2015年1月21日水曜日

[「20歳(ハタチ)のころ(4)」


YMCAには、中東からの留学生も多数住んでいました。見るからにオイル・マネーの恩恵を受けていて、勉強もせず遊んでばかりの生活を送っているようでした。貧乏留学生にとっては、羨(うらや)ましいかぎりでした。かれらは毎晩のようにパーティをして、中東のエスニックな音楽をかけて騒いでいました。いつの日か石油が枯渇(こかつ)してしまったら、かれらはどうするのだろうと思っていました。

YMCAでの生活は快適でしたが、その後、中心街から少し外れた3階建てのレンガ造りアパートの2階に引っ越しました。広いキッチンとシャワー・ルームが別にあって、家具付きの部屋でした。寝室だけで10畳くらいはあったようにおもいます。当時のレートで5万円くらいの家賃でした。光熱費も込みでしたから、貧乏学生の身には助かりました。

そのアパートは、ウィリス・ロード(Willis Road)にあって、広い通りから入った、静かな環境にありました。周りの住人は、ほとんどが学生でした。おなじ日本からの留学生も数人住んでいました。通りをはさんで向かい側には、『妙子さん』という秋田出身の女性が住んでいました。ある日、数人の日本人留学生たちが集まるということで、妙子さんの部屋ですき焼きをご馳走になりました。当然、このパーティには、『カバ尾さん』も参加しました。

いま思い出しても、そこに集まった留学生たちは非常に個性的な人たちでした。老舗(しにせ)旅館のあと取り息子なのにJALの機長になって辞めてきた人、みんなに『あんちゃん』と呼ばれている、ケンブリッジに居ついてしまったような中年のおじさん、いかにもやり手のキャリア・ウーマン、慶応大ラグビー部にいたので、本場英国ラグビーを体験したいと留学してきた人、阪大卒のバリバリの大阪人(のち滋賀県出身だと判る)など、当時の世間知らずの私にとって、かれらの話は興味の尽きないものでした。

JALの機長だったという人は、JALでも一番若くて機長になった、と自慢していました。柔道も合気道も上段者で、「コックピットから見る夕暮れのニューヨークは美しかった」、が口癖でした。かれの話には大風呂敷的なところがみられ、やたらと誇張された表現には少々ウンザリしていました。日本人留学生たちにとっては、「また始まった・・・」と、かれの話は眉唾(まゆつば)で聞いていました。

そんな中でも、とくに慶応卒の関戸さんには影響を受けました。長野の人でした。かれの体からにじみ出るような人柄や揺るぎのない言葉には、人としての生き方について様々なことを学びました。ラグビー以外にも、英国の大学で国際関係論を学ぶつもりだ、と言っていました。かれの言葉の端々には、政治の世界への興味が読みとれました。将来は政治家を目指しているように思えました。まだ若いのに頭髪はすでに禿げ上がっていましたが、小柄ながらラグビーで鍛え上げられた身体は、見るからに頑丈そうでした。

かれら留学生との交流は、青春時代の楽しい思い出として、心の奥底に宝物のようにしまってあります。その宝箱をそっと開けると、ひとつひとつの宝石たちは輝きはじめ、30数年前のいくつもの懐かしい情景がよみがえってきます。それらは大切な記憶として、いつまででも輝きつづけ、思い出すたびに胸をあつくします。

(つづく)

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