2016年12月30日金曜日

「20歳(ハタチ)のころ(32)」

近頃しきりに読みはじめた歴史小説家の宮城谷昌光氏のエッセイに、以下のような文章がありました。

”人が最も早く賢くなりたかったら、旅にでることだ、といわれるが、たしかにそうで、中国の大歴史家である司馬遷は20歳になると南方を遊歴した。日本では長州の思想家である吉田松陰が21歳で見聞を広めるために遊子となっている。そもそも、そういう感受性の豊かな年齢を選んで旅行に出発したこと自体が、かれらの賢明さをあらわしているが、ものごとに感動する頻度が低くなる高年齢になっても、やはり旅は人に豊かさをあたえてくれる。”

なるほど、そうかもしれません。偉大な司馬遷や吉田松陰と比べるつもりは毛頭ありませんが、同じ年頃にヨーロッパ大陸を旅したことは、自らの人生にとって貴重な体験であったと思えます。青二才の世間知らずが、幾ばくかでも内面的な成長をすることができたのも、この旅行のおかげかもしれません。

さて、赤居さんと続けている貧乏旅行は、やっとイタリアの首都、ローマ(Rome)へとたどりつきました。まさに、『すべての道はローマへと通ずる』、ですね。

ローマでは、有名な観光スポットのスペイン広場やトレビの泉などを見てまわりました。オードリー・ヘップバーン主演の名画、『ローマの休日』にでてきた名所の数々が実際に眼前にあることに不思議な感動をおぼえました。チャールトン・ヘストン主演の名画、『ベンハー』で見たような戦闘用馬車が疾走していたであろうコロッセウムや、ジュリアス・シーザーが演説をしていたであろう古代ローマの遺跡群も見てまわりました。

ローマは、さすが世界有数の観光地です。見るものすべてが偉大で、歴史の重みを感じさせる建造物がありました。そのローマで一番訪れたいところが、バチカン市国のシスティナ礼拝堂でした。周知のように、全世界12億7千万人いるといわれるカソリック教徒たちの総本山です。ローマ法王がおられるところですね。素晴らしいの一言です。

巨大なドーム型の礼拝堂内へ入ると、天井一面にルネッサンスの巨匠、レオナルド・ダビンチが描いた聖書を題材にしたテンペラ画が描かれてありました。その芸術性や荘厳さには圧倒されました。

奥には、ダビンチと並び称されるルネッサンス期の彫刻家ミケランジェロの名作、『ピエタ』の彫刻が据えられてありました。傷ついたイエスを抱いたマリアの姿は哀しく美しく、まさに天才による作品です。魅了されました。

もし数々の芸術的天才を生み出したイタリアのルネッサンスというものがなかったとしたら、いまの世界のあらゆる芸術はどのように変わっていただろう、と想像してしまいます。

(つづく)

2016年11月9日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(31)」

アッツシジを後にしたふたりは、ふたたび列車に揺られ、つぎの目的地、フィレンチェへと向かいました。フィレンチェは、英語でフローレンスと呼ばれます。フィレンチェは、トスカーナ州の州都で、まさにルネッサンス芸術の都です。街全体が美術館のよう風情です。

まず始めに、中世イタリアの大富豪、メディチ家の愛蔵した美術品が展示されているウフィツィ美術館へと向かいました。このウフィツィ美術館には、ルネッサンス期を代表する有名な画家のひとり、サンドロ・ボッティチェッリの傑作が展示されています。

とくにかれの代表作、『春』や『ビーナスの誕生』を観た感動はいまでも忘れることはできません。絵画を見てこれほど心を揺さぶられた経験はありませんでした。いつまでもその絵画のまえで佇んでいたといっても過言ではありません。まさにそれら絵画の発するオーラに圧倒させられました。無から生み出される創造力の結晶が、そこにはありました。

フィレンチェは、ダビンチやミケランジェロなどの芸術家たちが活躍した都市です。また街の南側をアルノ川が流れていて、それに架かっているヴェッキオ橋は有名です。また、貴金属や装飾品などのブランドのお店が軒を並べています。まさに芸術とファッションの街ともいえます。

赤居さんとふたりで路地を散策し、街のシンボルであるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を訪ねました。教会の名前は「花のマリア」という意味だそうです。15世紀に建てられたモザイクタイルの美しい教会です。屋根は赤銅色のドームで、細い階段で建物の上部まで登ることができました。中世そのままの街並みが眼下に一望できました。

夕方には、街の南に位置する『ミケランジェロ広場』まで歩き、丘のうえから眺める、夕陽に染まったフィレンチェの街並みを堪能しました。目の前にアルノ川が静かに蛇行し、大聖堂が遠望できました。まさに思い描いていたイタリアの原風景がそこにはありました。

(つづく)

2016年8月14日日曜日

DIYにハマってます。

今年の夏は、娘ふたりは部活で忙しく、うちのカミさんも仕事を休めないとのことで、あいにく帰省できませんでした。そのかわり、DIYで既存のウッドデッキに物干し場を作りました。われながら完成品に大満足です。

現在、洗濯物は2階のベランダに干していますが、うちのカミさんからは、『せっかくウッドデッキがあるんだし、娘の部屋を通らずに洗濯物を干せるようにしたい』との以前からの要望です。家の正面サッシの前に洗濯物がぶら下がっているのも見ばえが良いものではないと、少々渋っていましたが、うまくタテに配置を変えて、DIYで作ってみました。

まずはホームセンターから木材や取りつけ用の金具などを購入しました。9センチ角の柱を一本買って、真ん中で切断して2本にし、上部を物干しザオ受けの角度に合わせて斜めの切り口にしました。こうすることにより、雨によって支柱
の上部が腐食するのを少しでも防げるのではと思います。

物干しザオ受けの上下4枚の板も長さに合わせて切り分け、ドリルで物干しザオが通るサイズの穴を4つあけました。支柱に角度をつけて打ちつけ、柱の転倒を防ぐため、ウッドデッキのフェンスにも後部を打ちつけ強度を高めました。なぜかと言うと、デッキの床板に支柱固定金具を取りつけましたが、強風などで転倒しないかどうも安心できなかったからです。これで少々の風でも、大量の洗濯物でも大丈夫です。

下側に干す洗濯物が見えないように、またプライベート確保のため、既存のフェンスに幅の微妙に違う部材を等間隔に取りつけました。出来合いのラティス・フェンスを買って取りつけようかとも思いましたが、なかなかの出来に我ながら満足しています。

最後は腐食防止のステインを塗りました。炎天下の作業だったので、熱中症に注意して、適度に水分を補給し、休憩をとりながら進めました。支柱固定金具が2個で2800円、ホームセンターにはなかったので、ネットで注文しました。9センチ角の柱が2580円、ビスと固定金具取りつけ用ワッシャーが792円、その他の部材が5782円かかりましたので、総額1万円ちょっとで出来ました。最初はコンクリート土台の物干し台を買ってデッキに直接置こうかとも考えましたが、せっかくのウッドデッキなのに、あまりにセンスがないと、今回の夏休みを利用してDIYで作ってみました。

もうひとつの写真は、先月に作ったウッドデッキ用の踏み台です。ウッドデッキのステップが腐食していたので、新たにベンチのような踏み台を作成し、下の部分には束石で基礎を固め、周りをレンガで囲って白い敷石を敷きつめました。

このように近ごろはDIYにハマってます(苦笑)。娘に言わせると、「お父さん、定年後の趣味がまたひとつ増えたね」とのことです。それにしても疲れました(笑)。いまは完成品を見ながら、自己満足に浸って、缶ビールを飲んでいます。



2016年7月24日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(30)」

わたしたちはつぎの目的地、アッシジ(Assisi)へと向かいました。アッシジも赤居さんがどうしても訪ねてみたい観光地のひとつだったようです。いつものように道中、赤居さんの後ろをついてゆくしかありません。

コモからアッシジまでは、イタリア半島をかなり南下します。しかしその途中の記憶がまったくありませんので、おそらく前日のジュリアーナ宅での歓迎パーティで飲みすぎたせいか、ずっと眠っていたのかもしれません。

やっと列車を降りて駅舎のそとへ一歩出ると、ほそ長い道路がまっ直ぐに田園を貫いてのびていました。その前方の小高い丘の上にアッツシジの古い街並みが遠望できました。まるで蜃気楼をみているようでした。

まっ青な空にまっ白な雲がいくつかぽっかりと浮いていました。あたりは静寂に包まれていて、空気は乾燥していました。一瞬、耳が聞こえなくなったような錯覚を覚えました。あたりには一面オリーブの木が植えられていました。

アッツシジの街は、中世そのままの趣きを残しており、白っぽい石造りの街並みは陽光をいっぱいに浴びていました。すり減った石畳の路地をぬけると、荘厳な教会がありました。

その教会は聖フランチェスコ聖堂といって、13世紀に建てられた由緒ある歴史的建造物です。中に入ってみると、ひんやりとして、外とは違ってピンと張り詰めた厳かな空気に包まれました。壁面は、数々の中世美術のフレスコ画で飾られていました。

高い天井や美しいステンドグラスを仰ぎみながらさらに奥へと進むと、祭壇中央の上部に十字架のキリスト像(聖母マリア像だったかもしれません)が見えました。キリスト教徒でなくとも、厳粛な気持ちになりました。

赤居さんとしばらくアッツシジの街路を散策しました。その通りには、カリフォルニアにある都市の名前の由来となったらしい、サンフランチェスコ通りやロスアンジェロス通りなどがありました。薄いピンク色の大理石をつかった優美な修道院もありました。

歩き疲れて、通りに面した小さなカフェに入りました。石畳通りに面したパティオの椅子に座り、コーヒーを注文しました。初めて飲んだ本場のエスプレッソは、とても苦味があって閉口しました。店のおじさんも日本人がよほど珍しいのか、しきりに話しかけてきましたが、そのイタリア訛りのきつい英語にも閉口しました。

(つづく)

2016年5月23日月曜日

「20歳(ハタチ)のころ(29)」

コモ(Como)では、1泊の滞在でした。イタリア人留学生たちに別れを告げました。か れらはその大きな瞳に涙をあふれさせていました。みんなで駅舎まで見送ってくれま した。駅のホームには、再びかれらの唄うジャクソン・ブラウンの『ステイ』が響き ました。

涙が出ました。イタリア語の「チャオ(Cao)」と日本語の「サヨナラ」を交えて、 ジュリアーナやパオラたちと別れのキスをしました。列車に乗り込むと、かれらの悲 しい顔が並んでいました。発車の合図でゆっくりとホームを離れていきました。赤居 さんと列車の窓から、かれらの姿が見えなくなるまで手を振りつづけました。

「――ホントにイイ奴らですね・・・」と、後ろで手を振っている赤居さんを振り返 ると、その丸メガネの奥の細い眼はしとどの涙で濡れていました。それにつられて、 不覚にも涙がとめどもなく流れました。もうかれらに一生会えないのかもしれないと いう刹那(せつな)さに、われを忘れて涙しました。

座席に深く身を沈め、車両の単調な振動に身をまかせました。ケンブリッジでかれら と過ごした日々が思い出されました。特に、ワインバー『シェイズ』で唄い飲み明か した夜が、懐かしく浮かんでは消えました。胸にじんわりと熱いものがこみ上げてき ました。

赤居さんとふたり、おし黙ったまま、気が抜けたようにぼんやりと外の景色を眺めて いました。イタリア北部の穏やかな田園風景が車窓に流れていました。あれから30 数年、いまごろかれらはどうしているだろう――。 さぞや、みんないいオバサンや オジサンになっただろうな。

列車は、南へと進んでいました。

(つづく)

2016年5月8日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(28)」

南フランスのニースを出発したふたりは、つぎの目的地であるイタリアへと向かいました。

ブーツの形をしたイタリア半島西側のつけ根に位置するジェノバ(Genova)を過ぎ、列車は一路、北へと進路を変え、ミラノ(Milano)へと向かいました。

アニメ好きの赤居さんは、『母をたずねて三千里』の舞台でもある港町ジェノバに立ち寄りたかったようですが、しだいに旅の予定が狂い出していたふたりは、つぎの目的地、コモ(Como)へと急ぎました。

コモは、ケンブリッジで知り合ったイタリア人留学生たちが住んでいる街です。かれらに再会するのは、今回のヨーロッパ旅行で楽しみにしていた予定のひとつでした。

毎週金曜日の夜にワインバー『シェイズ』で、一緒にドンチャン騒ぎをしていた連中です。あらかじめ連絡を入れていたので、コモ駅に到着すると、イタリア人特有の大げさなジェスチャーをまじえて大歓迎をうけました。

イタリア人は一般に喜怒哀楽の感情の起伏が激しいといわれていますが、かれらの再会時の喜びようは凄まじいものがありました。長年生き別れた肉親が、苦難の末やっと会えたような情景でした。

コモは、まわりを森と湖にかこまれた、それはそれは美しい街でした。さぞかし待ち望んでいたのでしょう、到着するやいなや、ふたりのための予定がびっしりと組まれてありました。

かれらは得意になって私たちを街のあちらこちらに案内すると、コモ湖へと連れて行ってくれました。

そこはまさに息をのむような景観でした。ボートで澄みきった湖面を滑るように進むと、湖の両側の緑の丘陵には、いくつもの豪奢な別荘が建ちならんでいるのが見えました。そのうちの一つは、かのナポレオンの別荘であったそうです。

いくつかの観光名所を巡ったあと、留学生の一人、ジュリアーナの自宅で夕食をご馳走になりました。一見すると石造りの古い家でしたが、内装や家具類はとてもシックなデザインに統一されてありました。

ケンブリッジで知り合った留学生たち以外も集まっていました。いくつものイタリア料理が大きなダイニング・テーブルに並べられてあり、何本ものワインやフルーツなどのデザートが用意されてありました。

そのかれらの歓待ぶりには、しきりに赤居さんとふたり恐縮してしまいました。その夜は、遅くまで飲み明かし、歌ったり踊ったり、ケンブリッジでの旧交を温めました。

かれらは、最後に私たちのために、何度もジャクソン・ブラウン(Jackson Browne)の『ステイ(Stay)』を歌いました。

♪ People, stay just a little bit longer ♪
♪ We wanna play just a little bit longer ♪

かれらの友情に、涙があふれました。

(つづく)

2016年4月18日月曜日

「20歳(ハタチ)のころ(27)」

バルセロナ観光を満喫した私たちは、ふたたび列車に乗って地中海沿いにフランスへと入国しました。進行方向の右手の窓辺には碧い地中海が見渡す限りどこまでも拡がっていました。南仏の穏やかな陽光が、あたり一面にふりそそいでいました。まさに地中海気候ともいうべき気持ちの良い陽気でした。心地良い単調な列車の揺れと、ときおり訪れる眠気でボーっとしているうちに、私たちはマルセイユ(Marseille)、カンヌ(Cannes)と素通りし、ニース(Nice)で下車しました。

ニースは、いわずと知れたヨーロッパ屈指のリゾート地です。お決まりの美しいビーチがあり、赤居さんとそのビーチ沿いの歩道をブラブラ歩いていると、その横を高級スポーツ・カーが颯爽(さっそう)と走り去っていきます。ハッとするように魅力的なブロンド美女たちを何人も見かけ、おもわず振りかえりました。ヨーロッパの成り金連中がバカンスに来ているようでした。あいも変わらずフトコロ寒い二人にとって、世の中は何と不条理で不平等に出来ているのかと呪わずにはいられませんでした。

いつものように裏路地の安ホテルを探しだし、ようやくその日のネグラを確保しました。ホテルの支配人は、頭髪の薄い、無精ひげを生やした、いかにもダサい中年男でした。着ているランニング・シャツがピッチリとそのでっぷりとした体に張りついていました。狭い階段をのぼって、暗い部屋に入ると、カビ臭いにおいが鼻につきました。陽光溢(あふ)れる同じニースにいるとは思えませんでした。古く軋(きし)んだ窓を開けて、何気なく路地に目をやると、けだるそうに野良犬が寝そべっていました。

どうもそれ以外の記憶が定かではないので、さぞかし長旅で疲れ果て、眠りこけてしまったのかもしれません。折角、ヨーロッパ屈指のリゾート地に足を運んだのに惜しいことをしたものです。しかし別段、高級なレストランで食事をしたり、贅沢にショッピングをしたりするつもりもなかったので、もともと身分不相応な観光地を訪れたのがオコガマシイのかもしれません。しかしながら、南フランスの有名リゾート地で一泊でも過ごせたことは事実です。たとえキラキラと輝く地中海に面した勝ち組エリアとは隔絶され、路地裏の安ホテルの一室で惰眠を貪っていたとしても・・・。

(つづく)

2016年2月6日土曜日

「20歳(ハタチ)のころ(26)」

バレンシアからは地中海沿いに列車で北東へと進みました。つぎの目的地は、バルセロナ(Valcerona)です。バルセロナは、マドリッドに次ぐスペイン第二の都市です。古い石造りの建物が立ち並ぶ街路は、とても開放的で魅力にあふれていました。ベランダにはベゴニアの赤い花々が飾られていました。街全体が陽光にあふれていて、美しいビーチがどこまでも続いていました。もちろん当時はまだオリンピックの開催まえです。

バレンシア同様、真っ青に澄みきった空の下、赤居さんと眼前にひろがる地中海の碧い海原を眺めながら、時折、眼の覚めるように美しいスパニッシュ女性たちにすっかり心を奪われていました。貧弱で挙動不審な若い東洋人ふたりが何やら物欲しそうに砂浜にすわってキョロキョロしている様子というのも、何とも痛ましい光景だったでしょうね。

しかしながら、あくまでふたりの名誉のために言っておくと、バルセロナを訪ねた目的は、もちろんビーチで日長一日、眼の保養の『ビキニ・ウォッチング』をすることではありません。現在も建設中のサクラダ・ファミリア(Sagrada Família)を訪ねることが主な目的でした。

その教会を訪ねた折、観光客の出入り口付近で一心に石を削っている若い日本人作業員を見かけました。頭にはタオルを巻いて、全身が粉塵で真っ白でした。思わず声を掛けましたが、どんな会話をしたのか今では思い出せません。まだ重要な仕事を任せられていない一介の作業員のようでした。コツコツと地道に作業している彼の姿がいまでも記憶に残っています。

日本に帰国して数年後、何気なく、サクラダ・ファミリアを特集したテレビの旅番組を見ていると、あの時の日本人作業員が映っていました。なんと彼は全工事の監督責任者になっていました。いや驚きましたね。さすがに勤勉な日本人です。いつ終わるのかも分からない歴史的建造物の工事に、日本人が携わっていることに同じ日本人として誇りを感じました。

(つづく)

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