織田信長に謀叛をおこした武将といえば荒木村重や本能寺で信長を討った明智光秀が有名ですが、松永弾正久秀(1510-77)もその壮絶な最期によって知られています。
信長によって「稀代の悪人」と評された久秀は、戦国の下克上を地でいった乱世の申し子ともいうべき武将です。その前歴も生国もはっきりしないのですが、阿波細川家の家老、三好長慶(ながよし)に仕え、奸計きわまる権謀術数を用いてまるで寄生虫のように内部から主家の三好家を滅ぼしていきます。
50歳を過ぎた頃、主君の長慶の子、義興(よしおき)を毒殺し、長慶が死ぬと三好家を乗っ取ります。その2年後には13代将軍足利義輝(よしてる)を清水寺で騙し討ちにし、傀儡将軍というべき足利義栄(よしひで)を14代将軍の座につけます。まさに節操なく貪欲に権力を求めた戦国時代の梟雄の一人といえます。
その後、三好家の反撃にあい、大和の多聞山(たもんやま)に城を築きます。よく城に天守閣を築かせたのは安土城の信長が最初といわれていますが、どうもそれより先にこの多聞山城に4層の天守を築いた久秀が最初のようです。
久秀がやった悪行のひとつに、三好家が本陣にしていた東大寺大仏殿の焼き討ちがあります。仏罰を恐れる家臣たちに、「木と唐金(からかね)でできた大仏殿を焼いたからといって、なんの罰があるものか」と言いのけたようです。比叡山延暦寺を焼き払った神仏をも恐れぬ魔王信長に通じるものがありますね。非常な合理主義者であったのかもしれません。
将軍義輝を殺害したあと幕府を牛耳っていた久秀は、信長が上洛すると意外とあっさりと従います。そして大事な宝物のひとつでもあった名器中の名器「九十九髪茄子(つくもがみなす)茶入」を信長に献上しています。身を斬られる想いだったのではないでしょうか。
戦国時代きっての悪人である彼も、その後は観念したのか人が変わったように従順に信長に仕え、朝倉義景討伐へ向かう途中、義弟浅井長政の裏切りによって絶体絶命に陥った信長を、みずから進んで朽木谷へ案内し無事京まで脱出させています。けわしく草深いけもの道を老体にむち打って懸命に道案内している久秀の姿が見えるようで一種の可笑しみを覚えます。
しかし久秀は信長にその後2回謀叛をおこしています。1度目は、1572年、武田信玄が上洛に向かっていると知るや、反旗を翻し2年ほど信長に敵対しますが、降伏後は珍しく許されています。裏切りものは絶対に許さない信長にとっては非常に珍しいですね。部下を道具としてみていた信長にとって久秀はまだまだこれからも使えると思ったのでしょうか。
2回目は、1577年、信長の命令で石山本願寺攻めをしている時、突然居城の信貴山(しぎさん)城に籠城し反旗を翻します。信長の嫡男の信忠軍に包囲されて観念したのか、落城直前、信長が欲しがっていた「平蜘蛛の釜」を首に下げて火薬を点じて爆死します。信長に対する老人最期の抵抗だったのかもしれません。自らの白髪首同様、名器である「平蜘蛛」を、こっぱ微塵に爆発させたというのは面白いですね。
また爆死ではなく切腹したとの説もあるようです。中風の発作があった彼は切腹の途中で乱れては武名に傷がつくと思い、家臣に頭のてっぺんに灸を据えさせ、腹を十文字にかき切って自害したともいわれています。しかし久秀の最期は爆死のほうが相応しいように思いますね。はからずも命日の10月10日は、ちょうど10年まえ東大寺大仏殿を焼き払った日だったそうです。
またモノの本によると、熱烈な日蓮宗の信者であった久秀はキリシタンを極端に嫌い、布教を許した信長にも不満があり、バテレンの教えが広まると国が滅びると進言しています。信長の軍門にくだる以前には、京にいた宣教師のところに自分の腹心の学者を派遣し、キリスト教の教義を詰問させ宗教争論をさせています。
ところがこの学者たちが逆にキリスト教に心酔してしまい、彼のキリシタン嫌いはエスカレートしたようです。しかし興味深いことに宣教師のルイス・フロイスは久秀のことを、「知識にすぐれ、賢明で、統治の才能を備えている」とべた褒めしているのですから面白いものです。
そんな悪名高い久秀も意外な側面があったようです。茶の湯や連歌をよくする風流人であったようで、孫の松永貞徳(ていとく)は和歌と連歌を学び、秀吉の祐筆を務めていますし、その後は次第に歌人としての才能を発揮して、江戸時代には俳諧を志して、一派をなしています。久秀の血をよく受け継いでいるようです。
また生前久秀は、125歳まで生きると公言していたらしく、1年の寿命といわれる鈴虫をどこまで生き長らえさせるか実験をし、なんと3年も生きたことから、人間も養生しだいで長生きできると信じていたようです。この点、みずから薬草を調合していて健康に留意していた家康に似たようなところです。
久秀について調べていて一番面白いと思ったのは、緻密なSEXのハウツー本を残していることです。その解説書は微に入り細にいるもので、家臣に対するその指導書によると、SEXをしてはいけない日時や場所を非常に詳しくあげています。
たとえば台風や風雨の激しい天候が荒れている日や暦の上での特別な日、または神聖な神社仏閣ではもってのほか、野外や井戸・トイレのそばもダメ。また、憂鬱で落ち込んでいるような時、疲れている時、怒りで逆上している時、飲み過ぎでお腹の調子がよくない時、病み上がりなどの体調の優れない時には絶対にしてはいけないと列挙しています。
またご丁寧にも、こんなSEXをすると病気になるぞとか、こんな女性とはしてはいけないとか、日時や場所、体調、しかるべき相手など、事細かに徹底した指導をしています。どうも飲食と同様、SEXが養生の決め手であると考えていたようです。久秀の家紋は「蔦(つた)」ですが、地をツタわってはびこる子孫繁栄のめでたい紋であることもそれにつながっているのかもしれません。
極悪非道でありながら数寄をこよなく愛し、凝り性で健康オタクといった多面的な性格をもった武将だったようです。