2014年8月27日水曜日

髪はなが~い友達2


 女性にとって自身の体重を気にするように、男性にとって日々薄くなってゆく頭髪は何かと気になるものです。男性にとって「デブ・ハゲ・メガネ」は、まさに三重苦といえます。

 一般的に「薄毛(またはハゲ)」といわれるものは、医学的に男性型脱毛症(AGA)と呼ばれます。男性ホルモンの影響が大きいといえます。ちなみにAGAは、androgenetic alopeciaの略だそうです。単なるハゲなのに、いかにも高尚な症名がついているものです。

 AGAの治療には、毛髪や頭皮の状態にもよりますが、皮膚科や形成外科の専門医が携わるようです。しかし形成外科医がどのようにハゲの治療に関わるのかは不思議です。過度のストレスによる抜け毛や、過度の抜け毛によるストレスなどに対しては、精神科医の治療も必要であるかもしれません。

 現在、認可されているAGA治療薬は、医者の処方が必要な内服薬のフィナステリド(商品名プロペシア)と外用薬で一般大衆薬であるミノキシジル(商品名リアップ)の2種類があるようです。しかし、あくまでその効果には個人差が大きいとおもわれます。

 つまりその他の市販されている育毛剤は、正式に発毛の効果が認められていないということになり、それらの使用はある意味、「気やすめ」または「無駄な抵抗」であるといえます。やたらと高価な育毛剤を買い求めるのは、何事もお金で解決しようという安易さがあり、淡い期待を伴った「自己満足」といえます。

 AGAにはそのハゲの形状から、頭頂部が薄くなるO型(いわゆる『ザビエルハゲ』)と、前頭部から薄くなるM型があるようです。しかし側頭部だけが残り、前頭部から後頭部にかけて広範囲に禿げる、いわゆる『波平ハゲ』は何型になるのでしょう。

 からくも残った数少ない髪の毛を、まるで定規で測ったように等間隔に撫でつけたオヤジをたまに見かけますが(いわゆる『すだれハゲ』)、その芸術的な「クシさばき」には、感動さえ覚えます。

 さて、毎日欠かさず頭皮をマッサージし血行をよくすると、発毛促進に効果があるといわれています。しかしながら過度のマッサージは頭皮を痛め逆効果になるようです。何事もホドホドが良いということでしょう。

 いずれにしても、ポツポツと雨が降り出すたび、すぐに頭皮で感知してしまうことのないようにしたいものです。「髪よ、生えよ」と、日々「カミ」に祈りながら、セッセと発毛に努力することが肝要のようです。

髪はなが~い友達1

佐田家のルーツを求めて

― 鎮西宇都宮佐田氏系図 ―

  

  佐田氏の始祖は、15世紀の室町時代に活躍した武将、佐田親景(ちかかげ)とおもわれます。佐田氏は、下野(しもつけ)(現 栃木県)の国司を務め、鬼怒川(当時は毛野川)流域一帯を治めた大身、宇都宮氏の流れをくんでいます。

  宇都宮氏は、もともと石山寺(一説には大谷寺)の座主であった藤原宗円を祖とし、源頼朝から「坂東一の弓取り」と絶賛された、宗円の孫の朝綱(ともつな)より宇都宮氏を称しているようです。有力な鎌倉御家人だったようです。

  その後、嫡流の宇都宮氏より庶流の豊前宇都宮氏(城井氏)、伊予宇都宮氏、さらに筑後宇都宮氏(蒲池氏)へと分家したようです。佐田氏の祖である佐田親景(ちかかげ)は、豊前宇都宮氏(城井氏)の流れをくんでいます。つまり、朝綱(ともつな)の嫡男である宗綱が宇都宮氏を引き継ぎ、その弟である宗房の嫡男信房が豊前国に地頭職を賜って、中津郡城井に居住し、鎮西宇都宮氏の始祖となっています。  

  信房のあと、景房、信景と続き、正応3年(1290)、信景の嫡男、通房が幕府より足立五郎左衛門大尉遠氏の知行地である宇佐郡佐田荘(現 大分県宇佐市安心院町(あじむちょう)佐田)を地頭職として代わりに領するよう命じられています。

  建武3年(1336)には、その通房の孫(息子頼房の第5子)である公景は、足利尊氏の軍事指揮下に属しています。公景は、初代九州探題、一色道猷を支えた有力武将の一人であったようです。九州において威勢を誇っていたことがうかがえます。

  しかしながら公景は文和3年(1354)に戦死し、公景のあとの経景も筑後国山崎で戦死しています。ときの九州探題、今川了俊は経景の子息親景に対し、跡目相続を安堵しましたが、経景の弟氏治(親景の叔父)が佐田の所領・所職を押領してしまいました。しかし応永7年(1400)、そのときの九州探題、澁川満頼が親景を薩摩守に推挙し、本領を安堵しています。

  この宇都宮親景が、佐田氏の始祖です。親景の通称は因幡(いなば)次郎で、法名は昌節となっています。親景は、応永6年(1399)、標高300メートルほどの佐田荘青山に佐田城(地元では青山城と呼ばれているようです)を築き、豊前城井(きい)郷菅迫より移住し、宇都宮を改めて佐田姓を称し、名を佐田親景としています。ちなみに佐田の語源は、狭田、小田からきているといわれ、また、陸と海を限定する岬からきているともいわれます。

  佐田城址には、いまでも土塁、空堀、土橋、一部石垣が残っているようです。尾根を巧みに利用した大規模な山城だったようです。佐田には、大分県の有形文化財として指定されている佐田郷の総鎮守社、佐田神社もあるようです。






佐田城への登山口に設置されてある「案内板」には、以下のように記されています。

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【佐田城(別名青山城)と佐田氏】
 

  標高約300mの青山を主体として、そこから派生する尾根や尾根先端部に土塁・空堀・曲輪等の城郭遺構が東西1000m・南北600mにわたり、良好に残っています。

  応永6年(1399)佐田親景(ちかかげ)が城井(きい)谷菅迫(現 福岡県みやこ町犀川城井)から佐田青山に移って築城したといわれています。

  佐田氏は、有力な鎌倉御家人である宇都宮系城井氏の分家です。九州探題が九州に下向する場合は必ず宇都宮氏に強力を要請しています。

  この地は豊前国と豊後国の境界に位置しているため、大内・大友両氏の抗争の舞台となっています。佐田氏は、大内氏支配の時には宇佐郡代に任命されています。天正15年(1587)黒田孝高(よしたか)(如水)が豊前6郡を支配すると、大友氏を頼って豊後へ赴いています。しかし、文禄2年(1593)に大友氏が豊後国から去るにあたり佐田に戻り、元和元年(1615)には細川氏の家臣となり、熊本転封に同行しています。

宇佐市教育委員会
佐田地区の歴史を考える会

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大分県宇佐市安心院町(あじむちょう)佐田

  佐田氏は、もともと宇都宮氏と同族であるため、周防の大内氏に従っていたようです。その後、大内氏が豊前国を領するようになると、もっとも有力な佐田氏は宇佐郡代に任じられています。資料によると、享徳3年(1454)に佐田盛景、延徳4年(1492)俊景、永正15年(1518)泰景、大永6年(1526)朝景、天文19年(1550)には隆居(たかおき)がそれぞれ郡代だったことが確認できるようです。

  宇佐郡代の職務は、宇佐宮寺の造営用材木の採用や社納人足の催促、訴論地の打ち渡し、宇佐宮諸職の打ち渡し、直轄領違乱に対する成敗などから、宇佐宮造営・諸神事の奉行などであったようです。また、この地域は豊前・豊後の境界に近く、大内・大友両氏による抗争の舞台ともなり、大友軍はしばしば佐田氏を攻撃しているようです。

  明応7年(1498)には、大友氏(親治)は佐田泰景を攻撃し、泰景は父俊景とともに菩提寺に立て篭り奮戦し、翌年10月には、宇佐郡院内衆とともに妙見岳城で大友軍に抗戦しています。天文3年(1534)には、大内義隆は豊前方面から豊後を突こうとして進出し、これに対して大友義鑑は大友方の佐田朝景を攻撃しています。この年に「勢場ケ原の合戦」が起こり、佐田氏が活躍したようです。

  その後、大内氏は陶晴賢(すえはるたか)の謀反により没落すると、弘治2年(1556)、大友義鎮が豊前制覇のため宇佐郡に進出し、翌年、宇佐郡衆は豊後大内氏に従うようになったようです。このころの佐田氏の被官として、佐田一族をはじめ、加来・永松・高並・平群・小田氏等がいたようです。

  大内氏から大友氏へ仕えるようになると、とくに佐田家14代弾正忠佐田隆居(たかおき)は、宇佐郡衆の中心的存在として、大友軍に属して各地に転戦して活躍しています。この隆居と息子の15代弾正忠佐田鎮綱(しげつな)は、大友宗麟・義鎮父子の信頼も厚かったようです。隆居の嫡男は大友義鎮より「鎮」の字を賜り鎮綱と称しています。大友宗麟の生涯を描いた遠藤周作の小説、『王の挽歌』の作中にも、佐田氏の名がでてきます。

  興味深いのは、代々豊後国緒方庄(現 大分県豊後大野市緒方町)一帯を領していた緒方一族も大友氏に仕えていますので、この当時佐田氏と何らかの接点があったのではないかと想像します。ちなみに大友宗麟が大友家の家督を継いだとき、緒方氏の娘が正室候補になったという記録があるようです。

  天正期(1573~92)になると大友氏勢力が次第に弱体化しはじめ、天正6年(1578)、有名な「日向耳川の合戦」において大友氏が島津氏に大敗してしまいます。それによって多くの国人領主が大友氏を見限り離反しますが、佐田隆居と鎮綱父子は変わることなく大友氏に従ったようです。同11年(1583)正月、安心院麟生が竜王城に拠って大友氏に背くと、隆居はこれを攻め、本領安堵の条件を出して開城させています。佐田氏の大友家への強い忠誠心がうかがえます。

  しかし島津氏の攻勢は激しく、やがて大友氏が退勢となりますが、豊臣秀吉の九州征伐があり、島津氏は薩摩に撤退を余儀なくされ、九州は秀吉の国割りによって豊臣政権下の大名に所領が割り当てられました。

  天正15年(1587)、豊前六郡(京都、築城、上毛、下毛、宇佐)に黒田官兵衛孝高が入部してくると、佐田氏は領地を追われてしまいました。黒田家の部将・母里太兵衛(NHK大河で速見もこみちが演じている)が城を預かったようです。それによって佐田氏は、8代、188年間守り抜いた城地を去ることになります。その後、大友氏を頼ったようですが、文禄元年(1593)、大友義統が改易となり豊後除国に伴い佐田に戻ったようです。

  佐田一族は、その後黒田氏に降り、その客分となり、のち元和元年(1615)、細川忠興の家臣となり、細川氏の熊本転封にともないそれに同行したようです。まさにそこには、激動の戦国時代の荒波に揉まれ、佐田一族の維持と繁栄のため奮闘した歴史があります。

  細川家へ仕えるようになった初代・五郎右衛門や代々の佐田家については、元和5年の「細川忠興公判物」「佐田五郎左衛門知行方目録」(佐田文書)等が残されており、代々能吏として藩に仕えたようです。七・八・九代を特に記すと、

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  七代佐田宇兵衛(谷山)は 名は介景、字は子国、宇兵衛と称し、致仕して谷山と号せり。藩に仕へ小姓役を勤む。禄百五十石、程朱の学を好み、傍俳歌をよくす。春雛、箕足と号す。又音楽を能くし、曾て壽永筝を得て珍蔵し、孫宇平の時に献上して今は御物となれり。享和三年五月三日没す。享年七十五。墓は本妙寺中東光院。

  八代佐田右十(右州)は 名は英景、右州と称し、造酒之助と改む。食禄二百五十石、小姓役、使番、中小姓頭小姓頭等を勤む。多芸多能のひとにして俳辭、散楽、蹴鞠、茗理、篆刻、種樹等皆能くせざるはなし、又頗る剣技に長ぜり。文化十四年十二月五日没す。享年五十九。

  九代佐田右門(右平・吉左衛門)は 名は玄景、右平と称し、後吉左衛門と改む。藩に仕へ食禄三百五十石、奉行職を勤む。平素好んで詩書を謡し、史事を考證し、手に巻を廃せず。安永元年八月弐拾日没す。享年七十四。

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  これらが記された膨大な佐田文書の多くは、肥後細川藩の貴重な文献として、熊本県立図書館に所蔵されているようです。その文書は多岐におよんでおり、史料的価値は大きいとおもわれますが、詳細な研究にはまだ至っていないようです(東京大学史料編纂所にて基礎的な調査あり)。古文書の読解力があればよいのですが、読んでみると当時の武家の日常生活などが垣間見られ、非常に興味深いのではないかとおもわれます。

  ちなみにシンガーソングライターのさだまさしの佐田家は、もともと島根県那賀郡三隅町(現 浜田市)の大地主の家系のようです。父親が先の大戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、そのまま長崎に住み着いたようです。また、1940年代後半から1960年代に活躍した俳優、佐田啓二の本名は中井寛一で、佐田氏とは関係がなさそうです。

  さて、疑問として残るのは、佐田家の家紋が桔梗(ききょう)であり、調べた限り、上記の佐田氏が同じ桔梗紋を用いていたかどうかが定かではありません。宇都宮氏の流れをくむことで『左三つ巴』を用いていたかもしれませんし、佐田氏の始祖、親景が宇都宮氏より佐田氏と称したおり、桔梗紋を用いたのかもしれません。

  武士でこの紋を用いたのは清和源氏の土岐氏で、戦国時代には土岐氏の流れをくむ明智光秀が水色の桔梗紋を用いたことは有名です。熊本細川家の前城主、加藤清正も桔梗紋を用いたことがあったようですから、細川家に仕えるようになったことに何らかの起因があったかもしれません。いずれにしても、源氏の流れをくむ武家の出であることは間違いなさそうです。

  最後に、以下に佐田文書を列記してみました。細川藩の文官として、また佐田家歴代当主の手になる日記を主に、おびただしい数の文書が残されています。代々筆まめであったようです。とくに99番の二天一流(にてんいちりゅう)は、宮本武蔵が晩年に熊本で完成させた兵法です。その理念は著書『五輪書』に著されています。どうも佐田家のご先祖さまが、その写しをとったようです。面白い文書としては、蒙古襲来に対して活躍した竹崎季長の寄進状の写しや、犬に咬まれたときにとった救急処置の記録などまであるようです。


佐田文書 (熊本県立図書館蔵)


1.  亀霍問答

2.  御使者番勤録 佐田写 

3.  玉名郡受付古墳墓誌考「内田手永薬師堂書付」 写 

4.  日記 嘉永七年甲寅 

5.  東行日記 寛政十一年 

6.  御客帳 弘化四年三月 

7.  衣服御制度御書附之写   

8.  「月番御役心得」 永田写

9.  御葬式しらべ帳 文政三年辰九月 

10. 衆成講通帳 慶応元年十月 

11. 烏目覚 庚辰九月 

12. 横監対語 文政五年より 

13. 黒石山より所々迄出方帳 安政四年十一月 

14. 覚 佐田 

15. 漫録 

16. 途旅中日記 文化丁丑秋七月        

17. 御参勤陪駕途旅中日記 文化十二乙亥二月 

18. 日記 慶応二年丙寅 

19. 紀州百姓騒動一件 

20. 東都白銀邸日記 文久二年正月 (佐田淑景著) 

21. □禄日記 文政六年 (□ 判読不可)

22. 日載 天保五年 

23. 「細川氏系譜」写      

24. 日記 天保十年己亥       

25. 見聞払記 

26. 日々禄 天保七年正月元旦 

27. 阿蘇宮参拝記 天保八年四月 

28. 豊前国小倉在陣中日記 元治元年十月一日      

29. 日記 天保六年 

30. 日記 弘化六年 

31. 年頭御禮申上覚 

32. 下作代入組等書付 文化十三年改 

33. 御妹様御病死・・・・御吊儀御使者名簿      

34. 雑記帳 天明四年甲辰三月御先立被仰付 他 

35. 雑記帳 羽衣・山姥 他 

36. 宇佐紀行 文化十四年 

37. 雑記帳 文化九年ノ記 画師高雪峯の事等 

38. 鄙日記 文化甲戌夏卯月 

39. 日簿 文政十三年庚寅正月

40. 日記 弘化五年戌申 

41. 天保十三年壬寅目録 玖瑰園 

42. 日記 嘉永四年辛亥 玖瑰園 

43. 日記 嘉永二年己酉 壽永閣

44. 日記 嘉永六年癸丑 玖瑰園

45. 日記 嘉永三年庚戌 玖瑰園         

46. 日記 天保七年丙申

47. 日記 天保五年甲辰

48. 日記 弘化四年丁未 玖瑰園

49. 日表 天保三年壬辰正月

50. 日記 天保九年戊戌

51. 豊前紀行

52. 文化十年暮江戸御人賦津田平助手元ニ而相調監物殿相達候写

53. 西国御郡代三河口太忠様嫡深谷御止宿之節月番 文化十一年

54. 熱海笈の引出 天明四年甲辰五月 (雑記帳メモ)

55. 雑税 文化八年

56. 萬之控

57. 随筆 佐田義景 文化六年正月十日起筆

58. 藩翰譜之内 細川譜考異 佐田英景写

59. 犬咬急救録 千代村宗元

60. 蒙宰司徒寮 坂田玄景写

61. 池邊寺文書 写

62. 小国満願寺傳来之書付 写

63. 竹崎季長塔福寺寄進状 長瀬真幸写

64. 「細川輝経公」写 松井家旧記ノ内書抜

65. 内大臣山并矢部馬見原川ノ口之紀行

66. 御手当名附 嘉永三年 写

67. 石川開御買入一件抜書

68. 宮城野土産

69. 志方半兵衛有馬御陣中より洛外吉田ニ被成御座候三斎様江言上之書翰写 寛文九年

70. 御小姓組四組御小姓頭支配名附

71. 御国律 宇佐永孚写

72. 生田又助覚書 附細枝実記

73. 由来書高砂一巻并書通之写 天野屋写

74. 御国律 佐田淑景写

75. 梅木田覚書 志水加兵衛写

76. 口上之覚 写

77. 廃刀之儀ニ付加屋霽堅当県江上書之写

78. 漫録 写

79. 御系譜 写 (細川斎茲まで)

80. 尚歯之記 安永六年 安田貞方写

81. 家中式法覚 享和元年正月改正 写

82. 御奉行奉書控 寛永・正保等

83. 御納戸日記 堀田正俊・柳沢吉保 写

84. 丹羽亀丞言上 写

85. 先祖附并御奉公附 写 森寿吉

86. 水野家記 日下部景衡写

87. 覚 八代上納候分

88. 古文書写

89. 阿曽大宮司所蔵古文書 写

90. 浅草川小堀長順游之覚 写 原著宝暦10年

91. 堀太夫行状 写

92. 大阪御供記 佐田義景写

93. 鉄炮注文三種 覚

94. 秘府記略 五上 写

95. 秘府記略 五下 写

96. 高瀬清願寺、願行寺文書 長瀬助十郎等写

97. 二天記 写

98. 二天一流 写

99. 小倉大里滞陣中記 佐田彦之助写

100.宮城野土産追加 佐田亥之助(淑景)写

101.忠利様肥後御入国御供面々宿割付 佐田右門写

102.宇土御記録

103.夢中の妄想 写

104.裁縫伝授書

105.寿仙院様島原陣御證書栞 佐田義景写

106.頴才詩録 第一号

107.はきのつゆ 写 催馬楽のうち


  肥後細川藩侍帳によると、歴代佐田家当主は以下のようです。


1. 初代 五郎右衛門​​   

細川忠興公判物(元和元年)豊前
佐田五郎左衛門知行方目録(元和元年)

2. 二代 吉左衛門

3. 三代 市郎左衛門   ​

百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)

4. 四代 新兵衛​​      

(1)有吉頼母允組 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳) 
(2)西山八郎兵衛組 惣銀奉行 百五十石
細川綱利公判物(寛文元年)

5. 五代 又次郎(養子) ​ 

佐田又次郎知行差紙(養父新兵衛上知分)

6. 六代 宇兵衛・正時(初・次郎吉・新兵衛)

百五十石 御番方十二番御小姓組四番 屋敷・京町

7. 七代 宇兵衛      

細川宣紀公御書出(正徳六年)

(佐田谷山 名は介景、字は子国、宇兵衛と称し、致仕して谷山と号せり。藩に仕へ小姓役を勤む。禄百五十石、程朱の学を好み、傍俳歌をよくす。春雛、箕足と号す。又音楽を能くし、曾て壽永筝を得て珍蔵し、孫宇平の時に献上して今は御物となれり。享和三年五月三日没す。享年七十五。墓は本妙寺中東光院。)

8. 八代 右十(造酒助) 

百五十石
​​​享和二年十一月~文化二年二月 川尻町奉行
​​​文化二年二月~文化八年九月   中小姓頭
​​​文化八年九月~文化十四年十一月 小姓頭
​​​文化十四年十一月~文化十四年十二月(病死) 留守居番頭

(佐田右州 名は英景、右州と称し、造酒之助と改む。食禄二百五十石、小姓役、使番、中小姓頭小姓頭等を勤む。多芸多能のひとにして俳辭、散楽、蹴鞠、茗理、篆刻、種樹等皆能くせざるはなし、又頗る剣技に長ぜり。文化十四年十二月五日没す。享年五十九。史料:嶋原一件書状之写(温泉嶽燃出、津波被害の状況報告の手紙七通)寛政五年)

9. 九代 右門(右平・吉左衛門) ​

右門-御目付 三百石
右平-旧知二百五十石
​吉左衛門-旧知三百五十石
​​細川斎護公御書出(文化九年)
​同上      (弘化四年)
天保元年七月(大組付)~天保三年二月 高瀬町奉行
天保三年二月~天保五年九月 奉行副役
天保五年九月~安政元年八月(病死)奉行-吉左衛門ト改名

(佐田右平 名は玄景、右平と称し、後吉左衛門と改む。藩に仕へ食禄三百五十石、奉行職を勤む。平素好んで詩書を謡し、史事を考證し、手に巻を廃せず。安永元年八月弐拾日没す。享年七十四。)

10.十代 新兵衛   ​​        

大組附・留 三百五十石

11.十一代 彦之助          ​​

二百五十石

何代かは不明  佐田次郎吉知行(慶安四年)

            同上      (承応二年)父市郎左衛門トアル

        佐田新兵衛知行引渡差紙写(寛延三年)宇兵衛上知高百五十石・・・ 

2014年8月17日日曜日

緒方家のルーツを求めて



ご先祖さまの緒方三郎惟栄(これよし)(惟義とも書く)(生没年不詳)は、12世紀末ごろの源平争乱期に活躍した武将です。もとは宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官だったようです。荘官は、いわゆる地方豪族で、現場にいて土地を管理し、年貢を徴収し、警察事務を担当していました。緒方庄は、現在の大分県豊後大野市緒方町一帯であったと思われます。宇佐神宮は、同じ大分県宇佐市にある、全国に約44,000社ある八幡宮の総本社です。

緒方三郎惟栄は、豊後大神(おおが)氏の流れをくむ豊後国37氏の姓祖といわれています。もともとは大神惟栄と名乗っていたようですが、大野荘緒方郷に荘官として住み始め、武士化して緒方氏を称したようです。豊後大神一族は、そのほかに大野氏、阿南氏、臼杵氏などが台頭していましたが、緒方氏はその中でも豊後大神武士団を統率する中心的役割を担っていたようです。




もともと惟栄は、平清盛の嫡男、重盛と主従関係を結んでいた家人でした。「平家物語」にも、「かの惟義(惟栄)は小松殿の御家人也」とあることから、平重盛に属していたことがわかります。しかしながら、治承4年(1180)に源頼朝が挙兵すると、飢饉や疫病などが蔓延し乱れていた世を憂い、翌年突如、平家に反旗を翻し、豊後国の目代(平家の代官)を追放しています。おそらく義侠心の篤い武将だったようで、時勢を見る鋭い眼をもっていたとも思われます。

この平家に対する謀反は、源平盛衰記や吾妻鏡にも「治承五年の事」として記述があり、宇佐神宮大宮司「公通」より六波羅に宛てた書状に、「・・・九国住人、菊地次郎高直、原田大夫種直、緒方三郎惟義(惟栄)、臼杵、部槻(戸次)、松浦党を始として、謀反を発し・・・」とあるようです。

これら平家に叛いた九州武士団の中でも中心的な勢力だった惟栄は、豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受けると、清原氏、日田氏などの力を借りて平家を大宰府から追い落としています。このときの惟栄の軍勢は3万余騎であったといわれています。また、荘園領主の宇佐神宮大宮司家の宇佐氏が平家方についたため、宇佐神宮の焼き討ちも行っています。このあたりは、東大寺を焼き討ちした戦国武将松永久秀や、比叡山延暦寺を焼き尽くした織田信長に通じる、神仏を恐れず果敢に行動するリアリストだったように思われます。

この宇佐神宮焼き討ちは、元暦元年7月6日(1184)、緒方三郎惟栄、臼杵二郎惟隆、佐賀四郎惟憲の兄弟で行っています。宇佐大宮司「公通」から緒方庄の上分米の上納を怠ったと問責されたことに端を発し、これまでの平家支配に対して溜まっていた憤懣(ふんまん)によってひき起こされたともいわれています。

「吾妻鏡」には、「・・・武士乱入の間、堂塔を壊して薪となし、仏像を破って宝を求め、眉間を打破して白玉取り、御身を烈穿して黄金を伺い、其の間狼藉筆端に尽くし難し・・・」と兄弟の狼藉ぶりを伝えています。惟栄は、この宇佐神宮焼き討ちにより、上野国沼田(現群馬県沼田市)への遠流の罪を受けますが、平家討伐の功によって赦免されています。

元暦元年11月には、西国平家追討の総大将、源範頼に兵糧や兵船82艘を提供し、葦屋浦(あしやうら)の戦いでは平家軍を打ち破っています。周防国にいて九州へ渡る船もなく進退に窮していた範頼に兵船を献上したことからも、惟栄が豊後の水軍を支配していたことがうかがえます。その後の源氏による九州統治が進んだのも、緒方一族の平家からの寝返りが貢献しているといえます。

また惟栄は、源義経が兄頼朝に背反した際、義経に加担し西国武士団を糾合して再起するため、ともに摂津大物浦(だいもつうら)(兵庫県尼崎市)から船で九州への逃避を企てています。後白河院は惟栄を院中に召して義経の護衛と先導を命じています。しかしながら一行の船は、途中、嵐に会い、離ればなれになってしまい難破、義経の船は住吉の浦(大阪市)に打ち上げられ、すべての女房を捨てて吉野山に逃げ入っています。惟栄は捕らえられて上野国沼田(群馬県沼田市)へ流罪となっています。


緒方三郎惟栄に助勢を頼む義経

その後の惟栄の消息は定かではありません。罪を許されて佐伯(大分県佐伯市)に帰ったとも、帰途のうちに病死したとも伝えられています。一説によると、建久6年(1199)に57歳で没したともいわれています。岡城(大分県竹田市)を築城したのは、義経をかくまうためだったといわれていますが、異論をもつ歴史家もいるようです。岡城は、かの滝廉太郎が名曲「荒城の月」の曲想を得たといわれる難攻不落の城として知られています。

処罰の対象になったのは、あくまで惟栄やその親族であったようです。直系以外のそのほかの系流である緒方一族は、その後も豊後南部の有力国人として残り、大友氏や藤堂氏に仕えています。平家討伐に多大なる貢献をし、九州において大勢力を誇った緒方氏が、その後は次第にその威勢を失っていったのも、義経を支えたことが裏目に出てしまい、源氏に対して反旗を翻すかもしれないという頼朝の強い猜疑心の結果であるかもしれません。

大分県には以下のような「緒方三郎惟栄(これよし)始祖伝説」があります。

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   昔、豊後の国清川村宇田枝というところに、大太夫という豪族が住んでいた。
大太夫には花御本(はなのおもと)というひとりの姫があった。たいそううつくしい姫で、国じゅう見まわしても肩をならべるものはなかろうと、うわさされる程であった。
大太夫のいつくしみようはたいへんなもので、「姫よ、姫よ……。」と、いつもかたわらにおいてかわいがっていた。

 姫のうわさを聞いて、おおくの若者たちが、わたしこそ姫のむこにと、もうしでてくるのだが、そのたびに大太夫は、「わが家より家の格がたかいものでなけれは、むこにはできない……。」と、ことわりつづけていた。そして、大太夫は、やかたのうしろにりっばな家をつくって守りのものをつけ、そこに姫をすまわせて、いつも気配りをおこたらなかった。
このため若者たちは、だれひとりとして姫のもとにかようこともできず、ただとおくからその美しい姿をながめては、ためいきをつくばかりだった。

 春がすぎ、夏もすぎたが、姫には、誰一人心をうちあけるものがおらん。ある秋の夜、姫がひとりものおもいにふけっていると、どこからともなく、立烏帽子 (むかし、公家や武士がかぶった帽子) に水色の狩衣をつけた若者があらわれた。どう見ても、田舎にすむものとはおもえない、上品なすがたをしている。

 若者は、花御本のそばにちかづくと、やさしく声をかけた。
「姫よ、なにもこわがることはない……。」
そして、姫の肩に手をまわした。姫は、なすすべも知らず、ただただ、からだをかたくするばかりだった。
 やがて夜もふけ、いつのまにか若者はかえっていった。姫は、いったいどこのだれだろうと思案しながらも、いつかまた、あの若者がたずねてくれることを心まちしていた。

 若者は、つぎの夜もやってきた。さく夜とちがい、姫も笑顔でむかえた。若者とかたらっていると、夜のふけるのもわすれた。姫の心は、いつのまにか若者にかたむき、気がついたときには、若者のむねに抱かれていた。
 それからは、雨がふろうが、風がつよかろうが、若者はまい晩かよってきた。姫も若者の来るのを楽しみに待つようになっていた。

 姫は、このことを大太夫やまわりの人にかくしていたが、なにしろまい夜のことなので、姫につかえていた女たちから見とがめられ、ついに大太夫の知るところとなった。
そこで、大太夫は姫をよび、「姫よ、おまえのもとにまい晩まい晩やってくる若者は、いったいどこの誰じゃ。」と、とうてみたが、姫はなかなかこたえようとしなかった。そこで大太夫は、さらにきびしくといつめた。
すると、姫は、「どこのどなたか、おたずねしても、いっこうに名をあかしてくださいません。ただ、身なりからして、よほどのおかたとお見うけしております。あのかたがおいでになるのは夕ぐれですが、いつお帰りになるのか、わかりません。わたしが目をさましたときには、もう、お姿が見えないのでございます。」
と、ようやくありのままをうちあけた。

 その話をきいて、大太夫はかんがえた。(大宰府の近くでもあれば、都の身分の高いお方とおもってよかろうが、ここはかた田舎じゃ。わけがわからん。しかし、狩衣に烏帽子すがたとは、おそらく家柄のよい若者であろう。姫のむこにしてもよさそうじや……。)

   だが、若者がどこの誰ともわからんのでは、縁談のすすめようもない。大太夫は、若者の身もとをつきとめる方法はないものかと、思案にくれた。
やがて大太夫は、若者が夕方やってきて、明け方ちかくに帰るということなので、なにか印をつけて、その行方をたずねようとおもいついた。そこで姫に、おだまき(糸まき)と針を「姫よ、今夜その若者がたずねてきたら、気づかれないように、このおだまきの糸に針をつけて、狩衣のすそに刺し通しておくように。」と、おしえて、姫をやかたにかえした。
その夜、またどこからともなく、いつもの若者がやってきた。身分はあかさないが、高貴なお方らしいことは、そのものごしや、ことばづかいからもうかがえた。
「あなたさまは、どこのどなたです。お名まえなりと、お教えくださいまし。」姫は、できることなら狩衣のすそに針を刺したりしたくなかったので、懸命にたのんでみたが、「わけあって、あかすことはできぬ。」と、若者はロをとざしてしまうのだった。

 姫はしかたなく、大太夫からおしえられたとおり、若者に気づかれないよう、そっと狩衣に針を刺しておいた。
 朝になって目をさました姫は、若者の姿をさがしたが、いつものようにその姿はどこにも見あたらなかった。

 姫は、さっそくそのことを大太夫に知らせた。大太夫は、「この糸をたどっていけは、その若者のすまいをつきとめることができる。さあ、跡を追ってみよう。」と、姫や、共の物をつれて、糸をたよりに若者の跡を追った。おだまきの糸は長く伸び、山をわたっていくうち、日向の国(いまの宮崎県)と豊後の国のさかいにある姥岳のおくの、見あげるはかりの大きな岩屋の中にひきこまれていた。

 あなのいり口に立って耳をそばだてると、痛みにうめくような声がきこえてきた。その声は、身の毛もよだつような恐ろしいうめき声だった。姫は大太夫のいうとおりに、あなのいりロに立って、「わたくしは花御本でございます。あなたさまをしたってまいりました。どうぞ、お姿を見せてください。」
といった。

   すると、あなの中から、「もはや、それはできぬ。じつは今朝ほど、おとがい(したあご)の下に針をたてられ、ひどい傷を受けている。わたしの本身は、おそろしい大蛇だ。人の姿をしているときなら、外にでて見せてもよいが、人の姿にかえる力もすでになくなった。しかし、なごりおしいし、恋しい……。よくぞ、この山奥までたずねてきてくださった。」と、声があった。

 花御本は、「たとえどのようなお姿であろうとも、日ごろの情は忘れません。お姿をひと目見たいと、はるばるたずねてまいりました。どうか、お姿をお見せください。」と、頼んだ。すると、しばらくして、「そうまでいわれるのなら、わたしの姿をごらんにいれよう。おどろかれるな……。」といいながら、大蛇は、あなからはいだしてきた。だが、おそろしい姿には似ず、目には涙をうかべ、頭をさしのべてきた。姫は衣をぬいで頭にかけてやり、おとがいの下の針をそうっと抜いてやった。

 喜んだ大蛇は、「姫よ、あなたのお腹の中には、男の子が宿っている。その子が成長したあかつきには、九州では並ぶもののない武将となろう。おそろしいものの子であるからといって、けっして粗末にされるな。わたしが子孫の末までも、お守りいたそう。」
それを最後のことばに、大蛇はあなにもどって息たえてしまった。この大蛇こそ、姥岳大明神の化身だった。

 やがて、姫は玉のような男の子を生んだ。大太夫は、この子に大太と名をつけた。 大太は、はだしで野山を走り回り、足にはつねにあかぎれがきれていたので、皹童(くんどう)ともよばれ、若者となってからは、輝大弥太(あかがりだいやた)ともいわれた。

 大弥太(だいやた)は成人して、大神惟基(おおがこれもと)という九州一の勇者となった。
大弥太の子に、大弥次、その子に大六、その子に大七、その子に尾方(緒方)、三郎惟義(惟栄これよし)が生まれた。大太から五代めである。
このように、大神惟基の子孫は、のちにこの地をおさめる豪族緒方氏となった。
この緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)は、緒方を中心とする大野地方に本拠をかまえ、源頼朝と仲違いをしていた弟の義経を迎えるため竹田に岡城を築城し一時は豊後一円から九州各地に勢力をふるった豊後武士団の頭領となった。

 緒方三郎は、ヘビの子の末をついだということだろうか、背にヘビの尾とうろこの形のあざがあったといわれている。だから緒方(尾形)というのだと。

             偕成社発行  大分県の民話より



この伝説は、鎌倉時代に成立したと思われる、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」という冒頭部分で有名な「平家物語」の第八巻「緒環(おだまき)」にも出ています。以下に歴史小説家吉村昭の訳を載せます。

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惟義は、恐ろしい者の子孫であった。

むかし、豊後の国の山村に、ひとりの女がいた。まだ結婚していなかったが、男が毎晩通ってきて、月日がたつうちに妊娠した。

母はあやしんで、

「おまえのもとに通ってくるのは何者か。」

とたずねたが、

「くるときは姿を見ますが、帰るときは見たことがありません。」

と答えた。

「それなら、男が帰るときにしるしをつけ、ゆく先をつけてみよ。」

娘は、母のいうとおりに、朝、帰る男の水色の狩衣(かりぎぬ)の襟の部分に針をさして糸をつけ、男が去った後、その糸をたどっていった。

すると、日向(ひゅうが)の国との国境にある優婆岳(うばだけ)という山のふもとにある大きな岩屋の中に糸がはいっていた。

女が岩屋の入り口にたたずんで中の気配をうかがうと、大きなうなり声がする」

「わたしはここにきています。お会いした。」

女が声をかけると、

「わたしは、人間の姿をしていない。おまえがわたしの姿を見れば肝をつぶすだろう。すぐに帰れ。おまえがみごもった子は男子であるはずだ。武器をとれば九州、壱岐、対馬にならぶものがない勇者になる。」

という声がした。

女は、かさねて、

「たとえどのようなお姿であろうと、これまで愛しあってきたことをどうしてわすれられましょう。姿を見せてください。お願いです。」

とたのんだので、

「それでは。」

という声がし、岩屋の中から、とぐろをまいても五、六尺、全長は十四、五丈もあろうかと思える大蛇が、身をくねらせてはいでてきた。

狩衣の襟にさしたと思った針は、大蛇ののどに突きささっていた。

女は、この姿を見て仰天し、ひきつれていた供の者十余人もうろたえてたおれ、悲鳴をあげて逃げた。

この大蛇は、日向の国で尊崇されている高知尾神社(たかちおじんじゃ)のご神体であった。

女は、帰ってまもなく男の子を産んだ。

母方の祖父の太大夫(だいたゆう)がそだてたが、まだ十歳にもみたないのに背たけが高く、顔は長かった。

七歳で元服(げんぷく)させ、祖父の太大夫という名からとって、この子を大太(だいた)と名づけた。

大太は、夏も冬も手足に大きなあかぎれがいつもできていたので、あかがり(あかぎれ)大太とよばれた。

緒方の三郎惟義は、あかがり大太の五代目の子孫であったのである。

惟義は代官の頼経(注参照)の命令を法皇の命令だとして、九州、壱岐、対馬にまわし文をまわしたので、おもだった武士たちはすべて惟義にしたがいついた。


注: 豊後の国を支配していた刑部卿三位頼輔(ぎょうぶきょうざんみよりすけ)の子で代官。都にいる法皇から「平家は、神々に見はなされ、法皇にもすてられて都から海上にただよう落人(おちうど)となった。それなのに九州の者たちが、それをうけいれてもてなしているのは、まことにけしからん。おまえの国は平家にしたがってはならぬ。全員一致して平家を追いだせ。」という命令がつたえられた。頼経は、この命令にしたがって、豊後の国の住人緒方の三郎惟義に平家追いだしを命じている。


姥岳大明神の本当の姿を見て恐れる花御本姫 『平家物語絵巻』 (岡山市 林原美術館蔵)


また源平盛衰記は、「惟義(惟栄)と云うは、大蛇の末なりければ、身健に心も剛にして、九国をも打ち随へ、西国の大将軍せんと思う程のおほけなき者なり」と書かれてあります。

古事記の崇神天皇の条に、似たような伝説(三輪山伝説)があるそうです。しかしこの伝説によると、娘が辿って行きついた先は大和のくにの三輪山であり、そこにいた「謎の男」は、大物主神という、神武天皇が大和に入る前から、三輪山を中心に信仰されていた国つ神です。

大物主神は、出雲神話の大国主神(おおくにぬしのみこと)の異名であるともいわれていて、出雲の国の神が、神武天皇の大和入り以前から、この地において信仰されていたと考えられます。「緒方三郎惟栄(これよし)始祖伝説」は、惟栄の武勇を強調するために、この三輪山伝説を用いたとも考えられます。

ところで、緒方三郎惟栄の祖先神である大蛇(姥岳山(祖母山)の山神の化身)と情を交わした始祖・大神惟基の母、「花御本姫」を祭神として祀る神社が、豊後大野市清川村にあるそうです。緒方家にとっては、「花御本姫」は「アダムとイブ」のイブのような存在といえます。その神社の名を「宇田姫神社」といい、神社正面の左手には洞窟があり、遠く姥岳に通じているといわれています。

花御本姫は、ちょうどこの神社のあたりに住んでいたのでしょう。この宇田姫神社から南東へ400メートルほどの所には大神惟基が出生したと伝わる萩塚もあるようです。惟基の母である花御本姫が出産するときに萩を敷いたといわれているようです。

この萩塚は地元の人たちに「萩塚様」と呼ばれ、産婦が産気づくと、こちらの萩塚様から萩枝をもらい、家に帰って敷いて頭を当てたりすると無事に出産できると伝わるようです。出産後にはその萩塚様に返して感謝のお礼参りをするようです。

さらに、「アダムとイブ」のアダムにあたる大神惟基の父「大蛇」が住んでいたと伝わる神社もあります。豊後大野市の隣に位置する竹田市大字神原にその神社はあり、「穴森神社」というそうです。まさにこの神社が豊後大神氏の聖地といっても過言ではありません。

鳥居を抜けて拝殿の奥には、やはり岩穴があるそうです。その岩穴は驚くほど大きく、姥岳山の大明神の化身である大蛇が住んでいたのは、この岩穴のようです。つまりこの岩穴が御神体となっており、喉笛を針に刺されて泣き叫び苦しんでいる大蛇がいまにも這い出てくるような真昼でも薄暗い場所のようです。まさに平家物語絵巻の「緒環(おだまき)」の描かれた場所です。

この地域の伝承によれば、元禄16年10月20日、波来合の百姓半十郎、今平、文助が農作業中に、穴森の方からの鳴動を聞き、村中の者と神酒を供えたが、その夜松明をともし、穴の中をさぐると、一つの「しゃれこうべ」が発見されたそうです。これが相当古い蛇骨だとわかり、評議の上、江戸へ持参することになり、宝永2年3月21日、宮地御身分として、郡奉行吉田八郎兵衛という人が穴森へ来て、蛇骨を箱に収め拝殿を建てたそうです。

さて、この緒方家の始祖ともいえる大神家とは一体どこから来たのでしょうか? 山川出版社の「大分県の歴史」によると、今の大分県宇佐市にある宇佐八幡宮の宮司職をめぐって惟栄の先祖である大神氏と宇佐氏の勢力争いがあったようです。しかし天平神護2年(766)ごろに、宇佐氏が勢力を得て、大神氏は次第にその威勢を失い、豊後大野地域に下って土着勢力になったようです。

緒方三郎惟栄が、その兄弟たちと宇佐神宮の焼き討ち事件を起こしたのも、始祖である大神家からの宇佐氏に対する長年の恨みがあったのかもしれません。大神家または緒方家は、広大な豊後大野平野で大量の兵馬を生産・飼育し、祖母山系で採掘される銅や錫をもとに、次第に豪族として力をつけていったものと思われます。

宇佐氏は、神護景雲3年(769)に起きた、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)による有名な「宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)」によって、中央の朝廷と関係を深くし、平安中期以降は大神氏を圧倒しています。一方、大神氏は下級神官となりますが、その庶流は豊後南郡で独特の石仏文化を残しています。

また異説としては、中央の大和美和(三輪)氏が、 直接豊後国に降りてきて豊後大神氏の先祖になったともいわれているようです。この説が正しいとなると、三輪氏の一族である山城の大神氏は、楽器を扱う楽家で高麗楽である蘇志摩利などを伝授した氏族で、古代から朝鮮半島の軍事と外交を担当した氏族として古代朝鮮半島と深い関連のある氏族であったらしく、緒方家の祖先は渡来人という可能性もあります。

ちなみに幕末の蘭方医、緒方洪庵(1810-63)も、緒方三郎惟栄を始祖としています。洪庵は、備中(岡山県)足守(あしもり)の小さな藩の下級武士の子として生まれ、父親の任地である大坂で蘭学を学び、諸方に遊学し、29歳のとき、大阪で開業しています。町医のかたわら、自宅で蘭方を教え、塾の名を適塾と称しています。

塾生には、その後の歴史をになった人たちが多く、戊辰戦争時、新政府軍の軍事をになった大村益次郎や、幕府軍の指揮官になった大鳥圭介、明治の開明思想を代表した福沢諭吉などがいました。他に、門下第一等の秀才だった越前福井の橋本左内、明治になって日本赤十字社を興した佐野常民(つねたみ)、明治の医制を整備した長与専斎(せんさい)などがいます。

亡くなった俳優の緒形拳も緒方三郎惟栄を祖先としているようです。以前、息子の同じ俳優、緒形直人がNHKのある番組で緒方町を訪ねて、そう話しています。

そのほか歴史上の人物で緒方姓は、朝日新聞社副社長や自由党総裁、副総理をつとめた緒方竹虎がいます。その三男である緒方四十郎(元日本銀行理事)の妻が、国連で非常に困難な難民問題に取り組んだ緒方貞子氏です。しかしながら、緒方姓は竹虎の祖父・郁蔵(本姓大戸氏、備中(岡山県)出身)が緒方洪庵と義兄弟の盟を結びその姓を名乗らせたことに始まるようです。


緒方三郎惟栄館跡(大分県豊後大野市緒方町)

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しかしここで疑問が残るのは、緒方三郎惟栄の家紋は「三つ鱗」であり、当家の家紋の「上り藤」ではないということです。更に、以前より当家は平家の流れであると聞いており、平家に反旗を翻して討伐をした惟栄を先祖とするには、あまりにも矛盾するのではないかということです。

熊本県南部に位置する、「五木の子守唄」で有名な五木村から車一台がやっと通れるほどの道を北上すると、全国有数の秘境として知られる五家荘(ごかのしょう)があります。菅原道真の子息(嫡男)が藤原一族の追討を逃れて分住するようになった仁田尾(にたお)と樅木(もみき)という地区と、平清盛の孫の清経が壇ノ浦の合戦ののち住み着いたと言われる椎原(しいばる)、久連子(くれこ)、葉木(はぎ)という地区の5つから成るので五家荘と呼ばれます。


平家・緒方家の屋敷

平家落人伝説で有名なこの五家荘には、現在も緒方家の家が大切に保存されてあります。その説明板を読んでみると、

  文治元年(1185年)3月、平家の一族は壇ノ浦の戦いで源義経の船軍に敗れ全滅した。しかし、伝説によると彼等は全滅したように見せかけ、平家再興のため各地に四散し、落人となりそれが西国に於ける平家の隠れ里として発展したものである。

  平清盛の孫にあたる清経も壇ノ浦で戦死したようになっているが、実は落人となって人目をさけながら深山幽谷へと入って行ったのである。

 清経は壇ノ浦から、四国の伊予今治に至り、更に阿波国祖谷に行き、そこで一年過ごした。それより九州豊後鶴崎(現在の大分市)に上陸し、西へ進み湯布院に滞在中、豊後竹田領(現在の大分県竹田市)に住む緒方氏の要請により南下、竹田領にしばらく居住し姓を緒方と改名、肥後国白鳥山(泉町樅木)に住みついたと記されている。その後、清経の子孫緒方紀四郎盛行が、この地に住みつき代々椎原(しいばら)を支配した。

緒方家の建物は、約200年程前に建造されたものであるが、屋根は痛みがひどく住宅としての改造が進んでいたため、泉村で取得し、復元を図ったものである。

とあります。

平清経は、竹田領において緒方実国の娘を妻に迎えて緒方姓を名乗り、緒方一郎清国と改名し、建長2年(1250)からその4代目の子孫である緒方紀四郎盛行がここ椎原(しいばら)に住みついたようです。緒方紀四郎盛行の弟の近盛と実明がそれぞれ、五家荘の久連子(くれこ)と葉木(はぎ)を支配しました。

ちなみに、重税に耐えかねた農民を代表して、将軍に直訴して磔(はりつけ)刑に処せられた佐倉宗吾は、下総の国佐倉村に農民の神として祀られ、またその物語は義民伝と称して芝居や演劇で演じられていますが、この宗吾は、五家荘葉木の地頭緒方左衛門の二男として生まれたという伝説があって、その観光案内板も立ててあります。

宗吾は当時、叔父に当たる光全和尚が僧となって、下総の国に移住したので、この光全和尚を頼って、下総の国で暮らすようになったそうです。その後、下総の国印旛郡公津村36個村割元名主、木内家の養嗣となりました。五家荘葉木の緒方家では、宗吾の死後祠堂を建て、供養を続け現在に至っているそうです。

統計的に緒方姓は、大分県よりも熊本県に多く分布するそうで、当家は、やはりここ五家荘から拡がっていった平清盛直系の平家の末裔であるかもしれません。

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