2014年11月6日木曜日

中国漁船によるサンゴ密漁について


小笠原諸島海域での中国漁船によるサンゴの密漁が問題になっています。彼らの法を無視した傍若無人な蛮行には憤りを覚えます。まるで他人の庭に無断で入り込み、堂々と植木を根こそぎ盗んでいるようなものです。

日本側の抗議に対してAPEC開催をひかえる中国は、従来からの態度を柔軟にし、監督を強化すると返答しているようです。それにしても納得ができません。人の家にズカズカと押し入り、ものを盗んでおきながら何ら処罰もせず、ただ今後は漁民たちに止めるよう指導するとは、まったく理解に苦しみます。まずは盗んだ赤サンゴを没収し、日本側へ謝罪とともに返還するのがスジのように思います。

日本政府または外務省も、自国領海内での無法行為に対して、中国側に「監督を強化する」と言われて、「はい、それではお願いします」では、なんとも情けない。それよりも、「この件に関する貴国の対応に関わらず、わが国の領内におけるいかなる違反行為も法に則り厳重に取り締まります」と、どうして明確なメッセージを出せないのでしょうか。軟弱な外交姿勢は、さらなる問題をひき起こします。

懸念材料としては、このまま中国漁船による密漁を続けさせてしまうと、中国側は「監視船」などと称して船舶を小笠原海域へ差し向けて海洋行動の既成事実を積み上げ、フィリピンと揉めているスプラトリー環礁の領有権問題のように、小笠原諸島へと次第にその触手を伸ばしてくるのではないでしょうか。

このような中国側の姑息な策謀を挫く観点から、日本は早急に警戒監視体制を強化し、断固たる態度をもって、密漁をしている中国漁船を排除しなければならないと思います。日本としてそのように毅然たる行動をとるということは、主権国家として当然のことです。

しかしながら不思議なのは、東京都に属する小笠原諸島海域での中国漁船よる密漁について、都知事である舛添知事が一切抗議の声を上げていないことです。中国にすり寄っていた彼にとっては都合が悪いのでしょうか。

2014年10月20日月曜日

エボラ出血熱について


エボラ出血熱の感染拡大が深刻な問題になってきています。

アメリカでも一人がすでに亡くなっており、その彼の治療に携わった看護士ふたりも感染した模様です。当初は中央アフリカ西海岸諸国に限定されると伝えられていた感染も、次第に世界各地へ拡がり始めているようです。私たち人類は、いつの時代になっても、あくなき伝染病と戦ってきたようにおもいます。

先日、あるラジオ番組で、元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏が話していた内容にゾッとしました。彼の話によると、今後非常に心配されることの一つが、イスラム国やアルカイダ組織などのテロリストが自爆テロを目的としてエボラ出血熱に自ら感染し、旅行者として西側諸国に潜入することだそうです。例えば、感染したテロリストが新宿や渋谷の雑踏の中を歩き回って、不特定多数の人々に感染させるというシナリオです。まさにパンデミックによる破壊工作です。

「まさか!」と思われるかもしれませんが、実際、銃や爆弾よりも容易く、それも多数の人間を死に至らしめる効果のあるテロ行為であることに間違いありません。もしそんな事態になれば、おそらく社会は極度のパニックに陥り、秘かに忍び寄ってウイルスを撒き散らす敵に対する防御は非常に困難です。最悪の事態といえます。

「うちわ問題」や「明治座観劇会問題」で大騒ぎしているヒマがあったら、国民の生命を守るため、エボラ出血熱を介した新たなテロ活動の可能性や対応について議論を始めるべきではないでしょうか。あまりに平和ボケしているといえます。「エボラ」は、「エバラ焼肉のたれ」ではないのです。

2014年9月30日火曜日

漢字について

私たちが日頃使っている漢字は、もともと中国から来ているのは周知のとおりですが、現在中国で使用されている言葉で、日本人がつくった言葉があるのは意外と知られていないようです。

明治時代、日本人は西欧の文化や概念を漢字に置きかえるのに大変苦労したようです。たとえば、「政治」という言葉は、日本人がつくっています。そのほかの言葉としては、「経済」、「社会」、「哲学」なども中国語にはなかった言葉です。

面白いことに、中国の現支配体制である「共産党」という言葉も日本人がつくっていますし、国名の「中華人民共和国 (the People's Republic of China)」のなかの「共和」も日本人がつくっています。当の中国人も、まさか自分たちの国名に日本人がつくった言葉が入っているとは思いもよらないでしょうね。

2014年9月25日木曜日

ぼくのメモから - 座右の銘

サッカー日本女子代表監督 佐々木則夫氏の言葉



「座右の銘」・・・「歩歩是道場」

読みは「ほほこれどうじょう」。常にどこでも、学びの場になるという禅の教えだ。大学時代、道ばたに落ちている空き缶を見た父親が言った。

「ゴミを拾わなきゃと思っても、ゴミ箱に入れる人間は少ない。見た瞬間、どう行動するかで人間は決まる。ゴミがおまえを学ばせてくれる」。

この言葉をきっかけに、「歩歩是道場」を意識するようになった。


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なるほど・・・。なかなか含蓄のある良い言葉ですね。いつも素直な心を持って、何事も謙虚に学ぼうとする姿勢を持っていることが大切ですね。

ちなみに、ぼくの「座右の銘」は、「春風接人 秋霜自粛」。

読みは、「春風(しゅんぷう)をもって人に接し、秋霜(しゅうそう)をもって自ら粛(つつし)む」。

意味は、「人に対しては暖かい春風のように接し、自分自身に対しては秋の霜のように厳しく律する」です。

このとおり実践しているのか、逆に「人に厳しく、自分に甘くないか」、日々、反省しきりです。


2014年9月23日火曜日

ぼくのメモから - 自己を知る



「汝を知るにはどうしたらいいか。言葉ではなく、行動によって知るほかはない。しかしどんな行動を行うべきか。それは日々の務めを果たすほかはない」 (ゲーテ)

なるほど…。 今日もいろいろあったけど、頑張りました。

2014年8月27日水曜日

髪はなが~い友達2


 女性にとって自身の体重を気にするように、男性にとって日々薄くなってゆく頭髪は何かと気になるものです。男性にとって「デブ・ハゲ・メガネ」は、まさに三重苦といえます。

 一般的に「薄毛(またはハゲ)」といわれるものは、医学的に男性型脱毛症(AGA)と呼ばれます。男性ホルモンの影響が大きいといえます。ちなみにAGAは、androgenetic alopeciaの略だそうです。単なるハゲなのに、いかにも高尚な症名がついているものです。

 AGAの治療には、毛髪や頭皮の状態にもよりますが、皮膚科や形成外科の専門医が携わるようです。しかし形成外科医がどのようにハゲの治療に関わるのかは不思議です。過度のストレスによる抜け毛や、過度の抜け毛によるストレスなどに対しては、精神科医の治療も必要であるかもしれません。

 現在、認可されているAGA治療薬は、医者の処方が必要な内服薬のフィナステリド(商品名プロペシア)と外用薬で一般大衆薬であるミノキシジル(商品名リアップ)の2種類があるようです。しかし、あくまでその効果には個人差が大きいとおもわれます。

 つまりその他の市販されている育毛剤は、正式に発毛の効果が認められていないということになり、それらの使用はある意味、「気やすめ」または「無駄な抵抗」であるといえます。やたらと高価な育毛剤を買い求めるのは、何事もお金で解決しようという安易さがあり、淡い期待を伴った「自己満足」といえます。

 AGAにはそのハゲの形状から、頭頂部が薄くなるO型(いわゆる『ザビエルハゲ』)と、前頭部から薄くなるM型があるようです。しかし側頭部だけが残り、前頭部から後頭部にかけて広範囲に禿げる、いわゆる『波平ハゲ』は何型になるのでしょう。

 からくも残った数少ない髪の毛を、まるで定規で測ったように等間隔に撫でつけたオヤジをたまに見かけますが(いわゆる『すだれハゲ』)、その芸術的な「クシさばき」には、感動さえ覚えます。

 さて、毎日欠かさず頭皮をマッサージし血行をよくすると、発毛促進に効果があるといわれています。しかしながら過度のマッサージは頭皮を痛め逆効果になるようです。何事もホドホドが良いということでしょう。

 いずれにしても、ポツポツと雨が降り出すたび、すぐに頭皮で感知してしまうことのないようにしたいものです。「髪よ、生えよ」と、日々「カミ」に祈りながら、セッセと発毛に努力することが肝要のようです。

髪はなが~い友達1

佐田家のルーツを求めて

― 鎮西宇都宮佐田氏系図 ―

  

  佐田氏の始祖は、15世紀の室町時代に活躍した武将、佐田親景(ちかかげ)とおもわれます。佐田氏は、下野(しもつけ)(現 栃木県)の国司を務め、鬼怒川(当時は毛野川)流域一帯を治めた大身、宇都宮氏の流れをくんでいます。

  宇都宮氏は、もともと石山寺(一説には大谷寺)の座主であった藤原宗円を祖とし、源頼朝から「坂東一の弓取り」と絶賛された、宗円の孫の朝綱(ともつな)より宇都宮氏を称しているようです。有力な鎌倉御家人だったようです。

  その後、嫡流の宇都宮氏より庶流の豊前宇都宮氏(城井氏)、伊予宇都宮氏、さらに筑後宇都宮氏(蒲池氏)へと分家したようです。佐田氏の祖である佐田親景(ちかかげ)は、豊前宇都宮氏(城井氏)の流れをくんでいます。つまり、朝綱(ともつな)の嫡男である宗綱が宇都宮氏を引き継ぎ、その弟である宗房の嫡男信房が豊前国に地頭職を賜って、中津郡城井に居住し、鎮西宇都宮氏の始祖となっています。  

  信房のあと、景房、信景と続き、正応3年(1290)、信景の嫡男、通房が幕府より足立五郎左衛門大尉遠氏の知行地である宇佐郡佐田荘(現 大分県宇佐市安心院町(あじむちょう)佐田)を地頭職として代わりに領するよう命じられています。

  建武3年(1336)には、その通房の孫(息子頼房の第5子)である公景は、足利尊氏の軍事指揮下に属しています。公景は、初代九州探題、一色道猷を支えた有力武将の一人であったようです。九州において威勢を誇っていたことがうかがえます。

  しかしながら公景は文和3年(1354)に戦死し、公景のあとの経景も筑後国山崎で戦死しています。ときの九州探題、今川了俊は経景の子息親景に対し、跡目相続を安堵しましたが、経景の弟氏治(親景の叔父)が佐田の所領・所職を押領してしまいました。しかし応永7年(1400)、そのときの九州探題、澁川満頼が親景を薩摩守に推挙し、本領を安堵しています。

  この宇都宮親景が、佐田氏の始祖です。親景の通称は因幡(いなば)次郎で、法名は昌節となっています。親景は、応永6年(1399)、標高300メートルほどの佐田荘青山に佐田城(地元では青山城と呼ばれているようです)を築き、豊前城井(きい)郷菅迫より移住し、宇都宮を改めて佐田姓を称し、名を佐田親景としています。ちなみに佐田の語源は、狭田、小田からきているといわれ、また、陸と海を限定する岬からきているともいわれます。

  佐田城址には、いまでも土塁、空堀、土橋、一部石垣が残っているようです。尾根を巧みに利用した大規模な山城だったようです。佐田には、大分県の有形文化財として指定されている佐田郷の総鎮守社、佐田神社もあるようです。






佐田城への登山口に設置されてある「案内板」には、以下のように記されています。

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【佐田城(別名青山城)と佐田氏】
 

  標高約300mの青山を主体として、そこから派生する尾根や尾根先端部に土塁・空堀・曲輪等の城郭遺構が東西1000m・南北600mにわたり、良好に残っています。

  応永6年(1399)佐田親景(ちかかげ)が城井(きい)谷菅迫(現 福岡県みやこ町犀川城井)から佐田青山に移って築城したといわれています。

  佐田氏は、有力な鎌倉御家人である宇都宮系城井氏の分家です。九州探題が九州に下向する場合は必ず宇都宮氏に強力を要請しています。

  この地は豊前国と豊後国の境界に位置しているため、大内・大友両氏の抗争の舞台となっています。佐田氏は、大内氏支配の時には宇佐郡代に任命されています。天正15年(1587)黒田孝高(よしたか)(如水)が豊前6郡を支配すると、大友氏を頼って豊後へ赴いています。しかし、文禄2年(1593)に大友氏が豊後国から去るにあたり佐田に戻り、元和元年(1615)には細川氏の家臣となり、熊本転封に同行しています。

宇佐市教育委員会
佐田地区の歴史を考える会

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大分県宇佐市安心院町(あじむちょう)佐田

  佐田氏は、もともと宇都宮氏と同族であるため、周防の大内氏に従っていたようです。その後、大内氏が豊前国を領するようになると、もっとも有力な佐田氏は宇佐郡代に任じられています。資料によると、享徳3年(1454)に佐田盛景、延徳4年(1492)俊景、永正15年(1518)泰景、大永6年(1526)朝景、天文19年(1550)には隆居(たかおき)がそれぞれ郡代だったことが確認できるようです。

  宇佐郡代の職務は、宇佐宮寺の造営用材木の採用や社納人足の催促、訴論地の打ち渡し、宇佐宮諸職の打ち渡し、直轄領違乱に対する成敗などから、宇佐宮造営・諸神事の奉行などであったようです。また、この地域は豊前・豊後の境界に近く、大内・大友両氏による抗争の舞台ともなり、大友軍はしばしば佐田氏を攻撃しているようです。

  明応7年(1498)には、大友氏(親治)は佐田泰景を攻撃し、泰景は父俊景とともに菩提寺に立て篭り奮戦し、翌年10月には、宇佐郡院内衆とともに妙見岳城で大友軍に抗戦しています。天文3年(1534)には、大内義隆は豊前方面から豊後を突こうとして進出し、これに対して大友義鑑は大友方の佐田朝景を攻撃しています。この年に「勢場ケ原の合戦」が起こり、佐田氏が活躍したようです。

  その後、大内氏は陶晴賢(すえはるたか)の謀反により没落すると、弘治2年(1556)、大友義鎮が豊前制覇のため宇佐郡に進出し、翌年、宇佐郡衆は豊後大内氏に従うようになったようです。このころの佐田氏の被官として、佐田一族をはじめ、加来・永松・高並・平群・小田氏等がいたようです。

  大内氏から大友氏へ仕えるようになると、とくに佐田家14代弾正忠佐田隆居(たかおき)は、宇佐郡衆の中心的存在として、大友軍に属して各地に転戦して活躍しています。この隆居と息子の15代弾正忠佐田鎮綱(しげつな)は、大友宗麟・義鎮父子の信頼も厚かったようです。隆居の嫡男は大友義鎮より「鎮」の字を賜り鎮綱と称しています。大友宗麟の生涯を描いた遠藤周作の小説、『王の挽歌』の作中にも、佐田氏の名がでてきます。

  興味深いのは、代々豊後国緒方庄(現 大分県豊後大野市緒方町)一帯を領していた緒方一族も大友氏に仕えていますので、この当時佐田氏と何らかの接点があったのではないかと想像します。ちなみに大友宗麟が大友家の家督を継いだとき、緒方氏の娘が正室候補になったという記録があるようです。

  天正期(1573~92)になると大友氏勢力が次第に弱体化しはじめ、天正6年(1578)、有名な「日向耳川の合戦」において大友氏が島津氏に大敗してしまいます。それによって多くの国人領主が大友氏を見限り離反しますが、佐田隆居と鎮綱父子は変わることなく大友氏に従ったようです。同11年(1583)正月、安心院麟生が竜王城に拠って大友氏に背くと、隆居はこれを攻め、本領安堵の条件を出して開城させています。佐田氏の大友家への強い忠誠心がうかがえます。

  しかし島津氏の攻勢は激しく、やがて大友氏が退勢となりますが、豊臣秀吉の九州征伐があり、島津氏は薩摩に撤退を余儀なくされ、九州は秀吉の国割りによって豊臣政権下の大名に所領が割り当てられました。

  天正15年(1587)、豊前六郡(京都、築城、上毛、下毛、宇佐)に黒田官兵衛孝高が入部してくると、佐田氏は領地を追われてしまいました。黒田家の部将・母里太兵衛(NHK大河で速見もこみちが演じている)が城を預かったようです。それによって佐田氏は、8代、188年間守り抜いた城地を去ることになります。その後、大友氏を頼ったようですが、文禄元年(1593)、大友義統が改易となり豊後除国に伴い佐田に戻ったようです。

  佐田一族は、その後黒田氏に降り、その客分となり、のち元和元年(1615)、細川忠興の家臣となり、細川氏の熊本転封にともないそれに同行したようです。まさにそこには、激動の戦国時代の荒波に揉まれ、佐田一族の維持と繁栄のため奮闘した歴史があります。

  細川家へ仕えるようになった初代・五郎右衛門や代々の佐田家については、元和5年の「細川忠興公判物」「佐田五郎左衛門知行方目録」(佐田文書)等が残されており、代々能吏として藩に仕えたようです。七・八・九代を特に記すと、

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  七代佐田宇兵衛(谷山)は 名は介景、字は子国、宇兵衛と称し、致仕して谷山と号せり。藩に仕へ小姓役を勤む。禄百五十石、程朱の学を好み、傍俳歌をよくす。春雛、箕足と号す。又音楽を能くし、曾て壽永筝を得て珍蔵し、孫宇平の時に献上して今は御物となれり。享和三年五月三日没す。享年七十五。墓は本妙寺中東光院。

  八代佐田右十(右州)は 名は英景、右州と称し、造酒之助と改む。食禄二百五十石、小姓役、使番、中小姓頭小姓頭等を勤む。多芸多能のひとにして俳辭、散楽、蹴鞠、茗理、篆刻、種樹等皆能くせざるはなし、又頗る剣技に長ぜり。文化十四年十二月五日没す。享年五十九。

  九代佐田右門(右平・吉左衛門)は 名は玄景、右平と称し、後吉左衛門と改む。藩に仕へ食禄三百五十石、奉行職を勤む。平素好んで詩書を謡し、史事を考證し、手に巻を廃せず。安永元年八月弐拾日没す。享年七十四。

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  これらが記された膨大な佐田文書の多くは、肥後細川藩の貴重な文献として、熊本県立図書館に所蔵されているようです。その文書は多岐におよんでおり、史料的価値は大きいとおもわれますが、詳細な研究にはまだ至っていないようです(東京大学史料編纂所にて基礎的な調査あり)。古文書の読解力があればよいのですが、読んでみると当時の武家の日常生活などが垣間見られ、非常に興味深いのではないかとおもわれます。

  ちなみにシンガーソングライターのさだまさしの佐田家は、もともと島根県那賀郡三隅町(現 浜田市)の大地主の家系のようです。父親が先の大戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、そのまま長崎に住み着いたようです。また、1940年代後半から1960年代に活躍した俳優、佐田啓二の本名は中井寛一で、佐田氏とは関係がなさそうです。

  さて、疑問として残るのは、佐田家の家紋が桔梗(ききょう)であり、調べた限り、上記の佐田氏が同じ桔梗紋を用いていたかどうかが定かではありません。宇都宮氏の流れをくむことで『左三つ巴』を用いていたかもしれませんし、佐田氏の始祖、親景が宇都宮氏より佐田氏と称したおり、桔梗紋を用いたのかもしれません。

  武士でこの紋を用いたのは清和源氏の土岐氏で、戦国時代には土岐氏の流れをくむ明智光秀が水色の桔梗紋を用いたことは有名です。熊本細川家の前城主、加藤清正も桔梗紋を用いたことがあったようですから、細川家に仕えるようになったことに何らかの起因があったかもしれません。いずれにしても、源氏の流れをくむ武家の出であることは間違いなさそうです。

  最後に、以下に佐田文書を列記してみました。細川藩の文官として、また佐田家歴代当主の手になる日記を主に、おびただしい数の文書が残されています。代々筆まめであったようです。とくに99番の二天一流(にてんいちりゅう)は、宮本武蔵が晩年に熊本で完成させた兵法です。その理念は著書『五輪書』に著されています。どうも佐田家のご先祖さまが、その写しをとったようです。面白い文書としては、蒙古襲来に対して活躍した竹崎季長の寄進状の写しや、犬に咬まれたときにとった救急処置の記録などまであるようです。


佐田文書 (熊本県立図書館蔵)


1.  亀霍問答

2.  御使者番勤録 佐田写 

3.  玉名郡受付古墳墓誌考「内田手永薬師堂書付」 写 

4.  日記 嘉永七年甲寅 

5.  東行日記 寛政十一年 

6.  御客帳 弘化四年三月 

7.  衣服御制度御書附之写   

8.  「月番御役心得」 永田写

9.  御葬式しらべ帳 文政三年辰九月 

10. 衆成講通帳 慶応元年十月 

11. 烏目覚 庚辰九月 

12. 横監対語 文政五年より 

13. 黒石山より所々迄出方帳 安政四年十一月 

14. 覚 佐田 

15. 漫録 

16. 途旅中日記 文化丁丑秋七月        

17. 御参勤陪駕途旅中日記 文化十二乙亥二月 

18. 日記 慶応二年丙寅 

19. 紀州百姓騒動一件 

20. 東都白銀邸日記 文久二年正月 (佐田淑景著) 

21. □禄日記 文政六年 (□ 判読不可)

22. 日載 天保五年 

23. 「細川氏系譜」写      

24. 日記 天保十年己亥       

25. 見聞払記 

26. 日々禄 天保七年正月元旦 

27. 阿蘇宮参拝記 天保八年四月 

28. 豊前国小倉在陣中日記 元治元年十月一日      

29. 日記 天保六年 

30. 日記 弘化六年 

31. 年頭御禮申上覚 

32. 下作代入組等書付 文化十三年改 

33. 御妹様御病死・・・・御吊儀御使者名簿      

34. 雑記帳 天明四年甲辰三月御先立被仰付 他 

35. 雑記帳 羽衣・山姥 他 

36. 宇佐紀行 文化十四年 

37. 雑記帳 文化九年ノ記 画師高雪峯の事等 

38. 鄙日記 文化甲戌夏卯月 

39. 日簿 文政十三年庚寅正月

40. 日記 弘化五年戌申 

41. 天保十三年壬寅目録 玖瑰園 

42. 日記 嘉永四年辛亥 玖瑰園 

43. 日記 嘉永二年己酉 壽永閣

44. 日記 嘉永六年癸丑 玖瑰園

45. 日記 嘉永三年庚戌 玖瑰園         

46. 日記 天保七年丙申

47. 日記 天保五年甲辰

48. 日記 弘化四年丁未 玖瑰園

49. 日表 天保三年壬辰正月

50. 日記 天保九年戊戌

51. 豊前紀行

52. 文化十年暮江戸御人賦津田平助手元ニ而相調監物殿相達候写

53. 西国御郡代三河口太忠様嫡深谷御止宿之節月番 文化十一年

54. 熱海笈の引出 天明四年甲辰五月 (雑記帳メモ)

55. 雑税 文化八年

56. 萬之控

57. 随筆 佐田義景 文化六年正月十日起筆

58. 藩翰譜之内 細川譜考異 佐田英景写

59. 犬咬急救録 千代村宗元

60. 蒙宰司徒寮 坂田玄景写

61. 池邊寺文書 写

62. 小国満願寺傳来之書付 写

63. 竹崎季長塔福寺寄進状 長瀬真幸写

64. 「細川輝経公」写 松井家旧記ノ内書抜

65. 内大臣山并矢部馬見原川ノ口之紀行

66. 御手当名附 嘉永三年 写

67. 石川開御買入一件抜書

68. 宮城野土産

69. 志方半兵衛有馬御陣中より洛外吉田ニ被成御座候三斎様江言上之書翰写 寛文九年

70. 御小姓組四組御小姓頭支配名附

71. 御国律 宇佐永孚写

72. 生田又助覚書 附細枝実記

73. 由来書高砂一巻并書通之写 天野屋写

74. 御国律 佐田淑景写

75. 梅木田覚書 志水加兵衛写

76. 口上之覚 写

77. 廃刀之儀ニ付加屋霽堅当県江上書之写

78. 漫録 写

79. 御系譜 写 (細川斎茲まで)

80. 尚歯之記 安永六年 安田貞方写

81. 家中式法覚 享和元年正月改正 写

82. 御奉行奉書控 寛永・正保等

83. 御納戸日記 堀田正俊・柳沢吉保 写

84. 丹羽亀丞言上 写

85. 先祖附并御奉公附 写 森寿吉

86. 水野家記 日下部景衡写

87. 覚 八代上納候分

88. 古文書写

89. 阿曽大宮司所蔵古文書 写

90. 浅草川小堀長順游之覚 写 原著宝暦10年

91. 堀太夫行状 写

92. 大阪御供記 佐田義景写

93. 鉄炮注文三種 覚

94. 秘府記略 五上 写

95. 秘府記略 五下 写

96. 高瀬清願寺、願行寺文書 長瀬助十郎等写

97. 二天記 写

98. 二天一流 写

99. 小倉大里滞陣中記 佐田彦之助写

100.宮城野土産追加 佐田亥之助(淑景)写

101.忠利様肥後御入国御供面々宿割付 佐田右門写

102.宇土御記録

103.夢中の妄想 写

104.裁縫伝授書

105.寿仙院様島原陣御證書栞 佐田義景写

106.頴才詩録 第一号

107.はきのつゆ 写 催馬楽のうち


  肥後細川藩侍帳によると、歴代佐田家当主は以下のようです。


1. 初代 五郎右衛門​​   

細川忠興公判物(元和元年)豊前
佐田五郎左衛門知行方目録(元和元年)

2. 二代 吉左衛門

3. 三代 市郎左衛門   ​

百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)

4. 四代 新兵衛​​      

(1)有吉頼母允組 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳) 
(2)西山八郎兵衛組 惣銀奉行 百五十石
細川綱利公判物(寛文元年)

5. 五代 又次郎(養子) ​ 

佐田又次郎知行差紙(養父新兵衛上知分)

6. 六代 宇兵衛・正時(初・次郎吉・新兵衛)

百五十石 御番方十二番御小姓組四番 屋敷・京町

7. 七代 宇兵衛      

細川宣紀公御書出(正徳六年)

(佐田谷山 名は介景、字は子国、宇兵衛と称し、致仕して谷山と号せり。藩に仕へ小姓役を勤む。禄百五十石、程朱の学を好み、傍俳歌をよくす。春雛、箕足と号す。又音楽を能くし、曾て壽永筝を得て珍蔵し、孫宇平の時に献上して今は御物となれり。享和三年五月三日没す。享年七十五。墓は本妙寺中東光院。)

8. 八代 右十(造酒助) 

百五十石
​​​享和二年十一月~文化二年二月 川尻町奉行
​​​文化二年二月~文化八年九月   中小姓頭
​​​文化八年九月~文化十四年十一月 小姓頭
​​​文化十四年十一月~文化十四年十二月(病死) 留守居番頭

(佐田右州 名は英景、右州と称し、造酒之助と改む。食禄二百五十石、小姓役、使番、中小姓頭小姓頭等を勤む。多芸多能のひとにして俳辭、散楽、蹴鞠、茗理、篆刻、種樹等皆能くせざるはなし、又頗る剣技に長ぜり。文化十四年十二月五日没す。享年五十九。史料:嶋原一件書状之写(温泉嶽燃出、津波被害の状況報告の手紙七通)寛政五年)

9. 九代 右門(右平・吉左衛門) ​

右門-御目付 三百石
右平-旧知二百五十石
​吉左衛門-旧知三百五十石
​​細川斎護公御書出(文化九年)
​同上      (弘化四年)
天保元年七月(大組付)~天保三年二月 高瀬町奉行
天保三年二月~天保五年九月 奉行副役
天保五年九月~安政元年八月(病死)奉行-吉左衛門ト改名

(佐田右平 名は玄景、右平と称し、後吉左衛門と改む。藩に仕へ食禄三百五十石、奉行職を勤む。平素好んで詩書を謡し、史事を考證し、手に巻を廃せず。安永元年八月弐拾日没す。享年七十四。)

10.十代 新兵衛   ​​        

大組附・留 三百五十石

11.十一代 彦之助          ​​

二百五十石

何代かは不明  佐田次郎吉知行(慶安四年)

            同上      (承応二年)父市郎左衛門トアル

        佐田新兵衛知行引渡差紙写(寛延三年)宇兵衛上知高百五十石・・・ 

2014年8月17日日曜日

緒方家のルーツを求めて



ご先祖さまの緒方三郎惟栄(これよし)(惟義とも書く)(生没年不詳)は、12世紀末ごろの源平争乱期に活躍した武将です。もとは宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官だったようです。荘官は、いわゆる地方豪族で、現場にいて土地を管理し、年貢を徴収し、警察事務を担当していました。緒方庄は、現在の大分県豊後大野市緒方町一帯であったと思われます。宇佐神宮は、同じ大分県宇佐市にある、全国に約44,000社ある八幡宮の総本社です。

緒方三郎惟栄は、豊後大神(おおが)氏の流れをくむ豊後国37氏の姓祖といわれています。もともとは大神惟栄と名乗っていたようですが、大野荘緒方郷に荘官として住み始め、武士化して緒方氏を称したようです。豊後大神一族は、そのほかに大野氏、阿南氏、臼杵氏などが台頭していましたが、緒方氏はその中でも豊後大神武士団を統率する中心的役割を担っていたようです。




もともと惟栄は、平清盛の嫡男、重盛と主従関係を結んでいた家人でした。「平家物語」にも、「かの惟義(惟栄)は小松殿の御家人也」とあることから、平重盛に属していたことがわかります。しかしながら、治承4年(1180)に源頼朝が挙兵すると、飢饉や疫病などが蔓延し乱れていた世を憂い、翌年突如、平家に反旗を翻し、豊後国の目代(平家の代官)を追放しています。おそらく義侠心の篤い武将だったようで、時勢を見る鋭い眼をもっていたとも思われます。

この平家に対する謀反は、源平盛衰記や吾妻鏡にも「治承五年の事」として記述があり、宇佐神宮大宮司「公通」より六波羅に宛てた書状に、「・・・九国住人、菊地次郎高直、原田大夫種直、緒方三郎惟義(惟栄)、臼杵、部槻(戸次)、松浦党を始として、謀反を発し・・・」とあるようです。

これら平家に叛いた九州武士団の中でも中心的な勢力だった惟栄は、豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受けると、清原氏、日田氏などの力を借りて平家を大宰府から追い落としています。このときの惟栄の軍勢は3万余騎であったといわれています。また、荘園領主の宇佐神宮大宮司家の宇佐氏が平家方についたため、宇佐神宮の焼き討ちも行っています。このあたりは、東大寺を焼き討ちした戦国武将松永久秀や、比叡山延暦寺を焼き尽くした織田信長に通じる、神仏を恐れず果敢に行動するリアリストだったように思われます。

この宇佐神宮焼き討ちは、元暦元年7月6日(1184)、緒方三郎惟栄、臼杵二郎惟隆、佐賀四郎惟憲の兄弟で行っています。宇佐大宮司「公通」から緒方庄の上分米の上納を怠ったと問責されたことに端を発し、これまでの平家支配に対して溜まっていた憤懣(ふんまん)によってひき起こされたともいわれています。

「吾妻鏡」には、「・・・武士乱入の間、堂塔を壊して薪となし、仏像を破って宝を求め、眉間を打破して白玉取り、御身を烈穿して黄金を伺い、其の間狼藉筆端に尽くし難し・・・」と兄弟の狼藉ぶりを伝えています。惟栄は、この宇佐神宮焼き討ちにより、上野国沼田(現群馬県沼田市)への遠流の罪を受けますが、平家討伐の功によって赦免されています。

元暦元年11月には、西国平家追討の総大将、源範頼に兵糧や兵船82艘を提供し、葦屋浦(あしやうら)の戦いでは平家軍を打ち破っています。周防国にいて九州へ渡る船もなく進退に窮していた範頼に兵船を献上したことからも、惟栄が豊後の水軍を支配していたことがうかがえます。その後の源氏による九州統治が進んだのも、緒方一族の平家からの寝返りが貢献しているといえます。

また惟栄は、源義経が兄頼朝に背反した際、義経に加担し西国武士団を糾合して再起するため、ともに摂津大物浦(だいもつうら)(兵庫県尼崎市)から船で九州への逃避を企てています。後白河院は惟栄を院中に召して義経の護衛と先導を命じています。しかしながら一行の船は、途中、嵐に会い、離ればなれになってしまい難破、義経の船は住吉の浦(大阪市)に打ち上げられ、すべての女房を捨てて吉野山に逃げ入っています。惟栄は捕らえられて上野国沼田(群馬県沼田市)へ流罪となっています。


緒方三郎惟栄に助勢を頼む義経

その後の惟栄の消息は定かではありません。罪を許されて佐伯(大分県佐伯市)に帰ったとも、帰途のうちに病死したとも伝えられています。一説によると、建久6年(1199)に57歳で没したともいわれています。岡城(大分県竹田市)を築城したのは、義経をかくまうためだったといわれていますが、異論をもつ歴史家もいるようです。岡城は、かの滝廉太郎が名曲「荒城の月」の曲想を得たといわれる難攻不落の城として知られています。

処罰の対象になったのは、あくまで惟栄やその親族であったようです。直系以外のそのほかの系流である緒方一族は、その後も豊後南部の有力国人として残り、大友氏や藤堂氏に仕えています。平家討伐に多大なる貢献をし、九州において大勢力を誇った緒方氏が、その後は次第にその威勢を失っていったのも、義経を支えたことが裏目に出てしまい、源氏に対して反旗を翻すかもしれないという頼朝の強い猜疑心の結果であるかもしれません。

大分県には以下のような「緒方三郎惟栄(これよし)始祖伝説」があります。

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   昔、豊後の国清川村宇田枝というところに、大太夫という豪族が住んでいた。
大太夫には花御本(はなのおもと)というひとりの姫があった。たいそううつくしい姫で、国じゅう見まわしても肩をならべるものはなかろうと、うわさされる程であった。
大太夫のいつくしみようはたいへんなもので、「姫よ、姫よ……。」と、いつもかたわらにおいてかわいがっていた。

 姫のうわさを聞いて、おおくの若者たちが、わたしこそ姫のむこにと、もうしでてくるのだが、そのたびに大太夫は、「わが家より家の格がたかいものでなけれは、むこにはできない……。」と、ことわりつづけていた。そして、大太夫は、やかたのうしろにりっばな家をつくって守りのものをつけ、そこに姫をすまわせて、いつも気配りをおこたらなかった。
このため若者たちは、だれひとりとして姫のもとにかようこともできず、ただとおくからその美しい姿をながめては、ためいきをつくばかりだった。

 春がすぎ、夏もすぎたが、姫には、誰一人心をうちあけるものがおらん。ある秋の夜、姫がひとりものおもいにふけっていると、どこからともなく、立烏帽子 (むかし、公家や武士がかぶった帽子) に水色の狩衣をつけた若者があらわれた。どう見ても、田舎にすむものとはおもえない、上品なすがたをしている。

 若者は、花御本のそばにちかづくと、やさしく声をかけた。
「姫よ、なにもこわがることはない……。」
そして、姫の肩に手をまわした。姫は、なすすべも知らず、ただただ、からだをかたくするばかりだった。
 やがて夜もふけ、いつのまにか若者はかえっていった。姫は、いったいどこのだれだろうと思案しながらも、いつかまた、あの若者がたずねてくれることを心まちしていた。

 若者は、つぎの夜もやってきた。さく夜とちがい、姫も笑顔でむかえた。若者とかたらっていると、夜のふけるのもわすれた。姫の心は、いつのまにか若者にかたむき、気がついたときには、若者のむねに抱かれていた。
 それからは、雨がふろうが、風がつよかろうが、若者はまい晩かよってきた。姫も若者の来るのを楽しみに待つようになっていた。

 姫は、このことを大太夫やまわりの人にかくしていたが、なにしろまい夜のことなので、姫につかえていた女たちから見とがめられ、ついに大太夫の知るところとなった。
そこで、大太夫は姫をよび、「姫よ、おまえのもとにまい晩まい晩やってくる若者は、いったいどこの誰じゃ。」と、とうてみたが、姫はなかなかこたえようとしなかった。そこで大太夫は、さらにきびしくといつめた。
すると、姫は、「どこのどなたか、おたずねしても、いっこうに名をあかしてくださいません。ただ、身なりからして、よほどのおかたとお見うけしております。あのかたがおいでになるのは夕ぐれですが、いつお帰りになるのか、わかりません。わたしが目をさましたときには、もう、お姿が見えないのでございます。」
と、ようやくありのままをうちあけた。

 その話をきいて、大太夫はかんがえた。(大宰府の近くでもあれば、都の身分の高いお方とおもってよかろうが、ここはかた田舎じゃ。わけがわからん。しかし、狩衣に烏帽子すがたとは、おそらく家柄のよい若者であろう。姫のむこにしてもよさそうじや……。)

   だが、若者がどこの誰ともわからんのでは、縁談のすすめようもない。大太夫は、若者の身もとをつきとめる方法はないものかと、思案にくれた。
やがて大太夫は、若者が夕方やってきて、明け方ちかくに帰るということなので、なにか印をつけて、その行方をたずねようとおもいついた。そこで姫に、おだまき(糸まき)と針を「姫よ、今夜その若者がたずねてきたら、気づかれないように、このおだまきの糸に針をつけて、狩衣のすそに刺し通しておくように。」と、おしえて、姫をやかたにかえした。
その夜、またどこからともなく、いつもの若者がやってきた。身分はあかさないが、高貴なお方らしいことは、そのものごしや、ことばづかいからもうかがえた。
「あなたさまは、どこのどなたです。お名まえなりと、お教えくださいまし。」姫は、できることなら狩衣のすそに針を刺したりしたくなかったので、懸命にたのんでみたが、「わけあって、あかすことはできぬ。」と、若者はロをとざしてしまうのだった。

 姫はしかたなく、大太夫からおしえられたとおり、若者に気づかれないよう、そっと狩衣に針を刺しておいた。
 朝になって目をさました姫は、若者の姿をさがしたが、いつものようにその姿はどこにも見あたらなかった。

 姫は、さっそくそのことを大太夫に知らせた。大太夫は、「この糸をたどっていけは、その若者のすまいをつきとめることができる。さあ、跡を追ってみよう。」と、姫や、共の物をつれて、糸をたよりに若者の跡を追った。おだまきの糸は長く伸び、山をわたっていくうち、日向の国(いまの宮崎県)と豊後の国のさかいにある姥岳のおくの、見あげるはかりの大きな岩屋の中にひきこまれていた。

 あなのいり口に立って耳をそばだてると、痛みにうめくような声がきこえてきた。その声は、身の毛もよだつような恐ろしいうめき声だった。姫は大太夫のいうとおりに、あなのいりロに立って、「わたくしは花御本でございます。あなたさまをしたってまいりました。どうぞ、お姿を見せてください。」
といった。

   すると、あなの中から、「もはや、それはできぬ。じつは今朝ほど、おとがい(したあご)の下に針をたてられ、ひどい傷を受けている。わたしの本身は、おそろしい大蛇だ。人の姿をしているときなら、外にでて見せてもよいが、人の姿にかえる力もすでになくなった。しかし、なごりおしいし、恋しい……。よくぞ、この山奥までたずねてきてくださった。」と、声があった。

 花御本は、「たとえどのようなお姿であろうとも、日ごろの情は忘れません。お姿をひと目見たいと、はるばるたずねてまいりました。どうか、お姿をお見せください。」と、頼んだ。すると、しばらくして、「そうまでいわれるのなら、わたしの姿をごらんにいれよう。おどろかれるな……。」といいながら、大蛇は、あなからはいだしてきた。だが、おそろしい姿には似ず、目には涙をうかべ、頭をさしのべてきた。姫は衣をぬいで頭にかけてやり、おとがいの下の針をそうっと抜いてやった。

 喜んだ大蛇は、「姫よ、あなたのお腹の中には、男の子が宿っている。その子が成長したあかつきには、九州では並ぶもののない武将となろう。おそろしいものの子であるからといって、けっして粗末にされるな。わたしが子孫の末までも、お守りいたそう。」
それを最後のことばに、大蛇はあなにもどって息たえてしまった。この大蛇こそ、姥岳大明神の化身だった。

 やがて、姫は玉のような男の子を生んだ。大太夫は、この子に大太と名をつけた。 大太は、はだしで野山を走り回り、足にはつねにあかぎれがきれていたので、皹童(くんどう)ともよばれ、若者となってからは、輝大弥太(あかがりだいやた)ともいわれた。

 大弥太(だいやた)は成人して、大神惟基(おおがこれもと)という九州一の勇者となった。
大弥太の子に、大弥次、その子に大六、その子に大七、その子に尾方(緒方)、三郎惟義(惟栄これよし)が生まれた。大太から五代めである。
このように、大神惟基の子孫は、のちにこの地をおさめる豪族緒方氏となった。
この緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)は、緒方を中心とする大野地方に本拠をかまえ、源頼朝と仲違いをしていた弟の義経を迎えるため竹田に岡城を築城し一時は豊後一円から九州各地に勢力をふるった豊後武士団の頭領となった。

 緒方三郎は、ヘビの子の末をついだということだろうか、背にヘビの尾とうろこの形のあざがあったといわれている。だから緒方(尾形)というのだと。

             偕成社発行  大分県の民話より



この伝説は、鎌倉時代に成立したと思われる、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」という冒頭部分で有名な「平家物語」の第八巻「緒環(おだまき)」にも出ています。以下に歴史小説家吉村昭の訳を載せます。

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惟義は、恐ろしい者の子孫であった。

むかし、豊後の国の山村に、ひとりの女がいた。まだ結婚していなかったが、男が毎晩通ってきて、月日がたつうちに妊娠した。

母はあやしんで、

「おまえのもとに通ってくるのは何者か。」

とたずねたが、

「くるときは姿を見ますが、帰るときは見たことがありません。」

と答えた。

「それなら、男が帰るときにしるしをつけ、ゆく先をつけてみよ。」

娘は、母のいうとおりに、朝、帰る男の水色の狩衣(かりぎぬ)の襟の部分に針をさして糸をつけ、男が去った後、その糸をたどっていった。

すると、日向(ひゅうが)の国との国境にある優婆岳(うばだけ)という山のふもとにある大きな岩屋の中に糸がはいっていた。

女が岩屋の入り口にたたずんで中の気配をうかがうと、大きなうなり声がする」

「わたしはここにきています。お会いした。」

女が声をかけると、

「わたしは、人間の姿をしていない。おまえがわたしの姿を見れば肝をつぶすだろう。すぐに帰れ。おまえがみごもった子は男子であるはずだ。武器をとれば九州、壱岐、対馬にならぶものがない勇者になる。」

という声がした。

女は、かさねて、

「たとえどのようなお姿であろうと、これまで愛しあってきたことをどうしてわすれられましょう。姿を見せてください。お願いです。」

とたのんだので、

「それでは。」

という声がし、岩屋の中から、とぐろをまいても五、六尺、全長は十四、五丈もあろうかと思える大蛇が、身をくねらせてはいでてきた。

狩衣の襟にさしたと思った針は、大蛇ののどに突きささっていた。

女は、この姿を見て仰天し、ひきつれていた供の者十余人もうろたえてたおれ、悲鳴をあげて逃げた。

この大蛇は、日向の国で尊崇されている高知尾神社(たかちおじんじゃ)のご神体であった。

女は、帰ってまもなく男の子を産んだ。

母方の祖父の太大夫(だいたゆう)がそだてたが、まだ十歳にもみたないのに背たけが高く、顔は長かった。

七歳で元服(げんぷく)させ、祖父の太大夫という名からとって、この子を大太(だいた)と名づけた。

大太は、夏も冬も手足に大きなあかぎれがいつもできていたので、あかがり(あかぎれ)大太とよばれた。

緒方の三郎惟義は、あかがり大太の五代目の子孫であったのである。

惟義は代官の頼経(注参照)の命令を法皇の命令だとして、九州、壱岐、対馬にまわし文をまわしたので、おもだった武士たちはすべて惟義にしたがいついた。


注: 豊後の国を支配していた刑部卿三位頼輔(ぎょうぶきょうざんみよりすけ)の子で代官。都にいる法皇から「平家は、神々に見はなされ、法皇にもすてられて都から海上にただよう落人(おちうど)となった。それなのに九州の者たちが、それをうけいれてもてなしているのは、まことにけしからん。おまえの国は平家にしたがってはならぬ。全員一致して平家を追いだせ。」という命令がつたえられた。頼経は、この命令にしたがって、豊後の国の住人緒方の三郎惟義に平家追いだしを命じている。


姥岳大明神の本当の姿を見て恐れる花御本姫 『平家物語絵巻』 (岡山市 林原美術館蔵)


また源平盛衰記は、「惟義(惟栄)と云うは、大蛇の末なりければ、身健に心も剛にして、九国をも打ち随へ、西国の大将軍せんと思う程のおほけなき者なり」と書かれてあります。

古事記の崇神天皇の条に、似たような伝説(三輪山伝説)があるそうです。しかしこの伝説によると、娘が辿って行きついた先は大和のくにの三輪山であり、そこにいた「謎の男」は、大物主神という、神武天皇が大和に入る前から、三輪山を中心に信仰されていた国つ神です。

大物主神は、出雲神話の大国主神(おおくにぬしのみこと)の異名であるともいわれていて、出雲の国の神が、神武天皇の大和入り以前から、この地において信仰されていたと考えられます。「緒方三郎惟栄(これよし)始祖伝説」は、惟栄の武勇を強調するために、この三輪山伝説を用いたとも考えられます。

ところで、緒方三郎惟栄の祖先神である大蛇(姥岳山(祖母山)の山神の化身)と情を交わした始祖・大神惟基の母、「花御本姫」を祭神として祀る神社が、豊後大野市清川村にあるそうです。緒方家にとっては、「花御本姫」は「アダムとイブ」のイブのような存在といえます。その神社の名を「宇田姫神社」といい、神社正面の左手には洞窟があり、遠く姥岳に通じているといわれています。

花御本姫は、ちょうどこの神社のあたりに住んでいたのでしょう。この宇田姫神社から南東へ400メートルほどの所には大神惟基が出生したと伝わる萩塚もあるようです。惟基の母である花御本姫が出産するときに萩を敷いたといわれているようです。

この萩塚は地元の人たちに「萩塚様」と呼ばれ、産婦が産気づくと、こちらの萩塚様から萩枝をもらい、家に帰って敷いて頭を当てたりすると無事に出産できると伝わるようです。出産後にはその萩塚様に返して感謝のお礼参りをするようです。

さらに、「アダムとイブ」のアダムにあたる大神惟基の父「大蛇」が住んでいたと伝わる神社もあります。豊後大野市の隣に位置する竹田市大字神原にその神社はあり、「穴森神社」というそうです。まさにこの神社が豊後大神氏の聖地といっても過言ではありません。

鳥居を抜けて拝殿の奥には、やはり岩穴があるそうです。その岩穴は驚くほど大きく、姥岳山の大明神の化身である大蛇が住んでいたのは、この岩穴のようです。つまりこの岩穴が御神体となっており、喉笛を針に刺されて泣き叫び苦しんでいる大蛇がいまにも這い出てくるような真昼でも薄暗い場所のようです。まさに平家物語絵巻の「緒環(おだまき)」の描かれた場所です。

この地域の伝承によれば、元禄16年10月20日、波来合の百姓半十郎、今平、文助が農作業中に、穴森の方からの鳴動を聞き、村中の者と神酒を供えたが、その夜松明をともし、穴の中をさぐると、一つの「しゃれこうべ」が発見されたそうです。これが相当古い蛇骨だとわかり、評議の上、江戸へ持参することになり、宝永2年3月21日、宮地御身分として、郡奉行吉田八郎兵衛という人が穴森へ来て、蛇骨を箱に収め拝殿を建てたそうです。

さて、この緒方家の始祖ともいえる大神家とは一体どこから来たのでしょうか? 山川出版社の「大分県の歴史」によると、今の大分県宇佐市にある宇佐八幡宮の宮司職をめぐって惟栄の先祖である大神氏と宇佐氏の勢力争いがあったようです。しかし天平神護2年(766)ごろに、宇佐氏が勢力を得て、大神氏は次第にその威勢を失い、豊後大野地域に下って土着勢力になったようです。

緒方三郎惟栄が、その兄弟たちと宇佐神宮の焼き討ち事件を起こしたのも、始祖である大神家からの宇佐氏に対する長年の恨みがあったのかもしれません。大神家または緒方家は、広大な豊後大野平野で大量の兵馬を生産・飼育し、祖母山系で採掘される銅や錫をもとに、次第に豪族として力をつけていったものと思われます。

宇佐氏は、神護景雲3年(769)に起きた、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)による有名な「宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)」によって、中央の朝廷と関係を深くし、平安中期以降は大神氏を圧倒しています。一方、大神氏は下級神官となりますが、その庶流は豊後南郡で独特の石仏文化を残しています。

また異説としては、中央の大和美和(三輪)氏が、 直接豊後国に降りてきて豊後大神氏の先祖になったともいわれているようです。この説が正しいとなると、三輪氏の一族である山城の大神氏は、楽器を扱う楽家で高麗楽である蘇志摩利などを伝授した氏族で、古代から朝鮮半島の軍事と外交を担当した氏族として古代朝鮮半島と深い関連のある氏族であったらしく、緒方家の祖先は渡来人という可能性もあります。

ちなみに幕末の蘭方医、緒方洪庵(1810-63)も、緒方三郎惟栄を始祖としています。洪庵は、備中(岡山県)足守(あしもり)の小さな藩の下級武士の子として生まれ、父親の任地である大坂で蘭学を学び、諸方に遊学し、29歳のとき、大阪で開業しています。町医のかたわら、自宅で蘭方を教え、塾の名を適塾と称しています。

塾生には、その後の歴史をになった人たちが多く、戊辰戦争時、新政府軍の軍事をになった大村益次郎や、幕府軍の指揮官になった大鳥圭介、明治の開明思想を代表した福沢諭吉などがいました。他に、門下第一等の秀才だった越前福井の橋本左内、明治になって日本赤十字社を興した佐野常民(つねたみ)、明治の医制を整備した長与専斎(せんさい)などがいます。

亡くなった俳優の緒形拳も緒方三郎惟栄を祖先としているようです。以前、息子の同じ俳優、緒形直人がNHKのある番組で緒方町を訪ねて、そう話しています。

そのほか歴史上の人物で緒方姓は、朝日新聞社副社長や自由党総裁、副総理をつとめた緒方竹虎がいます。その三男である緒方四十郎(元日本銀行理事)の妻が、国連で非常に困難な難民問題に取り組んだ緒方貞子氏です。しかしながら、緒方姓は竹虎の祖父・郁蔵(本姓大戸氏、備中(岡山県)出身)が緒方洪庵と義兄弟の盟を結びその姓を名乗らせたことに始まるようです。


緒方三郎惟栄館跡(大分県豊後大野市緒方町)

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しかしここで疑問が残るのは、緒方三郎惟栄の家紋は「三つ鱗」であり、当家の家紋の「上り藤」ではないということです。更に、以前より当家は平家の流れであると聞いており、平家に反旗を翻して討伐をした惟栄を先祖とするには、あまりにも矛盾するのではないかということです。

熊本県南部に位置する、「五木の子守唄」で有名な五木村から車一台がやっと通れるほどの道を北上すると、全国有数の秘境として知られる五家荘(ごかのしょう)があります。菅原道真の子息(嫡男)が藤原一族の追討を逃れて分住するようになった仁田尾(にたお)と樅木(もみき)という地区と、平清盛の孫の清経が壇ノ浦の合戦ののち住み着いたと言われる椎原(しいばる)、久連子(くれこ)、葉木(はぎ)という地区の5つから成るので五家荘と呼ばれます。


平家・緒方家の屋敷

平家落人伝説で有名なこの五家荘には、現在も緒方家の家が大切に保存されてあります。その説明板を読んでみると、

  文治元年(1185年)3月、平家の一族は壇ノ浦の戦いで源義経の船軍に敗れ全滅した。しかし、伝説によると彼等は全滅したように見せかけ、平家再興のため各地に四散し、落人となりそれが西国に於ける平家の隠れ里として発展したものである。

  平清盛の孫にあたる清経も壇ノ浦で戦死したようになっているが、実は落人となって人目をさけながら深山幽谷へと入って行ったのである。

 清経は壇ノ浦から、四国の伊予今治に至り、更に阿波国祖谷に行き、そこで一年過ごした。それより九州豊後鶴崎(現在の大分市)に上陸し、西へ進み湯布院に滞在中、豊後竹田領(現在の大分県竹田市)に住む緒方氏の要請により南下、竹田領にしばらく居住し姓を緒方と改名、肥後国白鳥山(泉町樅木)に住みついたと記されている。その後、清経の子孫緒方紀四郎盛行が、この地に住みつき代々椎原(しいばら)を支配した。

緒方家の建物は、約200年程前に建造されたものであるが、屋根は痛みがひどく住宅としての改造が進んでいたため、泉村で取得し、復元を図ったものである。

とあります。

平清経は、竹田領において緒方実国の娘を妻に迎えて緒方姓を名乗り、緒方一郎清国と改名し、建長2年(1250)からその4代目の子孫である緒方紀四郎盛行がここ椎原(しいばら)に住みついたようです。緒方紀四郎盛行の弟の近盛と実明がそれぞれ、五家荘の久連子(くれこ)と葉木(はぎ)を支配しました。

ちなみに、重税に耐えかねた農民を代表して、将軍に直訴して磔(はりつけ)刑に処せられた佐倉宗吾は、下総の国佐倉村に農民の神として祀られ、またその物語は義民伝と称して芝居や演劇で演じられていますが、この宗吾は、五家荘葉木の地頭緒方左衛門の二男として生まれたという伝説があって、その観光案内板も立ててあります。

宗吾は当時、叔父に当たる光全和尚が僧となって、下総の国に移住したので、この光全和尚を頼って、下総の国で暮らすようになったそうです。その後、下総の国印旛郡公津村36個村割元名主、木内家の養嗣となりました。五家荘葉木の緒方家では、宗吾の死後祠堂を建て、供養を続け現在に至っているそうです。

統計的に緒方姓は、大分県よりも熊本県に多く分布するそうで、当家は、やはりここ五家荘から拡がっていった平清盛直系の平家の末裔であるかもしれません。

2014年7月1日火曜日

ア〜、頭痛が痛い…(?)

今日は明け方から強い頭痛で仕事を休みました。

ちょうど1週間前も同じように朝起きると頭痛がありました。市販の頭痛薬を飲んでも痛みが収まらず、昼から出勤しようと思っていましたが、結局その日も休みました。6年前と5年前に2度、髄膜炎で入院したこともあり、ちょっと心配になって、午前中、脳神経外科を受診してきました。

3時間ほど待たされ、頭部のレントゲン検査、血液や尿検査、そしてMRIを受けました。しかし頭痛の直接な原因は不明とのことです。幸いに脳の血管に異常はみられませんでした。先生の診断によると、『レントゲン写真を見る限り、ストレート・ネックの状態になっており、それによって首や肩の辺りがコリやすく、血圧も少々高めなので、ストレスなどによって頭痛を引き起こしているのでしょう』、とのことでした。

まずは診察結果に一応納得し、帰宅して早速、マッサージ・チェアで入念にゴリゴリと肩から首へとコリをほぐしました。いくぶん頭の痛みも和らいだような気がします。さて、明日の朝、また頭痛があるのか?

ヨシ、もう一回、マッサージしよう! ゴリゴリ…。

2014年5月24日土曜日

幕臣 小栗上野介忠順

ワシントン海軍造船所見学時の遣米使節
1860年4月5日 前列右から2人目が小栗忠順

今日は、横須賀開国史研究会の総会と、その後に行われた記念講演に行ってきました。

講演の演題は、「幕臣小栗上野介忠順の幕政改革構想と横須賀製鉄所」です。講師は、国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏氏です。

小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)と言っても、同じ幕末の坂本龍馬や勝海舟などのように有名ではありませんが、歴史オタクの間では知らない人はいないというほどの幕末の偉人です。

小栗家祖先の小栗忠政は、徳川家康に少年の頃から仕え、40年余り三河武士として家康に近侍し、旗本として数々の戦場で活躍しています。

家康に、「又一つ首級(くび)をとったか」とほめられ、「名を又一と改めよ」と言われています。それ以来、小栗家の当主は又一を世襲し、幕末の忠順も通称は又一です。ちなみに、小栗旬とは関係はなさそうです。

旗本の中でも名門の小栗は、その怜悧な頭脳によって、官僚のトップといえる勘定奉行にまで昇りつめます。勘定奉行というのは、今で言う財務省と法務省を併せた事務次官のような職です。

しかし、歯に衣を着せぬ言動が多かったようで、まわりに敵も多く、勘定奉行を何度もクビになっています。あまりに頭が切れすぎて、ほかの幕臣連中を馬鹿にした気持ちがあったのかもしれません。

そんな小栗ですが、安政6年(1859)、日米修好通商条約の批准のため、米軍艦ポーハタン号に乗って渡米しています。並行して咸臨丸で勝海舟も同じく渡米しています。この渡米中に、幕府に一大事件が起こります。大老の井伊直弼が水戸浪士らに白昼暗殺された、いわゆる桜田門外の変です。

ポーハタン号の士官だったジョンストン中尉が、日本側遣米一行の事を書いたものの中に、小栗を描写した部分があります。「小栗は確かに一行中で最も敏腕で実際的な人物であった。使節らが訪問せし諸所の官吏との正式交渉は、全部、彼によってのみ処理されたのである。彼は40くらいの年配で小男であったが、骨相学の上より判断すれば、優れた知的頭脳の持ち主であった。少しばかりアバタのある彼の顔は智力と聡明とで輝いていた」と書いています。

小栗は、ワシントンで大統領のブキャナンに謁見し、ニューヨークから大西洋まわりで帰国しています。つまり日本人で始めて世界一周をしたことになります。当時の侍の社会から突然世界を見ることになり、物凄いカルチャーショックを受けたことでしょう。

やはり小栗の一番の功績は、何と言っても横須賀に製鉄所を造ったことです。フランス公使ロッシュに紹介してもらった海軍技術将校ヴェル二ーのもと、そのフランスから莫大な借金をして着工しますが、実際にドックが完成するのは、彼が亡くなった3年後のことです。

小栗は、早々に恭順の意思を固めている徳川慶喜に、薩長の新政府軍との戦いを進言します。苛烈な主戦論者だったようです。立ち上がって奥へ入ろうとする慶喜の袴のすそをにぎって説いたと言われています。彼の唱えた作戦をのちに耳にした新政府軍の大村益次郎は肝を冷やしたそうです。

慶喜が上野寛永寺に謹慎すると、小栗は上州(群馬県)権田村に家族•家来共ども帰ります。しかし、東山道鎮撫総督府の手のものによって逮捕され斬首されます。翌日、養子の又一も斬首されてしまいます。

後年、ライバルともいえた勝海舟は小栗のことを、フランスに国を売ろうとしたとしてボロクソに言っています。しかし、福沢諭吉は、幕臣でもあった勝が、榎本武揚同様、明治政府の高官になって華族に列したことを痛烈に批判し、小栗に対しては先見の明があったと非常に褒めています。

そう言えば、小栗同様、忠臣蔵の四十七士に打ち入られ首を落とされた吉良も「上野介」でした。同じように首を落とされるという不幸な運命なのでしょうか。

小栗上野介で面白い話は、徳川埋蔵金です。勘定奉行であった彼のことだから、江戸城の金蔵から大量の幕府の金を新政府軍にわからないように埋めて隠したのではないかというものです。その埋蔵金を探すため、いまでも、日々、上州の山の中を掘っている人がいるそうです。

2014年5月22日木曜日

ASKA逮捕について考えてみました。

人生において「成功する」というのは、一体どういうことでしょうか?

ほかの人たちに羨ましがられる地位と名誉を得たこと? それとも、たくさんのお金を稼いで裕福な生活を手に入れたこと? はたまた、誰もなしえない偉業を達成したこと?

「成功する」とはどういうことか、個人により「成功」について様々な考え方があり、解釈の違いがあるでしょう。つまり、これはあくまでその人の価値観の問題であり、どのような場合に「成功した」と感じるかは、人それぞれです。

しかし今般のASKAの犯した罪を考えると、「成功する」というのは何なのか? 過去にミリオンセラーをとった楽曲をつくり、スターダムに上り詰めた一人の人間として、人生において彼は「成功した」のでしょうか?

「禍福は糾(あざな)える縄の如し」という言葉があります。幸福と不幸はそれぞれ縄のように紡がれていて、生きていれば幸福感に包まれている時もあれば、また不幸のどん底に突き落とされる時もあります。

しかしながら、自ら麻薬に手を出し、非常な努力の末に手に入れた「成功」をドブに捨てるとは、あまりにもったいなく、情けない。自業自得だと言ってしまえばそれまでですが、ただ今回の事件により、彼の過去の栄光は水の泡となってしまうでしょう。

かつてラジオで聞いた話に、「人の一生はすべてがプロセスであり、成功したかどうかは、そのひとの死ぬ直前までわからない」というのがあります。

生きていれば失敗してつまづくこともあり、頑張ってうまくいくこともあります。しかしそれはあくまでも一連のプロセスであって、最終的な人生の結果ではないということです。しかしながら、日々、一生懸命に努力をし、正直に真面目に生きるということが大切なようです。

そんなことをツラツラと考えると、「成功する」ということは、獲得した地位や名誉やお金によって決められるものではなく、人生最後の日に、「振り返ってみると、これまで山あり谷あり、いろいろとあったが、いまは総じて自分のいままでの生き方に満足している」と思うことができることかもしれません。

ASKAには、犯してしまった罪をこれから悔い改め、真っ当な人生を送って欲しいものです。そして、アーティストとして、また一人の人間として、「成功した」と思えるような日が来ることを祈っています。


2014年5月20日火曜日

PC遠隔操作事件について

PC遠隔操作事件の真犯人は、やはり片山被告人でした。

自分で書いたメールを河川敷に埋めたスマートフォンから指定時間に自動送信させるという、ほかに真犯人がいるように偽装した手口は驚くものがあります。

また、自らの公判中に送信させるという、アリバイ工作の意図もあったようです。まさにIT技術を屈指して、犯した罪から逃れようとした行為は卑劣です。IT社会の現代に特有な、いままでにない新しい形態というべき犯罪です。

今回の事件は、まるで『古畑任三郎』や『相棒』などのドラマの筋書きのようです。つまり、犯人が実際の犯罪の後にとった行動によってアシがついてしまうというストーリーです。まさに劇場型犯罪といえます。

それにしても彼は何故そこまで社会に対する不満や恨みを抱くようになったのでしょうか? 『自分はまったく悪くない。この世の中の他のすべての人たち、また自分を取り巻く社会が悪いんだ。』という、究極の自己中心的で身勝手な被害者意識をもっているようです。

また、『自分はこんなに愛しているのに、どうして彼女は自分のこの気持ちに応えてくれないのか』といった、ストーカー特有の一方向的な心理に通ずるものがあるようです。

これらの犯罪者に共通しているのは、人づき合いが苦手で、他人とのコミュニケーションがとれず、自分の殻に閉じこもりがちな性格があるように思います。自分だけの小さな世界でものを考え、人の痛みや立場を思いやることができない、まだ大人になりきっていない人間であるようです。

しかし一方で、『自分の存在を知ってもらいたい、人に認められたい』といった、自己顕示欲が旺盛であることも特徴です。事件を起こして社会の注目を受けたいという強い欲求があるようです。

親のしつけや学校教育が悪いとか、はたまた現代の人間関係の希薄さに遠因があるとか、さまざまな意見があるでしょうが、これからも同様の犯罪が続くことは確かでしょうね。

2014年5月18日日曜日

「結婚生活でいちばん大切なものは忍耐である」(チェーホフ)


昨日、朝いつものようにマッサージチェアーに座って新聞を読んでいると、部屋の奥から妻が声をかけた。


「あのサァ、今日って何の日?」


――その声の調子には何やら妙に不吉な響きがあった。
これまでの数々の苦い経験によって、このような何気ない質問には、女特有の「毒」が巧妙に仕込まれていることを知っている。

新聞には【安倍政権、集団的自衛権の行使容認へ】の記事がおどっている。

(なにを突然そんなことを訊くのか‥‥‥)

コーヒーをひとくち飲んだ。微妙な沈黙が流れた。


「‥‥えっ、今日?」


不意に敵の威嚇攻撃を受け、まだ寝ぼけてボンヤリした頭をフル回転させ、事態の収拾把握に努める。

何も思いつかず苦しまぎれに応えた。


「今日は不燃ごみの収集日でもないし、町内の一斉清掃でもないよね‥‥」


それには何も応えず、敵は沈黙を守っている。こちらの出方をじっと待っている気配が感じられた。

(不気味だ‥‥‥)

結婚生活で培った長年のカンにより、発射された一発の質問には何やら策謀が含まれているように察しられる。

(ちょっと待てよ、今日は何の日だっけ‥‥‥)

敵の不意打ちともいえる先制攻撃に対し、【個別的自衛権】で対応するか思案し、身構えた。


「あのサァ、今日は5月17日でしょう?」


敵は2発目を撃ってきた。こちらに迎撃するスキを与えない。
いまさら【憲法解釈】ウンネンなどで手間取っているヒマはない。

しかし、ひたすら平静を装う。
また新聞を手にとった。

すると、いきなり敵はこちらの動揺を察知したのか、間髪を入れず、ピンポイントに強力なミサイルを撃ち込んだ。


「あのサァ、今日は結婚記念日じゃないの!」


反撃できない。
ただただ笑うしかなかった。


――『実に敵という敵の中で山の神ほど恐ろしい敵はない』(森鷗外)


2014年5月3日土曜日

憲法記念日に夏島を訪ねる。


今日5月3日は「憲法記念日」ということで、憲法に関わる場所へ歴史探索に行ってきました。以前より一度訪ねてみたいと思っていた所です。

憲法といっても、GHQに押し付けられた現行憲法ではなく、新しい国家の礎となるよう起草された、【日本人の、日本人による、日本人のための】大日本帝国憲法、いわゆる明治憲法です。

まずは横須賀から車で横浜方面へ国道16号線を走り、京浜急行「金沢八景駅」を過ぎて右折すると、500メートルほど進んだ左手のロータリーに、【明治憲法起草の碑】が建っています。起草メンバーの一人であった金子堅太郎の書です。



しかしながら、この場所は実際に憲法草案を練っていた場所ではありません。起草メンバーの金子や伊東巳代治は、以前この地点より100メートルほど戻った辺りにあった料亭旅館「東屋」に宿泊し、そこで草案の起草作業に励んでいました。いまではその場所に第一生命のビルが建っており、その脇に説明板が設置されています。



ところがこの東屋で大変なことが起こります。ある夜、当旅館に泥棒が忍び込み、憲法草案などの機密書類の入ったカバンを盗まれてしまいます。幸いにも、翌日、近くの畑道でお金だけを抜かれた状態で無事発見されます。盗んだ泥棒も、まさか大日本帝国憲法の草案が入っていたとは夢にも思わなかったでしょう。なんともおおらかだった明治時代の世相が感じられます。

しかし当の起草メンバー本人たちにしてみれば、一大事です。安全のため、夏島と呼ばれる近くの小島の伊藤博文の別荘に移り、草案を完成させます。この夏島の別荘は手狭であったため(12帖半しかなかった)、当初は伊藤ひとりが寝起きしていたようです。つまりそれまで金子と伊東は「東屋」のあたりから小舟に乗り、草案を携えて、その夏島へ通っていたのです。

4人目の起草メンバーであった井上毅も近くの野島の旅館に宿泊していたようで、彼も小舟に乗って夏島の伊藤の別荘へ通っていたようです。夏島は孤島であり、喧々諤々(けんけんがくがく)の議論を戦わせても誰にも聞こえないため、機密を保持するにも都合がよかったのではないでしょうか。

次にその夏島を目指しました。16号線を横須賀方面へ戻り、京急急行「追浜駅」の前を左折して、真っ直ぐな追浜商店街の道を抜けると、そこは広大な日産自動車工場や住友重機械工業横須賀製造所などの建物が連立する工業地帯でした。

夏島は一体どこにあるのかと探しましたが、一向に見つかりません。地図で調べてみると、夏島という孤島は無くなっていました。どうも大正時代に追浜との間の海が埋め立てられ、陸続きとなってしまったようです。その後、一帯は横須賀海軍航空隊の基地となり、少年飛行生制度の「海軍飛行予科練習生(略称よかれん)」の訓練基地とされ、終戦後はアメリカ軍に接収されて1972年に返還されたようです。

夏島側から野島方面を望む。手前は工場群。右手奥には八景島シーパラダイス。
その平坦な工場群の中を奥へ進むと、右側に「明治憲法草案起草の跡」がありました。その記念碑の文章を読むと、憲法起草の場所として使われた伊藤博文の草庵は、この記念碑の200メートル南にあったらしく、現在は日産自動車の敷地内に位置するとのことで、ここへ移設されたようです。ほとんど目立たないこの場所に佇むと、「坂の上の雲」を目指して突き進んだ明治という日本の記念すべき場所であったことに想いを馳せ、感慨深いものがありました。



この起草碑のすぐ横には、いまから9,500年前という国内最古級の「夏島貝塚」もありました。



ちなみに起草メンバーのひとり、金子堅太郎は、初代内閣総理大臣伊藤博文の側近として、その後大活躍します。米ハーバード大学を卒業し、その大学OBとして面識のあったセオドア・ルーズベルト大統領を通じて、日露戦争後のポーツマス会議においてロシアとの講和成立に貢献しています。

金子はもともと九州福岡藩の出身ですが、彼の先祖である「金子十郎家忠」は、源頼朝が鎌倉に幕府を開く以前、衣笠城を居城とする三浦一族を攻めています。その陣屋跡が意外にも我が町内の一画にあります。

さて、改憲か護憲か、これから益々議論が深まっていくことでしょうが、殊に近年の中国の台頭や北朝鮮の核開発問題などを考えると、時代に即した、現実的な憲法が必要とされてきているのではないでしょうか。

伊藤博文は憲法について西欧で法学を学んでいますが、その中で、憲法についてこう教えられたそうです。「憲法は法文ではない。精神である。そして法は、民族精神の発露である」と。

後記

このブログを書き終えて、ふと気づいたことがあったので、書き加えます。この夏島は、縄文時代の貝塚は別として、大日本帝国憲法を生んだ地として、また、中国大陸や南方戦線へ送るため、まだ年若い青年たちを戦闘機乗りにさせるため訓練をした地として、そして世界に誇る自動車産業の拠点として、日本の近代からの歴史が不思議と存在する因果な地であると言えます。。


2014年2月6日木曜日

かれは何故死んだのか?

内閣府の男性職員が変死するという不可思議な事件が起きました。

事の経緯は、1月20日、30歳の男性エリート官僚が北九州市の沖合いをゴムボートで漂流しているところを発見され、その後、死亡が確認されたというものです。死因は、外傷もなく、凍死ではないかという推測です。

これまでの彼の行動にも非常に不可解な点が多く、ますます謎は深まるばかりです。官費でアメリカに留学しており、そこから韓国のソウルで開かれる経済セミナーに参加するために渡航しています。しかしそのセミナーには出席しておらず、ソウルではゴムボートと船外機を購入し、釜山で受けとっています。さらに、自分の荷物を「アレックス」という偽名によってホテルへ預けているのですから、いったい何を計画していたのか、まったくミステリーです。

何らかの理由により日本へゴムボートで渡ろうとしたのでしょうか。しかしながら、釜山から北九州までの距離は200キロもあり、明らかに不可能であり、無謀です。それに対馬海流によって、流れ着いたとしても鳥取や島根の日本海側にたどり着くはずです。対馬までは50キロほどですからゴムボートで渡れないことはありませんが、波の高い冬の海に乗り出すのは無理です。エリート官僚の彼にとって、これらを理解できたことは想像に難くありません。

それでは一体かれの真の目的は何だったのでしょうか? まず考えられるのは、発見された北九州の沖合いの響灘まで何者かによって運ばれ、みずからボートに乗って上陸を試みたのか、または殺意をもって強制的にボートに乗せられ海上へ放置されたのではないでしょうか。はたまた沖合いでの麻薬などの取引の途中、誤って海流に流されてしまったのでしょうか。

内閣府の職員であったことを考慮すると、北朝鮮の事情を探る目的のため何らかの政治的な密命を受けており、一連の諜報行為が発覚して組織により見せしめとして送り返されたのでしょうか。金正恩体制の実質上のナンバー2と見られていた張成沢が粛清された直後でもあり、ナゾは深まる一方です。氏名も今だに公表されていませんし、政府側からの説明がないのも腑に落ちません。

一体かれは何故死んだのでしょうか?


2014年1月13日月曜日

歴史を訪ねて一人旅 (甲府編)

毎年年末恒例の【歴史を訪ねて一人旅】として、昨年末は山梨県甲府市へ行ってきました。ちなみに一昨年末は、真田家ゆかりの地、信州上田を訪ねました。

躑躅ヶ崎館跡(つづじがさきやかたあと)

周知のとおり、甲府は戦国時代の雄、武田家三代の本拠地です。まずは躑躅ヶ崎館跡を訪ねました。現在は武田神社となっています。JR甲府駅から北へ真っ直ぐに延びる武田通りを上ってゆくと、ちょうど突き当たりに濠を廻らした神社があります。信玄はその生涯、お城というものを築造しなかったようです。『人は城、人は石垣、人は濠、情けは味方、仇は敵なり』という有名な言葉が残っているように、城郭といったものを必要としなかったのかもしれません。


 正面入り口の鳥居のあたりには、【疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山】の軍旗がはためいていました。武田信玄といえば【風林火山】ですが、やはりこれは後世の創作のようです(井上靖の作品からかも?) 【疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し】は、古代中国の軍学である『孫子』に由来するようです。


 当時の大手門は現在の正面ではなく、向かって右手のこちら側にあったようです。その周辺には、武田家臣団の屋敷跡があります。戦国最強の武田騎馬軍団と共に信玄が上杉謙信との川中島の決戦へ発ったのもこの辺りなのかと想像すると、いまにも甲冑の擦れる音や軍馬の嘶き(いななき)が聞こえてきそうでした。静かに目を閉じ、しばし佇んでしまいました。


松本清張は『信玄戦旗』で躑躅ヶ崎館をつぎのように書いています。

 信虎は、それまでの盆地の北寄りの石和(いさわ)に置いた居館を西に隣接した台地上の躑躅ヶ崎に移した。

 その広さは東西およそ百五十五間(282メートル)、南北百六間(193メートル)、土堤の高さ一丈(3メートル)、四方に濠(ほり)があり、三郭(かく)に分つ。石垣は自然石を低く積むのみで、城砦(じょうさい)ではなく、ふつうの居館である。

 ただ背後に金峯山(きんぶさん)の支脈の石水寺山(せきすいじさん)(積翠寺山)が屹立(きつりつ)している。渓流があり、鉱泉もあるから(積翠寺鉱泉)、いざというときの避難場所にもなる。一名要害山と呼ぶ。前は甲府盆地を展望する。後に風を蔵し、東西を丘阜(きゅうふ)で囲い、前に水を得る風水説の「四神に相応(かな)う」防御の地でもある。


円光院(えんこういん)

武田信玄の正室であった三条夫人のお墓があります。広々とした甲府盆地がはるか一望に見渡せる丘の上にあります。彼女も戦国時代の女性たちにみられる政略結婚により運命を翻弄された一人です。




武田信玄火葬塚

元亀4(1573)年、信玄は三河攻めの途中で病死しますが、ここは最初に遺骸を収められた場所です。遺言により三年間はその死を秘されたようです。いかにも地域の町内会によって綺麗に手入れされているといった感じです。やはり信玄はいまでも地域の人たちにとっては【お館さま】として大切に祀られているようです。



大泉寺

このあと、信虎のお墓を探して、ずいぶんとアチコチ歩き回りました。信虎は、嫡子信玄により甲斐より追放されています。たとえ下克上の戦国時代とはいえ、実の息子や家臣たちから追放されるとは、よほど人徳がなかったのでしょう。その生涯、甲府の地を再び踏むことは叶わなかったようですが、孫の勝頼によってこの大泉寺に手厚く葬られたようです。



甲斐善光寺

甲斐善光寺です。信州善光寺が川中島での戦火で消失するのを心配した信玄が本尊を移したと云われています。武田氏滅亡後、1598年に本尊は信州善光寺へ戻されています。木造建築物としては東日本でも有数で、国の重要文化財に指定されているようです。




恵林寺(えりんじ)

甲府をあとにして、お隣の甲州市を目指しました。目的地は、「乾徳山 恵林寺(えりんじ)」です。元徳2(1330)年、夢窓国師によって開創された名刹です。武田勝頼を天目山で破り一気に甲斐へ攻め込んだ織田信長の大軍は、この恵林寺へと迫りました。南近江の六角承禎(じょうてい)の子や足利義昭の密使らをかくまったということで、焼き打ちにより全山ことごとく焼き払い、僧侶ら百五十余人を楼門の階上に追い上げ、階下に籠草(かごくさ)をつみあげ、火を放ち、生きながら焼き殺したというところです。炎上する三門楼上で快川紹喜が有名な「心頭滅却すれば火自ずから涼し」といったのがこのお寺です。司馬遼太郎の『国盗り物語』には、「やがて楼門は焼け落ち、百五十余人の肉を焼く異臭があたりにただよい、この村から半里さきの光秀の陣中にまで漂った」と書いています。武田信玄の菩提寺としてお墓もここにあり、徳川五代将軍綱吉に仕えた柳沢吉保のお墓も正室定子と共に並んでいます。







蛇足ですが、快川和尚を調べてみると、国師号をもつ高名な禅僧であり、信玄とは心友ともいう間柄であったらしい。また面白いことに、美濃国の土岐氏の出です。ということは、織田家の武将明智光秀と同じ出身です。光秀も同郷のこの長老にはいたく心酔しており、主君とはいえ信長によって生身のまま焼き殺されたという、拭いきれないほどの凄まじい怨念をひそかに心の奥底に抱いたであろうことは想像に難くありません。つまり、光秀が謀反を起こした本能寺の変の原因も、このあたりにあるのではないかと思うのは考え過ぎでしょうか。

さて今年はどこへ行こうかなぁ。

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