― 鎮西宇都宮佐田氏系図 ―
佐田氏の始祖は、15世紀の室町時代に活躍した武将、佐田親景(ちかかげ)とおもわれます。佐田氏は、下野(しもつけ)(現 栃木県)の国司を務め、鬼怒川(当時は毛野川)流域一帯を治めた大身、宇都宮氏の流れをくんでいます。
宇都宮氏は、もともと石山寺(一説には大谷寺)の座主であった藤原宗円を祖とし、源頼朝から「坂東一の弓取り」と絶賛された、宗円の孫の朝綱(ともつな)より宇都宮氏を称しているようです。有力な鎌倉御家人だったようです。
その後、嫡流の宇都宮氏より庶流の豊前宇都宮氏(城井氏)、伊予宇都宮氏、さらに筑後宇都宮氏(蒲池氏)へと分家したようです。佐田氏の祖である佐田親景(ちかかげ)は、豊前宇都宮氏(城井氏)の流れをくんでいます。つまり、朝綱(ともつな)の嫡男である宗綱が宇都宮氏を引き継ぎ、その弟である宗房の嫡男信房が豊前国に地頭職を賜って、中津郡城井に居住し、鎮西宇都宮氏の始祖となっています。
信房のあと、景房、信景と続き、正応3年(1290)、信景の嫡男、通房が幕府より足立五郎左衛門大尉遠氏の知行地である宇佐郡佐田荘(現 大分県宇佐市安心院町(あじむちょう)佐田)を地頭職として代わりに領するよう命じられています。
建武3年(1336)には、その通房の孫(息子頼房の第5子)である公景は、足利尊氏の軍事指揮下に属しています。公景は、初代九州探題、一色道猷を支えた有力武将の一人であったようです。九州において威勢を誇っていたことがうかがえます。
しかしながら公景は文和3年(1354)に戦死し、公景のあとの経景も筑後国山崎で戦死しています。ときの九州探題、今川了俊は経景の子息親景に対し、跡目相続を安堵しましたが、経景の弟氏治(親景の叔父)が佐田の所領・所職を押領してしまいました。しかし応永7年(1400)、そのときの九州探題、澁川満頼が親景を薩摩守に推挙し、本領を安堵しています。
この宇都宮親景が、佐田氏の始祖です。親景の通称は因幡(いなば)次郎で、法名は昌節となっています。親景は、応永6年(1399)、標高300メートルほどの佐田荘青山に佐田城(地元では青山城と呼ばれているようです)を築き、豊前城井(きい)郷菅迫より移住し、宇都宮を改めて佐田姓を称し、名を佐田親景としています。ちなみに佐田の語源は、狭田、小田からきているといわれ、また、陸と海を限定する岬からきているともいわれます。
佐田城址には、いまでも土塁、空堀、土橋、一部石垣が残っているようです。尾根を巧みに利用した大規模な山城だったようです。佐田には、大分県の有形文化財として指定されている佐田郷の総鎮守社、佐田神社もあるようです。
佐田城への登山口に設置されてある「案内板」には、以下のように記されています。
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【佐田城(別名青山城)と佐田氏】
標高約300mの青山を主体として、そこから派生する尾根や尾根先端部に土塁・空堀・曲輪等の城郭遺構が東西1000m・南北600mにわたり、良好に残っています。
応永6年(1399)佐田親景(ちかかげ)が城井(きい)谷菅迫(現 福岡県みやこ町犀川城井)から佐田青山に移って築城したといわれています。
佐田氏は、有力な鎌倉御家人である宇都宮系城井氏の分家です。九州探題が九州に下向する場合は必ず宇都宮氏に強力を要請しています。
この地は豊前国と豊後国の境界に位置しているため、大内・大友両氏の抗争の舞台となっています。佐田氏は、大内氏支配の時には宇佐郡代に任命されています。天正15年(1587)黒田孝高(よしたか)(如水)が豊前6郡を支配すると、大友氏を頼って豊後へ赴いています。しかし、文禄2年(1593)に大友氏が豊後国から去るにあたり佐田に戻り、元和元年(1615)には細川氏の家臣となり、熊本転封に同行しています。
宇佐市教育委員会
佐田地区の歴史を考える会
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大分県宇佐市安心院町(あじむちょう)佐田 |
佐田氏は、もともと宇都宮氏と同族であるため、周防の大内氏に従っていたようです。その後、大内氏が豊前国を領するようになると、もっとも有力な佐田氏は宇佐郡代に任じられています。資料によると、享徳3年(1454)に佐田盛景、延徳4年(1492)俊景、永正15年(1518)泰景、大永6年(1526)朝景、天文19年(1550)には隆居(たかおき)がそれぞれ郡代だったことが確認できるようです。
宇佐郡代の職務は、宇佐宮寺の造営用材木の採用や社納人足の催促、訴論地の打ち渡し、宇佐宮諸職の打ち渡し、直轄領違乱に対する成敗などから、宇佐宮造営・諸神事の奉行などであったようです。また、この地域は豊前・豊後の境界に近く、大内・大友両氏による抗争の舞台ともなり、大友軍はしばしば佐田氏を攻撃しているようです。
明応7年(1498)には、大友氏(親治)は佐田泰景を攻撃し、泰景は父俊景とともに菩提寺に立て篭り奮戦し、翌年10月には、宇佐郡院内衆とともに妙見岳城で大友軍に抗戦しています。天文3年(1534)には、大内義隆は豊前方面から豊後を突こうとして進出し、これに対して大友義鑑は大友方の佐田朝景を攻撃しています。この年に「勢場ケ原の合戦」が起こり、佐田氏が活躍したようです。
その後、大内氏は陶晴賢(すえはるたか)の謀反により没落すると、弘治2年(1556)、大友義鎮が豊前制覇のため宇佐郡に進出し、翌年、宇佐郡衆は豊後大内氏に従うようになったようです。このころの佐田氏の被官として、佐田一族をはじめ、加来・永松・高並・平群・小田氏等がいたようです。
大内氏から大友氏へ仕えるようになると、とくに佐田家14代弾正忠佐田隆居(たかおき)は、宇佐郡衆の中心的存在として、大友軍に属して各地に転戦して活躍しています。この隆居と息子の15代弾正忠佐田鎮綱(しげつな)は、大友宗麟・義鎮父子の信頼も厚かったようです。隆居の嫡男は大友義鎮より「鎮」の字を賜り鎮綱と称しています。大友宗麟の生涯を描いた遠藤周作の小説、『王の挽歌』の作中にも、佐田氏の名がでてきます。
興味深いのは、代々豊後国緒方庄(現 大分県豊後大野市緒方町)一帯を領していた緒方一族も大友氏に仕えていますので、この当時佐田氏と何らかの接点があったのではないかと想像します。ちなみに大友宗麟が大友家の家督を継いだとき、緒方氏の娘が正室候補になったという記録があるようです。
天正期(1573~92)になると大友氏勢力が次第に弱体化しはじめ、天正6年(1578)、有名な「日向耳川の合戦」において大友氏が島津氏に大敗してしまいます。それによって多くの国人領主が大友氏を見限り離反しますが、佐田隆居と鎮綱父子は変わることなく大友氏に従ったようです。同11年(1583)正月、安心院麟生が竜王城に拠って大友氏に背くと、隆居はこれを攻め、本領安堵の条件を出して開城させています。佐田氏の大友家への強い忠誠心がうかがえます。
しかし島津氏の攻勢は激しく、やがて大友氏が退勢となりますが、豊臣秀吉の九州征伐があり、島津氏は薩摩に撤退を余儀なくされ、九州は秀吉の国割りによって豊臣政権下の大名に所領が割り当てられました。
天正15年(1587)、豊前六郡(京都、築城、上毛、下毛、宇佐)に黒田官兵衛孝高が入部してくると、佐田氏は領地を追われてしまいました。黒田家の部将・母里太兵衛(NHK大河で速見もこみちが演じている)が城を預かったようです。それによって佐田氏は、8代、188年間守り抜いた城地を去ることになります。その後、大友氏を頼ったようですが、文禄元年(1593)、大友義統が改易となり豊後除国に伴い佐田に戻ったようです。
佐田一族は、その後黒田氏に降り、その客分となり、のち元和元年(1615)、細川忠興の家臣となり、細川氏の熊本転封にともないそれに同行したようです。まさにそこには、激動の戦国時代の荒波に揉まれ、佐田一族の維持と繁栄のため奮闘した歴史があります。
細川家へ仕えるようになった初代・五郎右衛門や代々の佐田家については、元和5年の「細川忠興公判物」「佐田五郎左衛門知行方目録」(佐田文書)等が残されており、代々能吏として藩に仕えたようです。七・八・九代を特に記すと、
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七代佐田宇兵衛(谷山)は 名は介景、字は子国、宇兵衛と称し、致仕して谷山と号せり。藩に仕へ小姓役を勤む。禄百五十石、程朱の学を好み、傍俳歌をよくす。春雛、箕足と号す。又音楽を能くし、曾て壽永筝を得て珍蔵し、孫宇平の時に献上して今は御物となれり。享和三年五月三日没す。享年七十五。墓は本妙寺中東光院。
八代佐田右十(右州)は 名は英景、右州と称し、造酒之助と改む。食禄二百五十石、小姓役、使番、中小姓頭小姓頭等を勤む。多芸多能のひとにして俳辭、散楽、蹴鞠、茗理、篆刻、種樹等皆能くせざるはなし、又頗る剣技に長ぜり。文化十四年十二月五日没す。享年五十九。
九代佐田右門(右平・吉左衛門)は 名は玄景、右平と称し、後吉左衛門と改む。藩に仕へ食禄三百五十石、奉行職を勤む。平素好んで詩書を謡し、史事を考證し、手に巻を廃せず。安永元年八月弐拾日没す。享年七十四。
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これらが記された膨大な佐田文書の多くは、肥後細川藩の貴重な文献として、熊本県立図書館に所蔵されているようです。その文書は多岐におよんでおり、史料的価値は大きいとおもわれますが、詳細な研究にはまだ至っていないようです(東京大学史料編纂所にて基礎的な調査あり)。古文書の読解力があればよいのですが、読んでみると当時の武家の日常生活などが垣間見られ、非常に興味深いのではないかとおもわれます。
ちなみにシンガーソングライターのさだまさしの佐田家は、もともと島根県那賀郡三隅町(現 浜田市)の大地主の家系のようです。父親が先の大戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、そのまま長崎に住み着いたようです。また、1940年代後半から1960年代に活躍した俳優、佐田啓二の本名は中井寛一で、佐田氏とは関係がなさそうです。
さて、疑問として残るのは、佐田家の家紋が桔梗(ききょう)であり、調べた限り、上記の佐田氏が同じ桔梗紋を用いていたかどうかが定かではありません。宇都宮氏の流れをくむことで『左三つ巴』を用いていたかもしれませんし、佐田氏の始祖、親景が宇都宮氏より佐田氏と称したおり、桔梗紋を用いたのかもしれません。
武士でこの紋を用いたのは清和源氏の土岐氏で、戦国時代には土岐氏の流れをくむ明智光秀が水色の桔梗紋を用いたことは有名です。熊本細川家の前城主、加藤清正も桔梗紋を用いたことがあったようですから、細川家に仕えるようになったことに何らかの起因があったかもしれません。いずれにしても、源氏の流れをくむ武家の出であることは間違いなさそうです。
最後に、以下に佐田文書を列記してみました。細川藩の文官として、また佐田家歴代当主の手になる日記を主に、おびただしい数の文書が残されています。代々筆まめであったようです。とくに99番の二天一流(にてんいちりゅう)は、宮本武蔵が晩年に熊本で完成させた兵法です。その理念は著書『五輪書』に著されています。どうも佐田家のご先祖さまが、その写しをとったようです。面白い文書としては、蒙古襲来に対して活躍した竹崎季長の寄進状の写しや、犬に咬まれたときにとった救急処置の記録などまであるようです。
佐田文書 (熊本県立図書館蔵)
1. 亀霍問答
2. 御使者番勤録 佐田写
3. 玉名郡受付古墳墓誌考「内田手永薬師堂書付」 写
4. 日記 嘉永七年甲寅
5. 東行日記 寛政十一年
6. 御客帳 弘化四年三月
7. 衣服御制度御書附之写
8. 「月番御役心得」 永田写
9. 御葬式しらべ帳 文政三年辰九月
10. 衆成講通帳 慶応元年十月
11. 烏目覚 庚辰九月
12. 横監対語 文政五年より
13. 黒石山より所々迄出方帳 安政四年十一月
14. 覚 佐田
15. 漫録
16. 途旅中日記 文化丁丑秋七月
17. 御参勤陪駕途旅中日記 文化十二乙亥二月
18. 日記 慶応二年丙寅
19. 紀州百姓騒動一件
20. 東都白銀邸日記 文久二年正月 (佐田淑景著)
21. □禄日記 文政六年 (□ 判読不可)
22. 日載 天保五年
23. 「細川氏系譜」写
24. 日記 天保十年己亥
25. 見聞払記
26. 日々禄 天保七年正月元旦
27. 阿蘇宮参拝記 天保八年四月
28. 豊前国小倉在陣中日記 元治元年十月一日
29. 日記 天保六年
30. 日記 弘化六年
31. 年頭御禮申上覚
32. 下作代入組等書付 文化十三年改
33. 御妹様御病死・・・・御吊儀御使者名簿
34. 雑記帳 天明四年甲辰三月御先立被仰付 他
35. 雑記帳 羽衣・山姥 他
36. 宇佐紀行 文化十四年
37. 雑記帳 文化九年ノ記 画師高雪峯の事等
38. 鄙日記 文化甲戌夏卯月
39. 日簿 文政十三年庚寅正月
40. 日記 弘化五年戌申
41. 天保十三年壬寅目録 玖瑰園
42. 日記 嘉永四年辛亥 玖瑰園
43. 日記 嘉永二年己酉 壽永閣
44. 日記 嘉永六年癸丑 玖瑰園
45. 日記 嘉永三年庚戌 玖瑰園
46. 日記 天保七年丙申
47. 日記 天保五年甲辰
48. 日記 弘化四年丁未 玖瑰園
49. 日表 天保三年壬辰正月
50. 日記 天保九年戊戌
51. 豊前紀行
52. 文化十年暮江戸御人賦津田平助手元ニ而相調監物殿相達候写
53. 西国御郡代三河口太忠様嫡深谷御止宿之節月番 文化十一年
54. 熱海笈の引出 天明四年甲辰五月 (雑記帳メモ)
55. 雑税 文化八年
56. 萬之控
57. 随筆 佐田義景 文化六年正月十日起筆
58. 藩翰譜之内 細川譜考異 佐田英景写
59. 犬咬急救録 千代村宗元
60. 蒙宰司徒寮 坂田玄景写
61. 池邊寺文書 写
62. 小国満願寺傳来之書付 写
63. 竹崎季長塔福寺寄進状 長瀬真幸写
64. 「細川輝経公」写 松井家旧記ノ内書抜
65. 内大臣山并矢部馬見原川ノ口之紀行
66. 御手当名附 嘉永三年 写
67. 石川開御買入一件抜書
68. 宮城野土産
69. 志方半兵衛有馬御陣中より洛外吉田ニ被成御座候三斎様江言上之書翰写 寛文九年
70. 御小姓組四組御小姓頭支配名附
71. 御国律 宇佐永孚写
72. 生田又助覚書 附細枝実記
73. 由来書高砂一巻并書通之写 天野屋写
74. 御国律 佐田淑景写
75. 梅木田覚書 志水加兵衛写
76. 口上之覚 写
77. 廃刀之儀ニ付加屋霽堅当県江上書之写
78. 漫録 写
79. 御系譜 写 (細川斎茲まで)
80. 尚歯之記 安永六年 安田貞方写
81. 家中式法覚 享和元年正月改正 写
82. 御奉行奉書控 寛永・正保等
83. 御納戸日記 堀田正俊・柳沢吉保 写
84. 丹羽亀丞言上 写
85. 先祖附并御奉公附 写 森寿吉
86. 水野家記 日下部景衡写
87. 覚 八代上納候分
88. 古文書写
89. 阿曽大宮司所蔵古文書 写
90. 浅草川小堀長順游之覚 写 原著宝暦10年
91. 堀太夫行状 写
92. 大阪御供記 佐田義景写
93. 鉄炮注文三種 覚
94. 秘府記略 五上 写
95. 秘府記略 五下 写
96. 高瀬清願寺、願行寺文書 長瀬助十郎等写
97. 二天記 写
98. 二天一流 写
99. 小倉大里滞陣中記 佐田彦之助写
100.宮城野土産追加 佐田亥之助(淑景)写
101.忠利様肥後御入国御供面々宿割付 佐田右門写
102.宇土御記録
103.夢中の妄想 写
104.裁縫伝授書
105.寿仙院様島原陣御證書栞 佐田義景写
106.頴才詩録 第一号
107.はきのつゆ 写 催馬楽のうち
肥後細川藩侍帳によると、歴代佐田家当主は以下のようです。
1. 初代 五郎右衛門
細川忠興公判物(元和元年)豊前
佐田五郎左衛門知行方目録(元和元年)
2. 二代 吉左衛門
3. 三代 市郎左衛門
百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
4. 四代 新兵衛
(1)有吉頼母允組 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
(2)西山八郎兵衛組 惣銀奉行 百五十石
細川綱利公判物(寛文元年)
5. 五代 又次郎(養子)
佐田又次郎知行差紙(養父新兵衛上知分)
6. 六代 宇兵衛・正時(初・次郎吉・新兵衛)
百五十石 御番方十二番御小姓組四番 屋敷・京町
7. 七代 宇兵衛
細川宣紀公御書出(正徳六年)
(佐田谷山 名は介景、字は子国、宇兵衛と称し、致仕して谷山と号せり。藩に仕へ小姓役を勤む。禄百五十石、程朱の学を好み、傍俳歌をよくす。春雛、箕足と号す。又音楽を能くし、曾て壽永筝を得て珍蔵し、孫宇平の時に献上して今は御物となれり。享和三年五月三日没す。享年七十五。墓は本妙寺中東光院。)
8. 八代 右十(造酒助)
百五十石
享和二年十一月~文化二年二月 川尻町奉行
文化二年二月~文化八年九月 中小姓頭
文化八年九月~文化十四年十一月 小姓頭
文化十四年十一月~文化十四年十二月(病死) 留守居番頭
(佐田右州 名は英景、右州と称し、造酒之助と改む。食禄二百五十石、小姓役、使番、中小姓頭小姓頭等を勤む。多芸多能のひとにして俳辭、散楽、蹴鞠、茗理、篆刻、種樹等皆能くせざるはなし、又頗る剣技に長ぜり。文化十四年十二月五日没す。享年五十九。史料:嶋原一件書状之写(温泉嶽燃出、津波被害の状況報告の手紙七通)寛政五年)
9. 九代 右門(右平・吉左衛門)
右門-御目付 三百石
右平-旧知二百五十石
吉左衛門-旧知三百五十石
細川斎護公御書出(文化九年)
同上 (弘化四年)
天保元年七月(大組付)~天保三年二月 高瀬町奉行
天保三年二月~天保五年九月 奉行副役
天保五年九月~安政元年八月(病死)奉行-吉左衛門ト改名
(佐田右平 名は玄景、右平と称し、後吉左衛門と改む。藩に仕へ食禄三百五十石、奉行職を勤む。平素好んで詩書を謡し、史事を考證し、手に巻を廃せず。安永元年八月弐拾日没す。享年七十四。)
10.十代 新兵衛
大組附・留 三百五十石
11.十一代 彦之助
二百五十石
何代かは不明 佐田次郎吉知行(慶安四年)
同上 (承応二年)父市郎左衛門トアル
佐田新兵衛知行引渡差紙写(寛延三年)宇兵衛上知高百五十石・・・
6 件のコメント:
初めまして、僕は北九州の小倉北区に住んで居ます、佐田 稔(さた みのる)と申します。
本来事業とは異質な事業のプロジェクトを立ち上げているのですが「樹木葬霊園」
地元の方々の依頼と取りまとめを受け明治30年9月20日に「人民共有許可墓地」のリノベーションなんですが、
事業が事業だけに、社団法人理事長に、現在61才です。
そうしたことも有り、我が家系のルーツを探索していたところです、父親の兄弟に僅かな巻物を拝見し、被災地でもある熊本の城南区に、散乱とし、崩れ落ちていた墓石、記念碑。
無事修復も終り弔いさせて頂きました。
戦国時代多くの戦さの弔いとご先祖様の代名として、又 仏意仏勅と思いこの事業の中心として取り組んでおります、今日に至るまで不可思議な出会いと、巡り併せの連続で過去世を観る思いなんですよ。
色々な意味で鑑みる事がありお連絡をさせて頂きました。
何がしら縁のある方と思い感謝しております。
初めまして、福岡県大牟田市の佐田ともうします、実家は福岡県みやま市南瀬高町です、南瀬高町の下小川大神という地名に神宮があり、佐田家の先祖の方が大分県宇佐市の宇佐神宮から分霊してしていただいた神様をお祀りしている神宮があります、現在は町の文化財になっています
佐田です 家紋は左三つ巴です
佐田です 祖先は新田義貞と聞いていますが
佐田です柳川藩と関係があると聞いています
祖母が佐田です。三重県の伊賀です。一番古い戸籍を見たら嘉永で名は徳兵衛でした。その前の戸主は惣助でした。家紋は丸に橘です。周りに佐田家は御座いません。
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