2012年4月24日火曜日

赤穂浪士伝



久しぶりに面白い時代小説に出会いました。

海音寺潮五郎という小説家については、以前、司馬遼太郎との対談集「日本歴史を点検する」で読んだことがあったのですが、作品としては今回始めてでした。

井沢元彦の「逆説の日本史」シリーズにも度々その歴史観について取り上げられていたので、以前から一度読んでみようと興味はあったのです。しかし、なにぶんその名前からして少々胡散臭く感じていたので、小説を手に取ることはありませんでした。

聞くところによると、司馬遼太郎が本格的に文壇へデビューする前、その技量と才能を高く評価していたらしく、直木賞の選考委員会でも強く受賞を推薦したそうです。司馬にとっては、恩人とも呼べる先輩であったようです。

こんな話があります。ある時、司馬遼太郎が年来疑問に思っていたことを海音寺に問うたそうです。それは、なぜ織田信長は、武田騎馬軍団を殲滅させた長篠の戦いの戦場まで岐阜から1週間もかけて行軍したのかということだったそうです。つまり、通常2・3日もあれば十分な距離を、どうしてそんなに時間をかけたのかということです。

たぶん司馬は、「最強武田騎馬軍団に恐れをなして逡巡していた」とか「馬防柵の準備に手間取っていた」といった答えを予想していたのかもしれません。司馬自身、いろいろと調べてみても明快な答えが見つからなかったのかもしれません。

ところが、海音寺は即座に、「それは梅雨だったからでしょう」と答えたそうです。つまり信長は梅雨明けを待っていた。何故かというと、単純に火縄銃は雨が降れば使えないからです。それを聞いて、長年の疑問が氷解した司馬は唸ったことでしょう。

天正3年5月21日、つまり長篠の戦いの前夜は「どしゃ降り」であったらしく、そのあと梅雨明けの晴天のもとで戦いの火蓋は切られたらしいのです。

さて、この「赤穂浪士伝」ですが、かの有名な元禄時代の吉良邸討ち入りで本懐をとげた赤穂浪士たちのそれぞれの列伝です。また、それら浪士たち取り巻く女たちや、討ち入り直前で脱落してゆく浪士たちの葛藤が描かれています。それぞれ読み応えがあり、殊に「近松勘六」編は感動しました。

司馬遼太郎、吉村昭、浅田次郎など、いままでハマって全作品を読破してきましたが、これからはしばらく海音寺潮五郎作品にハマりそうです。さっそく数作品をネットで注文しました(苦笑)。

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