ご先祖さまの緒方三郎惟栄(これよし)(惟義とも書く)(生没年不詳)は、12世紀末ごろの源平争乱期に活躍した武将です。もとは宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官だったようです。荘官は、いわゆる地方豪族で、現場にいて土地を管理し、年貢を徴収し、警察事務を担当していました。緒方庄は、現在の大分県豊後大野市緒方町一帯であったと思われます。宇佐神宮は、同じ大分県宇佐市にある、全国に約44,000社ある八幡宮の総本社です。
緒方三郎惟栄は、豊後大神(おおが)氏の流れをくむ豊後国37氏の姓祖といわれています。もともとは大神惟栄と名乗っていたようですが、大野荘緒方郷に荘官として住み始め、武士化して緒方氏を称したようです。豊後大神一族は、そのほかに大野氏、阿南氏、臼杵氏などが台頭していましたが、緒方氏はその中でも豊後大神武士団を統率する中心的役割を担っていたようです。
もともと惟栄は、平清盛の嫡男、重盛と主従関係を結んでいた家人でした。「平家物語」にも、「かの惟義(惟栄)は小松殿の御家人也」とあることから、平重盛に属していたことがわかります。しかしながら、治承4年(1180)に源頼朝が挙兵すると、飢饉や疫病などが蔓延し乱れていた世を憂い、翌年突如、平家に反旗を翻し、豊後国の目代(平家の代官)を追放しています。おそらく義侠心の篤い武将だったようで、時勢を見る鋭い眼をもっていたとも思われます。
この平家に対する謀反は、源平盛衰記や吾妻鏡にも「治承五年の事」として記述があり、宇佐神宮大宮司「公通」より六波羅に宛てた書状に、「・・・九国住人、菊地次郎高直、原田大夫種直、緒方三郎惟義(惟栄)、臼杵、部槻(戸次)、松浦党を始として、謀反を発し・・・」とあるようです。
これら平家に叛いた九州武士団の中でも中心的な勢力だった惟栄は、豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受けると、清原氏、日田氏などの力を借りて平家を大宰府から追い落としています。このときの惟栄の軍勢は3万余騎であったといわれています。また、荘園領主の宇佐神宮大宮司家の宇佐氏が平家方についたため、宇佐神宮の焼き討ちも行っています。このあたりは、東大寺を焼き討ちした戦国武将松永久秀や、比叡山延暦寺を焼き尽くした織田信長に通じる、神仏を恐れず果敢に行動するリアリストだったように思われます。
この宇佐神宮焼き討ちは、元暦元年7月6日(1184)、緒方三郎惟栄、臼杵二郎惟隆、佐賀四郎惟憲の兄弟で行っています。宇佐大宮司「公通」から緒方庄の上分米の上納を怠ったと問責されたことに端を発し、これまでの平家支配に対して溜まっていた憤懣(ふんまん)によってひき起こされたともいわれています。
「吾妻鏡」には、「・・・武士乱入の間、堂塔を壊して薪となし、仏像を破って宝を求め、眉間を打破して白玉取り、御身を烈穿して黄金を伺い、其の間狼藉筆端に尽くし難し・・・」と兄弟の狼藉ぶりを伝えています。惟栄は、この宇佐神宮焼き討ちにより、上野国沼田(現群馬県沼田市)への遠流の罪を受けますが、平家討伐の功によって赦免されています。
元暦元年11月には、西国平家追討の総大将、源範頼に兵糧や兵船82艘を提供し、葦屋浦(あしやうら)の戦いでは平家軍を打ち破っています。周防国にいて九州へ渡る船もなく進退に窮していた範頼に兵船を献上したことからも、惟栄が豊後の水軍を支配していたことがうかがえます。その後の源氏による九州統治が進んだのも、緒方一族の平家からの寝返りが貢献しているといえます。
また惟栄は、源義経が兄頼朝に背反した際、義経に加担し西国武士団を糾合して再起するため、ともに摂津大物浦(だいもつうら)(兵庫県尼崎市)から船で九州への逃避を企てています。後白河院は惟栄を院中に召して義経の護衛と先導を命じています。しかしながら一行の船は、途中、嵐に会い、離ればなれになってしまい難破、義経の船は住吉の浦(大阪市)に打ち上げられ、すべての女房を捨てて吉野山に逃げ入っています。惟栄は捕らえられて上野国沼田(群馬県沼田市)へ流罪となっています。
緒方三郎惟栄に助勢を頼む義経 |
その後の惟栄の消息は定かではありません。罪を許されて佐伯(大分県佐伯市)に帰ったとも、帰途のうちに病死したとも伝えられています。一説によると、建久6年(1199)に57歳で没したともいわれています。岡城(大分県竹田市)を築城したのは、義経をかくまうためだったといわれていますが、異論をもつ歴史家もいるようです。岡城は、かの滝廉太郎が名曲「荒城の月」の曲想を得たといわれる難攻不落の城として知られています。
処罰の対象になったのは、あくまで惟栄やその親族であったようです。直系以外のそのほかの系流である緒方一族は、その後も豊後南部の有力国人として残り、大友氏や藤堂氏に仕えています。平家討伐に多大なる貢献をし、九州において大勢力を誇った緒方氏が、その後は次第にその威勢を失っていったのも、義経を支えたことが裏目に出てしまい、源氏に対して反旗を翻すかもしれないという頼朝の強い猜疑心の結果であるかもしれません。
大分県には以下のような「緒方三郎惟栄(これよし)始祖伝説」があります。
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昔、豊後の国清川村宇田枝というところに、大太夫という豪族が住んでいた。
大太夫には花御本(はなのおもと)というひとりの姫があった。たいそううつくしい姫で、国じゅう見まわしても肩をならべるものはなかろうと、うわさされる程であった。
大太夫のいつくしみようはたいへんなもので、「姫よ、姫よ……。」と、いつもかたわらにおいてかわいがっていた。
姫のうわさを聞いて、おおくの若者たちが、わたしこそ姫のむこにと、もうしでてくるのだが、そのたびに大太夫は、「わが家より家の格がたかいものでなけれは、むこにはできない……。」と、ことわりつづけていた。そして、大太夫は、やかたのうしろにりっばな家をつくって守りのものをつけ、そこに姫をすまわせて、いつも気配りをおこたらなかった。
このため若者たちは、だれひとりとして姫のもとにかようこともできず、ただとおくからその美しい姿をながめては、ためいきをつくばかりだった。
春がすぎ、夏もすぎたが、姫には、誰一人心をうちあけるものがおらん。ある秋の夜、姫がひとりものおもいにふけっていると、どこからともなく、立烏帽子 (むかし、公家や武士がかぶった帽子) に水色の狩衣をつけた若者があらわれた。どう見ても、田舎にすむものとはおもえない、上品なすがたをしている。
若者は、花御本のそばにちかづくと、やさしく声をかけた。
「姫よ、なにもこわがることはない……。」
そして、姫の肩に手をまわした。姫は、なすすべも知らず、ただただ、からだをかたくするばかりだった。
やがて夜もふけ、いつのまにか若者はかえっていった。姫は、いったいどこのだれだろうと思案しながらも、いつかまた、あの若者がたずねてくれることを心まちしていた。
若者は、つぎの夜もやってきた。さく夜とちがい、姫も笑顔でむかえた。若者とかたらっていると、夜のふけるのもわすれた。姫の心は、いつのまにか若者にかたむき、気がついたときには、若者のむねに抱かれていた。
それからは、雨がふろうが、風がつよかろうが、若者はまい晩かよってきた。姫も若者の来るのを楽しみに待つようになっていた。
姫は、このことを大太夫やまわりの人にかくしていたが、なにしろまい夜のことなので、姫につかえていた女たちから見とがめられ、ついに大太夫の知るところとなった。
そこで、大太夫は姫をよび、「姫よ、おまえのもとにまい晩まい晩やってくる若者は、いったいどこの誰じゃ。」と、とうてみたが、姫はなかなかこたえようとしなかった。そこで大太夫は、さらにきびしくといつめた。
すると、姫は、「どこのどなたか、おたずねしても、いっこうに名をあかしてくださいません。ただ、身なりからして、よほどのおかたとお見うけしております。あのかたがおいでになるのは夕ぐれですが、いつお帰りになるのか、わかりません。わたしが目をさましたときには、もう、お姿が見えないのでございます。」
と、ようやくありのままをうちあけた。
その話をきいて、大太夫はかんがえた。(大宰府の近くでもあれば、都の身分の高いお方とおもってよかろうが、ここはかた田舎じゃ。わけがわからん。しかし、狩衣に烏帽子すがたとは、おそらく家柄のよい若者であろう。姫のむこにしてもよさそうじや……。)
だが、若者がどこの誰ともわからんのでは、縁談のすすめようもない。大太夫は、若者の身もとをつきとめる方法はないものかと、思案にくれた。
やがて大太夫は、若者が夕方やってきて、明け方ちかくに帰るということなので、なにか印をつけて、その行方をたずねようとおもいついた。そこで姫に、おだまき(糸まき)と針を「姫よ、今夜その若者がたずねてきたら、気づかれないように、このおだまきの糸に針をつけて、狩衣のすそに刺し通しておくように。」と、おしえて、姫をやかたにかえした。
その夜、またどこからともなく、いつもの若者がやってきた。身分はあかさないが、高貴なお方らしいことは、そのものごしや、ことばづかいからもうかがえた。
「あなたさまは、どこのどなたです。お名まえなりと、お教えくださいまし。」姫は、できることなら狩衣のすそに針を刺したりしたくなかったので、懸命にたのんでみたが、「わけあって、あかすことはできぬ。」と、若者はロをとざしてしまうのだった。
姫はしかたなく、大太夫からおしえられたとおり、若者に気づかれないよう、そっと狩衣に針を刺しておいた。
朝になって目をさました姫は、若者の姿をさがしたが、いつものようにその姿はどこにも見あたらなかった。
姫は、さっそくそのことを大太夫に知らせた。大太夫は、「この糸をたどっていけは、その若者のすまいをつきとめることができる。さあ、跡を追ってみよう。」と、姫や、共の物をつれて、糸をたよりに若者の跡を追った。おだまきの糸は長く伸び、山をわたっていくうち、日向の国(いまの宮崎県)と豊後の国のさかいにある姥岳のおくの、見あげるはかりの大きな岩屋の中にひきこまれていた。
あなのいり口に立って耳をそばだてると、痛みにうめくような声がきこえてきた。その声は、身の毛もよだつような恐ろしいうめき声だった。姫は大太夫のいうとおりに、あなのいりロに立って、「わたくしは花御本でございます。あなたさまをしたってまいりました。どうぞ、お姿を見せてください。」
といった。
すると、あなの中から、「もはや、それはできぬ。じつは今朝ほど、おとがい(したあご)の下に針をたてられ、ひどい傷を受けている。わたしの本身は、おそろしい大蛇だ。人の姿をしているときなら、外にでて見せてもよいが、人の姿にかえる力もすでになくなった。しかし、なごりおしいし、恋しい……。よくぞ、この山奥までたずねてきてくださった。」と、声があった。
花御本は、「たとえどのようなお姿であろうとも、日ごろの情は忘れません。お姿をひと目見たいと、はるばるたずねてまいりました。どうか、お姿をお見せください。」と、頼んだ。すると、しばらくして、「そうまでいわれるのなら、わたしの姿をごらんにいれよう。おどろかれるな……。」といいながら、大蛇は、あなからはいだしてきた。だが、おそろしい姿には似ず、目には涙をうかべ、頭をさしのべてきた。姫は衣をぬいで頭にかけてやり、おとがいの下の針をそうっと抜いてやった。
喜んだ大蛇は、「姫よ、あなたのお腹の中には、男の子が宿っている。その子が成長したあかつきには、九州では並ぶもののない武将となろう。おそろしいものの子であるからといって、けっして粗末にされるな。わたしが子孫の末までも、お守りいたそう。」
それを最後のことばに、大蛇はあなにもどって息たえてしまった。この大蛇こそ、姥岳大明神の化身だった。
やがて、姫は玉のような男の子を生んだ。大太夫は、この子に大太と名をつけた。 大太は、はだしで野山を走り回り、足にはつねにあかぎれがきれていたので、皹童(くんどう)ともよばれ、若者となってからは、輝大弥太(あかがりだいやた)ともいわれた。
大弥太(だいやた)は成人して、大神惟基(おおがこれもと)という九州一の勇者となった。
大弥太の子に、大弥次、その子に大六、その子に大七、その子に尾方(緒方)、三郎惟義(惟栄これよし)が生まれた。大太から五代めである。
このように、大神惟基の子孫は、のちにこの地をおさめる豪族緒方氏となった。
この緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)は、緒方を中心とする大野地方に本拠をかまえ、源頼朝と仲違いをしていた弟の義経を迎えるため竹田に岡城を築城し一時は豊後一円から九州各地に勢力をふるった豊後武士団の頭領となった。
緒方三郎は、ヘビの子の末をついだということだろうか、背にヘビの尾とうろこの形のあざがあったといわれている。だから緒方(尾形)というのだと。
偕成社発行 大分県の民話より
この伝説は、鎌倉時代に成立したと思われる、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」という冒頭部分で有名な「平家物語」の第八巻「緒環(おだまき)」にも出ています。以下に歴史小説家吉村昭の訳を載せます。
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惟義は、恐ろしい者の子孫であった。
むかし、豊後の国の山村に、ひとりの女がいた。まだ結婚していなかったが、男が毎晩通ってきて、月日がたつうちに妊娠した。
母はあやしんで、
「おまえのもとに通ってくるのは何者か。」
とたずねたが、
「くるときは姿を見ますが、帰るときは見たことがありません。」
と答えた。
「それなら、男が帰るときにしるしをつけ、ゆく先をつけてみよ。」
娘は、母のいうとおりに、朝、帰る男の水色の狩衣(かりぎぬ)の襟の部分に針をさして糸をつけ、男が去った後、その糸をたどっていった。
すると、日向(ひゅうが)の国との国境にある優婆岳(うばだけ)という山のふもとにある大きな岩屋の中に糸がはいっていた。
女が岩屋の入り口にたたずんで中の気配をうかがうと、大きなうなり声がする」
「わたしはここにきています。お会いした。」
女が声をかけると、
「わたしは、人間の姿をしていない。おまえがわたしの姿を見れば肝をつぶすだろう。すぐに帰れ。おまえがみごもった子は男子であるはずだ。武器をとれば九州、壱岐、対馬にならぶものがない勇者になる。」
という声がした。
女は、かさねて、
「たとえどのようなお姿であろうと、これまで愛しあってきたことをどうしてわすれられましょう。姿を見せてください。お願いです。」
とたのんだので、
「それでは。」
という声がし、岩屋の中から、とぐろをまいても五、六尺、全長は十四、五丈もあろうかと思える大蛇が、身をくねらせてはいでてきた。
狩衣の襟にさしたと思った針は、大蛇ののどに突きささっていた。
女は、この姿を見て仰天し、ひきつれていた供の者十余人もうろたえてたおれ、悲鳴をあげて逃げた。
この大蛇は、日向の国で尊崇されている高知尾神社(たかちおじんじゃ)のご神体であった。
女は、帰ってまもなく男の子を産んだ。
母方の祖父の太大夫(だいたゆう)がそだてたが、まだ十歳にもみたないのに背たけが高く、顔は長かった。
七歳で元服(げんぷく)させ、祖父の太大夫という名からとって、この子を大太(だいた)と名づけた。
大太は、夏も冬も手足に大きなあかぎれがいつもできていたので、あかがり(あかぎれ)大太とよばれた。
緒方の三郎惟義は、あかがり大太の五代目の子孫であったのである。
惟義は代官の頼経(注参照)の命令を法皇の命令だとして、九州、壱岐、対馬にまわし文をまわしたので、おもだった武士たちはすべて惟義にしたがいついた。
注: 豊後の国を支配していた刑部卿三位頼輔(ぎょうぶきょうざんみよりすけ)の子で代官。都にいる法皇から「平家は、神々に見はなされ、法皇にもすてられて都から海上にただよう落人(おちうど)となった。それなのに九州の者たちが、それをうけいれてもてなしているのは、まことにけしからん。おまえの国は平家にしたがってはならぬ。全員一致して平家を追いだせ。」という命令がつたえられた。頼経は、この命令にしたがって、豊後の国の住人緒方の三郎惟義に平家追いだしを命じている。
姥岳大明神の本当の姿を見て恐れる花御本姫 『平家物語絵巻』 (岡山市 林原美術館蔵) |
また源平盛衰記は、「惟義(惟栄)と云うは、大蛇の末なりければ、身健に心も剛にして、九国をも打ち随へ、西国の大将軍せんと思う程のおほけなき者なり」と書かれてあります。
古事記の崇神天皇の条に、似たような伝説(三輪山伝説)があるそうです。しかしこの伝説によると、娘が辿って行きついた先は大和のくにの三輪山であり、そこにいた「謎の男」は、大物主神という、神武天皇が大和に入る前から、三輪山を中心に信仰されていた国つ神です。
大物主神は、出雲神話の大国主神(おおくにぬしのみこと)の異名であるともいわれていて、出雲の国の神が、神武天皇の大和入り以前から、この地において信仰されていたと考えられます。「緒方三郎惟栄(これよし)始祖伝説」は、惟栄の武勇を強調するために、この三輪山伝説を用いたとも考えられます。
ところで、緒方三郎惟栄の祖先神である大蛇(姥岳山(祖母山)の山神の化身)と情を交わした始祖・大神惟基の母、「花御本姫」を祭神として祀る神社が、豊後大野市清川村にあるそうです。緒方家にとっては、「花御本姫」は「アダムとイブ」のイブのような存在といえます。その神社の名を「宇田姫神社」といい、神社正面の左手には洞窟があり、遠く姥岳に通じているといわれています。
花御本姫は、ちょうどこの神社のあたりに住んでいたのでしょう。この宇田姫神社から南東へ400メートルほどの所には大神惟基が出生したと伝わる萩塚もあるようです。惟基の母である花御本姫が出産するときに萩を敷いたといわれているようです。
この萩塚は地元の人たちに「萩塚様」と呼ばれ、産婦が産気づくと、こちらの萩塚様から萩枝をもらい、家に帰って敷いて頭を当てたりすると無事に出産できると伝わるようです。出産後にはその萩塚様に返して感謝のお礼参りをするようです。
さらに、「アダムとイブ」のアダムにあたる大神惟基の父「大蛇」が住んでいたと伝わる神社もあります。豊後大野市の隣に位置する竹田市大字神原にその神社はあり、「穴森神社」というそうです。まさにこの神社が豊後大神氏の聖地といっても過言ではありません。
鳥居を抜けて拝殿の奥には、やはり岩穴があるそうです。その岩穴は驚くほど大きく、姥岳山の大明神の化身である大蛇が住んでいたのは、この岩穴のようです。つまりこの岩穴が御神体となっており、喉笛を針に刺されて泣き叫び苦しんでいる大蛇がいまにも這い出てくるような真昼でも薄暗い場所のようです。まさに平家物語絵巻の「緒環(おだまき)」の描かれた場所です。
この地域の伝承によれば、元禄16年10月20日、波来合の百姓半十郎、今平、文助が農作業中に、穴森の方からの鳴動を聞き、村中の者と神酒を供えたが、その夜松明をともし、穴の中をさぐると、一つの「しゃれこうべ」が発見されたそうです。これが相当古い蛇骨だとわかり、評議の上、江戸へ持参することになり、宝永2年3月21日、宮地御身分として、郡奉行吉田八郎兵衛という人が穴森へ来て、蛇骨を箱に収め拝殿を建てたそうです。
さて、この緒方家の始祖ともいえる大神家とは一体どこから来たのでしょうか? 山川出版社の「大分県の歴史」によると、今の大分県宇佐市にある宇佐八幡宮の宮司職をめぐって惟栄の先祖である大神氏と宇佐氏の勢力争いがあったようです。しかし天平神護2年(766)ごろに、宇佐氏が勢力を得て、大神氏は次第にその威勢を失い、豊後大野地域に下って土着勢力になったようです。
緒方三郎惟栄が、その兄弟たちと宇佐神宮の焼き討ち事件を起こしたのも、始祖である大神家からの宇佐氏に対する長年の恨みがあったのかもしれません。大神家または緒方家は、広大な豊後大野平野で大量の兵馬を生産・飼育し、祖母山系で採掘される銅や錫をもとに、次第に豪族として力をつけていったものと思われます。
宇佐氏は、神護景雲3年(769)に起きた、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)による有名な「宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)」によって、中央の朝廷と関係を深くし、平安中期以降は大神氏を圧倒しています。一方、大神氏は下級神官となりますが、その庶流は豊後南郡で独特の石仏文化を残しています。
また異説としては、中央の大和美和(三輪)氏が、 直接豊後国に降りてきて豊後大神氏の先祖になったともいわれているようです。この説が正しいとなると、三輪氏の一族である山城の大神氏は、楽器を扱う楽家で高麗楽である蘇志摩利などを伝授した氏族で、古代から朝鮮半島の軍事と外交を担当した氏族として古代朝鮮半島と深い関連のある氏族であったらしく、緒方家の祖先は渡来人という可能性もあります。
ちなみに幕末の蘭方医、緒方洪庵(1810-63)も、緒方三郎惟栄を始祖としています。洪庵は、備中(岡山県)足守(あしもり)の小さな藩の下級武士の子として生まれ、父親の任地である大坂で蘭学を学び、諸方に遊学し、29歳のとき、大阪で開業しています。町医のかたわら、自宅で蘭方を教え、塾の名を適塾と称しています。
塾生には、その後の歴史をになった人たちが多く、戊辰戦争時、新政府軍の軍事をになった大村益次郎や、幕府軍の指揮官になった大鳥圭介、明治の開明思想を代表した福沢諭吉などがいました。他に、門下第一等の秀才だった越前福井の橋本左内、明治になって日本赤十字社を興した佐野常民(つねたみ)、明治の医制を整備した長与専斎(せんさい)などがいます。
亡くなった俳優の緒形拳も緒方三郎惟栄を祖先としているようです。以前、息子の同じ俳優、緒形直人がNHKのある番組で緒方町を訪ねて、そう話しています。
そのほか歴史上の人物で緒方姓は、朝日新聞社副社長や自由党総裁、副総理をつとめた緒方竹虎がいます。その三男である緒方四十郎(元日本銀行理事)の妻が、国連で非常に困難な難民問題に取り組んだ緒方貞子氏です。しかしながら、緒方姓は竹虎の祖父・郁蔵(本姓大戸氏、備中(岡山県)出身)が緒方洪庵と義兄弟の盟を結びその姓を名乗らせたことに始まるようです。
緒方三郎惟栄館跡(大分県豊後大野市緒方町) |
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しかしここで疑問が残るのは、緒方三郎惟栄の家紋は「三つ鱗」であり、当家の家紋の「上り藤」ではないということです。更に、以前より当家は平家の流れであると聞いており、平家に反旗を翻して討伐をした惟栄を先祖とするには、あまりにも矛盾するのではないかということです。
熊本県南部に位置する、「五木の子守唄」で有名な五木村から車一台がやっと通れるほどの道を北上すると、全国有数の秘境として知られる五家荘(ごかのしょう)があります。菅原道真の子息(嫡男)が藤原一族の追討を逃れて分住するようになった仁田尾(にたお)と樅木(もみき)という地区と、平清盛の孫の清経が壇ノ浦の合戦ののち住み着いたと言われる椎原(しいばる)、久連子(くれこ)、葉木(はぎ)という地区の5つから成るので五家荘と呼ばれます。
平家・緒方家の屋敷 |
平家落人伝説で有名なこの五家荘には、現在も緒方家の家が大切に保存されてあります。その説明板を読んでみると、
文治元年(1185年)3月、平家の一族は壇ノ浦の戦いで源義経の船軍に敗れ全滅した。しかし、伝説によると彼等は全滅したように見せかけ、平家再興のため各地に四散し、落人となりそれが西国に於ける平家の隠れ里として発展したものである。
平清盛の孫にあたる清経も壇ノ浦で戦死したようになっているが、実は落人となって人目をさけながら深山幽谷へと入って行ったのである。
清経は壇ノ浦から、四国の伊予今治に至り、更に阿波国祖谷に行き、そこで一年過ごした。それより九州豊後鶴崎(現在の大分市)に上陸し、西へ進み湯布院に滞在中、豊後竹田領(現在の大分県竹田市)に住む緒方氏の要請により南下、竹田領にしばらく居住し姓を緒方と改名、肥後国白鳥山(泉町樅木)に住みついたと記されている。その後、清経の子孫緒方紀四郎盛行が、この地に住みつき代々椎原(しいばら)を支配した。
緒方家の建物は、約200年程前に建造されたものであるが、屋根は痛みがひどく住宅としての改造が進んでいたため、泉村で取得し、復元を図ったものである。
とあります。
平清経は、竹田領において緒方実国の娘を妻に迎えて緒方姓を名乗り、緒方一郎清国と改名し、建長2年(1250)からその4代目の子孫である緒方紀四郎盛行がここ椎原(しいばら)に住みついたようです。緒方紀四郎盛行の弟の近盛と実明がそれぞれ、五家荘の久連子(くれこ)と葉木(はぎ)を支配しました。
ちなみに、重税に耐えかねた農民を代表して、将軍に直訴して磔(はりつけ)刑に処せられた佐倉宗吾は、下総の国佐倉村に農民の神として祀られ、またその物語は義民伝と称して芝居や演劇で演じられていますが、この宗吾は、五家荘葉木の地頭緒方左衛門の二男として生まれたという伝説があって、その観光案内板も立ててあります。
宗吾は当時、叔父に当たる光全和尚が僧となって、下総の国に移住したので、この光全和尚を頼って、下総の国で暮らすようになったそうです。その後、下総の国印旛郡公津村36個村割元名主、木内家の養嗣となりました。五家荘葉木の緒方家では、宗吾の死後祠堂を建て、供養を続け現在に至っているそうです。
統計的に緒方姓は、大分県よりも熊本県に多く分布するそうで、当家は、やはりここ五家荘から拡がっていった平清盛直系の平家の末裔であるかもしれません。
6 件のコメント:
ご先祖様関係の事をググっておりまして偶然ブログを拝見しました。我が家は三郎さんの時代からず〜っと長男には『惟』の字がつき続けておりましたが、義父がブチ切れ(人に説明するのが面倒)自分の代で『惟』をやめてしまいました。何百年続いていたにもかかわらず。。。
緒方家のルーツというページをたまたま見つけて投稿させていただきました。
我が尾形家にも伝承が残っています。
(1)先祖は尾形三郎惟義
(2)大神家・三輪家に通ずる
(3)住人を困らせていた大蛇を退治。体に蛇の鱗がついた?ことからミツウロコの家紋とした。
(4)苗字を『蛇の尾の形』の尾形に変えた。
(5)鎌倉期に没落し、江戸期は和歌山の浅野藩に仕えた。
(6)福島正則の改易に伴い、広島藩に転封。
(7)幕末まで広島藩浅野家に仕え、廃藩置県に伴い城下に土地を頂き現在に至る。
江戸期に使用していた刀・袴などが家紋付きで残っています。
屋敷の門に付いていた士族の表札や家系図は原爆で焼失しました。
家紋は『丸に三つ鱗』です。
あなたのブログのお陰で、先祖の事を再度調べたくなってきました。
熊本南部の緒方、尾方さんは平家の直系だと高祖父から聞いた事あります。
熊本南部の尾方です。初めて知る事ばかりで…近所の人ほぼ尾方です。皆、平家繋がりと言うことでしょうかねぇ…勉強になりました✨
緒方
はじめまして。私も緒方です。同じ姓を共有する人たちの間で三郎惟栄伝説を共有しているのは素晴らしいことだと思います。
しかしここまで詳しい話は耳にしていなかったので勉強になります。ありがとうございます。
先にコメントされた方が書かれていたように、我が家でも長男には惟の字を付けることになっていたのですが、字を人に説明するのが面倒ということで父の代で終わりました。
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