している才媛だ、とのことでした。

授業内容は、文法や発音、または作文などがありました。授業の一環として、さまざまな話題について、クラスで議論(Discussion)や討論(Debate)もしました。当時は、日本経済の隆盛期で、メイド・イン・ジャパンの製品が世界を席巻していました。ある日の授業では、南米チリから来ていた留学生が、日本製品について討論を始めました。かれは日本車がいかに優れているか強調しましたが、その異常なまでの世界市場への販売行動に危惧(きぐ)を抱いていると話しました。

しかし悲しいことに、日本人として、それに対する反論ができませんでした。英語力の問題は明らかでした。それと同様に、日本車の海外への輸出や貿易問題について、一切考えたこともありませんでした。それに関する知識も持ち合わせていませんでした。いかに自国のことを知らないのか、身に染みました。反論に窮していると、セーラが助け舟を出してくれました。日本のメーカーがただ単に製品を売るだけではなく、アフター・サービスも優れていることを話してくれました。英会話を勉強する前に、まずは様々な問題について基本的な知識を得ていないと、内容のない会話を続けるだけになってしまうことを痛感しました。

授業が終わると、ひとり浜辺に出て海を眺めて過ごしました。砂浜に腰を下ろして、ボンヤリと遥かな水平線を見つめていました。穏やかな海がどこまでも続いていました。カモメが鳴いていました。その声はなんとも哀愁を帯びていました。この海の先に広大な大西洋が広がっていて、その南にはアフリカ大陸があるのかと思うと、不思議な気持ちでした。その当時、スーパートランプ(Supertramp)の『ブレックファースト・イン・アメリカ(Breakfast in America)』という曲が流行っていました。いまでもこの曲を聴くと、その物悲しい旋律(せんりつ)と相まって、あの頃の記憶が鮮やかに蘇(よみがえ)ってきます。

(つづく)

2015年3月14日土曜日

「20歳(ハタチ)のころ(11)」


ワインバー、『シェイズ』での楽しい思い出は尽きません。毎週金曜の夜は、まさにドンチャン騒ぎでした。まるで新選組が京都の角屋で総揚げをしたような喧騒(けんそう)でした。貧乏留学生の身分で、浴びるほどワインを飲み、唄い、踊りましたね。それは忘れがたく、懐かしい映画の一シーンのように、今でも鮮やかに蘇(よみがえ)ってきます。

他の留学生たちとも素晴らしい時間を過ごせたように思います。おかげで沢山の友人もできました。かれらが帰国したあとも、関戸さんや赤居さんと一緒に、夏休みを利用してヨーロッパ各地を訪ね歩きました。訪ねるたびに、大歓迎してくれました。あれから30数年が経ってしまって、かれらとの連絡が途切れたことは誠に残念です。

まさに金曜日の夜は羽目をはずして遊びました。しかし、そのほかの日は、いま思い出しても、本当に良く勉強しました。まあ一応学生ですから、当然といえば当然ですが、一生のうちであれほど勉強したこともありません。寝食を忘れて勉学に励んだといった日々でした。あの当時使った辞書やテキスト類を見ると、もうボロボロで、赤いボールペンでやたら下線を引いたり、丸で囲ったりしていますから、必死で勉強に打ち込んだ痕跡がうかがえます。

週末は一日中図書館にこもって、辞書と首っ引きで様々な本を読みました。ケンブリッジは、万有引力を発見したアイザック・ニュートンや、進化論のチャールズ・ダーウィン、経済学者のジョン・メイナード・ケインズ、はたまた理論物理学者のスティーブン・ホーキング博士など、人類の歴史において、社会の変革に大きく貢献した著名人を多数輩出しています。トリニティー・カレッジ(Trinity College)の正門の横には、ニュートンが万有引力発見のキッカケをつくったと伝わる林檎(リンゴ)の木が分枝してあります。

このトリニティ・カレッジの古色を帯びた正門は、グレート・ゲートウェイと呼ばれていて、創立者のヘンリー8世の彫像が掲げられてあります。このヘンリー8世は、気に入らなくなった妻たちをロンドン塔へ幽閉し、断頭台で処刑しています。離婚できないカトリックの教えに対抗し、自ら英国国教会をつくった何とも身勝手な王様でもあります。

この彫像にはこんな話があります。像は、左手に英国国王の象徴ともいうべき、頂に十字架のついた宝珠を持ち、右手には王枝を掲げています。しかしよく見ると、王枝の代わりに椅子の脚が挿してあり、一見して、誰も気づきません。実は椅子の脚だ、と云われてはじめて気づく程度です。

十九世紀頃、学生たちが酒に酔って、夜な夜なその門楼によじ登り、いたずらに王枝を引き抜き、その代わりに椅子の脚を挿したらしいのです。大学側が取り替えるたびに、王枝は椅子の脚にとって換わってしまって、大学側もすでに諦めたのか、いまもその状態が続いています。当のヘンリー8世も、あの世で苦笑しているに違いありません。

(つづく)

2015年3月4日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(10)」


関戸さんの『南京玉すだれ』は、各国の留学生たちの話題の的(まと)となりました。面白い日本人がいるとのウワサが広まり、ワインバー、『シェイズ』は、金曜日の夜になると、留学生たちで溢れ返りました。次第に客たちの酔いがまわり、場が盛り上がり出すと、関戸さんのパフォーマンスを促す声が上がりました。「ケイジ! ケイジ!」、と関戸さんの名前を連呼します。関戸さんは、まるで、『シェイズ』お抱えの専属芸人のようでした。

みんなの熱望に応えるように、関戸さんは片手を高々と上げると、部屋の中央へと進み出ます。「待ってました!」とばかり、歓声が沸き起こりました。今か今かと奇妙な日本の『Dance & Song』を待っていた聴衆の興奮は最高潮へ達します。関戸さんは、みんなの視線を集めるように一息つくと、やおら軽妙なステップと手拍子を始めました。

♪ア、さって、ア、さって、さては南京玉すだれ♪ 

関戸さんは、いつものように声を張り上げて唄いました。その歌声は地下の狭い小部屋に響き渡ります。留学生たちも、もうすっかり慣れたこのリズムに合わせるように、テーブルを叩き、両足を踏み鳴らし始めます。店のマスターも、「また始まった・・・」、といったように諦(あきら)めたような仏頂面をしています。そんなことには一向にお構いなく、関戸さんのパフォーマンスは続きます。

そんな中、赤居さん同様、同じ日本人として、関戸さん一人に任せるわけもいかないという気持ちを抱き始めました。そのうちに、したたかに酔った勢いにまかせ、ふたりは関戸さんと一緒に唄い踊り始めました。もうすでに恥ずかしいという気持ちは消え失せていました。新たなバック・ダンサーの登場に、留学生たちのヤンヤヤンヤの喝采が巻き起こりました。「ブラボー! ブラボー!」の叫び声が、店内に響き渡りました。その喧騒の中で、ひたすら3人は我を忘れて唄い踊りました。陶酔の域に達していました。一緒に踊りだす留学生たちもいました。

いま振り返ると、なんとハチャメチャな遊びをしていたのかと、呆れて苦笑してしまいます。関戸さんによると、『南京玉すだれ』は、学生時代、ラグビー部の宴会の余興で披露していた出し物(?)の一つだったそうです。こんなにウケるとは思わなかった、と笑っていました。全身全霊を込めて、集中して演じる(?)ことがウケるコツだ、と胸を張っていました。ラグビー部の飲み会のあとなど店を出ると、「国歌斉唱!」と叫んで、一列に立ち並ぶ後輩が歌う『君が代』に合わせて、歩道の脇にある電信柱によじ登り、おまわりさんによく怒られた、と屈託もなく笑っていました。

(つづく)

Readers