ワシントン海軍造船所見学時の遣米使節 1860年4月5日 前列右から2人目が小栗忠順 |
今日は、横須賀開国史研究会の総会と、その後に行われた記念講演に行ってきました。
講演の演題は、「幕臣小栗上野介忠順の幕政改革構想と横須賀製鉄所」です。講師は、国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏氏です。
小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)と言っても、同じ幕末の坂本龍馬や勝海舟などのように有名ではありませんが、歴史オタクの間では知らない人はいないというほどの幕末の偉人です。
小栗家祖先の小栗忠政は、徳川家康に少年の頃から仕え、40年余り三河武士として家康に近侍し、旗本として数々の戦場で活躍しています。
家康に、「又一つ首級(くび)をとったか」とほめられ、「名を又一と改めよ」と言われています。それ以来、小栗家の当主は又一を世襲し、幕末の忠順も通称は又一です。ちなみに、小栗旬とは関係はなさそうです。
旗本の中でも名門の小栗は、その怜悧な頭脳によって、官僚のトップといえる勘定奉行にまで昇りつめます。勘定奉行というのは、今で言う財務省と法務省を併せた事務次官のような職です。
しかし、歯に衣を着せぬ言動が多かったようで、まわりに敵も多く、勘定奉行を何度もクビになっています。あまりに頭が切れすぎて、ほかの幕臣連中を馬鹿にした気持ちがあったのかもしれません。
そんな小栗ですが、安政6年(1859)、日米修好通商条約の批准のため、米軍艦ポーハタン号に乗って渡米しています。並行して咸臨丸で勝海舟も同じく渡米しています。この渡米中に、幕府に一大事件が起こります。大老の井伊直弼が水戸浪士らに白昼暗殺された、いわゆる桜田門外の変です。
ポーハタン号の士官だったジョンストン中尉が、日本側遣米一行の事を書いたものの中に、小栗を描写した部分があります。「小栗は確かに一行中で最も敏腕で実際的な人物であった。使節らが訪問せし諸所の官吏との正式交渉は、全部、彼によってのみ処理されたのである。彼は40くらいの年配で小男であったが、骨相学の上より判断すれば、優れた知的頭脳の持ち主であった。少しばかりアバタのある彼の顔は智力と聡明とで輝いていた」と書いています。
小栗は、ワシントンで大統領のブキャナンに謁見し、ニューヨークから大西洋まわりで帰国しています。つまり日本人で始めて世界一周をしたことになります。当時の侍の社会から突然世界を見ることになり、物凄いカルチャーショックを受けたことでしょう。
やはり小栗の一番の功績は、何と言っても横須賀に製鉄所を造ったことです。フランス公使ロッシュに紹介してもらった海軍技術将校ヴェル二ーのもと、そのフランスから莫大な借金をして着工しますが、実際にドックが完成するのは、彼が亡くなった3年後のことです。
小栗は、早々に恭順の意思を固めている徳川慶喜に、薩長の新政府軍との戦いを進言します。苛烈な主戦論者だったようです。立ち上がって奥へ入ろうとする慶喜の袴のすそをにぎって説いたと言われています。彼の唱えた作戦をのちに耳にした新政府軍の大村益次郎は肝を冷やしたそうです。
慶喜が上野寛永寺に謹慎すると、小栗は上州(群馬県)権田村に家族•家来共ども帰ります。しかし、東山道鎮撫総督府の手のものによって逮捕され斬首されます。翌日、養子の又一も斬首されてしまいます。
後年、ライバルともいえた勝海舟は小栗のことを、フランスに国を売ろうとしたとしてボロクソに言っています。しかし、福沢諭吉は、幕臣でもあった勝が、榎本武揚同様、明治政府の高官になって華族に列したことを痛烈に批判し、小栗に対しては先見の明があったと非常に褒めています。
そう言えば、小栗同様、忠臣蔵の四十七士に打ち入られ首を落とされた吉良も「上野介」でした。同じように首を落とされるという不幸な運命なのでしょうか。
小栗上野介で面白い話は、徳川埋蔵金です。勘定奉行であった彼のことだから、江戸城の金蔵から大量の幕府の金を新政府軍にわからないように埋めて隠したのではないかというものです。その埋蔵金を探すため、いまでも、日々、上州の山の中を掘っている人がいるそうです。
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