2015年2月23日月曜日

「20歳(ハタチ)のころ(9)」

ワインバー『シェイズ』に通い始めると、日本人留学生としても、お国の歌を披露しようということになりました。しかし何を唄ったらよいのか悩みました。関戸さんや赤居さんとも話し合いましたが、良いアイデアがありません。各国の留学生たちにインパクトを与える歌が欲しかったのです。

毎週金曜日の夜になると、あいも変わらず『シェイズ』へと向かいました。留学生仲間はすでに来ていて、地下の小部屋は彼らで占められていました。いつものように白ワインをオーダーし、乾杯しました。お気に入りは、『リープフラウミルヒ(Liebfraumilch)』といって、軽くて甘いドイツワインでした。『聖なるミルク』という意味だと誰かに教わりました。「よし今夜も、聖母マリアのお乳で乾杯しよう!」と言っては、ワイングラスを傾けました。

店内を各国の言葉が飛び交い、歌や踊りが始まりました。笑い声や歓声が渦巻いて、話している相手の声が聞きづらいほどでした。喧騒(けんそう)は次第に高まり、狭い地下の店内に響き渡っていました。そのとき突然、盛りあがっている留学生たちの前に、関戸さんがおどり出ました。

「レディース・アンド・ジェントルメン!」

関戸さんは、留学生たちを睥睨(へいげい)するように、高らかに声を発しました。その声は裏返っていました。禿げ上がった頭が照明に光っています。一体何が始まるんだろうと、一瞬、水を打ったように静まり返りました。留学生たちは好奇心の眼を一斉に関戸さんへ向けました。

関戸さんは、突拍子もない声で何やら唄い出しました。そして踊り出しました。手拍子をとりながら、軽快にステップを踏み始めます。

♪ア、さって、ア、さって、さては南京玉すだれ♪

留学生たちは、突然始まった目の前の状況に呆然(ぼうぜん)としていました。珍奇なひとりの東洋人が唄い、踊り出したのですから、唖然(あぜん)としていました。関戸さんは、周りのそんな動揺には目もくれず、ひたすら高らかに唄い、踊り続けました。

♪ちょいと伸ばせば、ちょいと伸ばせば、すだれ柳にさも似たり♪

関戸さんは、片方の腕を柳の枝に似せて、ブラブラさせました。当然、各国の留学生たちには、一体それが何を意味しているのか皆目見当もつきません。大きく眼を見開いて、興味津々な表情で、かれのパフォーマンスに魅了されています。関戸さんの奇怪な、『Dance & Song』は続きます。

♪すだれ柳が、すだれ柳が、お眼にとまれば、もとへと返す♪

ブラブラとさせていた腕が、「もとへと返り」ました。留学生たちは、まだ状況がつかめていません。お互いに顔を見合わせています。しかし笑いが込み上げてきているようで、次の展開を期待しているようでした。関戸さんは、また軽快なステップとともに、手拍子を始めました。

♪ア、さって、ア、さって、さては南京玉すだれ♪

留学生たちは、その手拍子に合わせ始めました。その慣れないテンポが面白いらしく、ヤンヤの喝采(かっさい)が起こりました。関戸さんは、彼らの注目の中、続けます。

♪ちょいと伸ばせば、ちょいと伸ばせば、東京タワーにさも似たり♪

突然、今度は両腕を頭の上に突き上げ、三角形の塔のような形をつくりました。留学生たちの手拍子は続いています。

♪東京タワーが、東京タワーが、お目にとまれば、元へと返す♪

関戸さんは突き上げた両腕を、「元へと返し」ました。汗でつややかな光が増し始めた頭と、その一心不乱に踊る姿が、さらなる笑いを誘いました。

♪ア、さって、ア、さって、さては南京玉すだれ♪ 

関戸さんは、『Dance & Song』が終わると、聴衆に対し、深々と頭を下げました。玉のような汗が流れていました。留学生たちは、目の前で繰り広げられた光景に、ある種の感動を覚えていました。指笛が鳴っていました。拍手が鳴り響いていました。関戸さんは、まさにステージ上でスポットライトを浴びるスターでした。

「サンキュー! サンキュー!」

関戸さんは両手を高々と掲げ、鳴り止まない歓声に応えていました。惜しみない拍手は続きました。

(つづく)

2015年2月14日土曜日

「20歳(ハタチ)のころ(8)」


キングス・カレッジ(King’s College)の差し向かいに瀟洒(しょうしゃ)なワインバーがありました。石畳のキングス・ロード(King’s Road)に面したガラス張りのお店で、『シェイズ(Shade’s)』という名前でした。『薄暗がりの』といった意味でしょうね。

分厚く大きな扉(ドア)を押して店内に入ると、せまい螺旋(らせん)階段がありました。手すりを伝って薄暗い地下へ降りてゆくと、そこはワイン貯蔵庫といった穴倉(あなぐら)のような場所でした。暗めの照明で、壁は一面、白いペンキで塗られていました。いくつかの小さな部屋に分かれていて、それぞれに年季の入った木製のテーブルや椅子が置かれていました。

どのような経緯で『シェイズ』へ通い始めたのか覚えていませんが、おそらく関戸さんに誘われたのではないかと思います。貧乏学生の身分で、自らワインを飲みに行くわけはありませんし、別段ワインが好きでもありませんでしたから。しかし金曜の夜になると、飽きもせず関戸さんや阪大出の赤居さんたちと足しげく通いました。

以前書いたように、この阪大出の赤居さんは、最初バリバリの大阪人だと思っていましたが、のちに滋賀県出身だと知りました。長髪の天然パーマで、いつも丸眼鏡の奥で細い眼が笑っていました。どうも私同様に関戸さんの人柄に惚れ込んだようで、出かけるときにはいつも3人一緒でした。性格は、穏やかで心優しく、涙もろいところがありました。留学期間後半になって、ケンブリッジで知り合ったヨーロッパ各国からの留学生たちを、バックパックを背にして3人で訪ね歩きました。この時の珍道中も忘れがたいものがあります。その話は、またこのブログで書こうと思っています。

『シェイズ』は、ケンブリッジの留学生たちの溜り場のようなお店でした。したがって、知り合ったヨーロッパ各国の留学生たちとは、このワインバー『シェイズ』で友達となりました。お酒が入って酔いがまわると、人種や国境の壁はたちまち崩れ、人類みな兄弟となります。特にラテン系のイタリア人やスペイン人たちは陽気で、ワイングラスを掲げて、お国の歌を唄い始めます。歌詞の意味など皆目わからないのに、かれらと腕を組みながら一緒に身体を揺らしました。歌声は地下の穴倉全体に響きわたり、静かにワインを味わいたい他のお客さんには、さぞかし迷惑だったでしょうね。

いま思い出せる友人たちの名前では、イタリア人のパオラ、マリア、ジュリアーナ、オーストリア人のダギー、スイス人のクラウディア、キャサリンなどです。不思議なことに、すべて女性の名前しか覚えていません。それもみな魅力的な女性たちです。記憶力とは、対象物にいかに興味をもったかでその強弱が決定するそうですから、30数年経ったいまでも覚えているというのは、われながら笑ってしまいます。

(つづく)

2015年2月9日月曜日

一旦停止違反に対する抗弁書

神奈川県警察本部長殿、

私は、平成27年2月7日(土曜日)、午後3時21分ごろ、横須賀市小川町付近の道路を自家用車で運転中、一時停止指定場所において停止しなかったという交通反則告知を受けました。告知は、横須賀警察署高坂文憲巡査部長より行われました。しかしながら、私はこの告知、またはそれに伴う告知書交付について、一切納得できません。

私は一時停止をし、右側からの車両が来ていないのを確認し、再度、確認するため一時停止線を少し越えて車を進め、左折しました。その後、50メートルほど進んだ地点で、高坂巡査部長により車を止められ、一時停止違反です、と告知されました。その折、一時停止をした旨、抗弁いたしましたが、聞き入れていただけませんでした。私は、反則告知書の受け取りやそれに対するサインの拒否もできましたが、高坂巡査部長に対し、私の言い分を書面によって訴えたいので、どちらへ提出したらよいのかお聞き致しました。しかしながら、自分では分からないとの返答があり、週末は担当部署が休んでいるので、月曜日、2月9日に横須賀警察署交通指導係へ連絡をしてくれとのことでした。

2月9日(月曜日)に横須賀警察署交通指導係へ電話をし、岩崎氏とお話をしました。その折、私はどうしても反則したとは思っていないと訴え、この私の言い分を書面によって送付したいが、どちらへ郵送したらよいか助言を受けました。岩崎氏は、そのような書面を送っても、検察官が双方の意見を聞き、現場検証なりを行った後に判断しない限り、反則告知が覆ることはないとのお話でした。

しかしながら、あくまで私は抗弁したいとの意志を伝えましたところ、神奈川県警本部か本庁への郵送をとのことでしたので、ここに書面によって、私の言い分を訴えたいと思います。私が一時停止したことを高坂巡査部長が見落とした可能性もあり、また一方的に違反者として告知され、検察官を通さないと一切の抗弁ができないシステムの矛盾にも理解に苦しむものです。しかしこれによって、誠に不本意でありますが、この行政処分(反則金と点数)を断固拒否するものではないことをご理解ください。あくまでも私には非がなかったということを訴えるものであり、私の質問に対して即答できなかった巡査部長の職務に不満を表すものです。

再度になりますが、私は反則を犯したとは考えておらず、納得がいきません。私が一時停止を行わなかったというような録画した映像でも残っているのでしょうか? 私は当該横須賀市小川町の道路は何度も通行しており、一時停止線があるのも承知していました。したがって、私が停止を怠ったとは考えられません。高坂巡査部長によると、私の停止は、停止したとは認められないとのことでしたが、一旦停止後、徐々に右側からの車両を確認するため停止線を越えただけで違反であるというのはどうしても納得がいきません。私が一旦停止したことを証明出来る第三者またはドライブレコーダーを搭載していないのが残念です。また、お互いの主張をし続けても水掛け論になることも承知しております。しかし私の言い分をお伝えしたく、ここに書面によりお送りいたします。この私の言い分に対して、書面によってご返答いただければ幸甚です。

何卒、よろしくお願いいたします。

2015年2月7日土曜日

「20歳(ハタチ)のころ(7)」

搭乗したアエロフロート機は、ようやくモスクワ空港に到着しました。着陸する直前まで、旧型の機体は一層ギシギシと不気味な音を立て続けました。モスクワの空は、薄墨を流したような厚い雲に覆われていました。まるで地の果てにたどり着いたように感じました。

モスクワ空港は、それ自体が強固な要塞(ようさい)のようでした。あたりはぴんと張りつめた異様に冷たい空気に包まれていました。到着ロビーへ出ると、早速ロンドン行きの飛行機に乗り換えるため、搭乗ゲートを探しました。

空港内をウロウロしていると、数人の厳(いか)つい警備の軍人が小銃をかかえて立っているのがみえました。モスクワ五輪を控えているので、特別に警戒しているようでした。空港のスタッフも、能面のように表情がありません。ロビーの壁には巨大なレーニンの肖像画が掲げられていました。この共産主義国から脱出しなければと焦(あせ)りました。足早に次の乗り換え便へと急ぎました。

乗り換えた飛行機は、無事にモスクワ空港を離陸しました。その後、ヨーロッパ各国の上空を横断し、ドーバー海峡を超えて、ロンドンへと近づきました。眼下には、テレビで見たような英国の街並みが拡がっていました。その風景を見つめていると、ようやく念願の留学が叶うという感傷に浸り、次第に胸があつくなりました。

着陸が近づき、窓の外を覗くと、陽光に輝くテムズ川をはさんで、赤褐色のレンガ造りの建物群が拡がり、緑の広い公園が市街地のそこここに点在しているのが見えました。空から見るロンドンの街並みは、かつての大英帝国の偉大さを感じさせました。

ロンドンのヒースロー空港に到着すると、入国審査でいきなり問題が発生しました。強面(こわもて)の審査官がしきりに何か言っているのですが、それが解らない。こちらも初めての経験のため動揺してしまって、一体かれが何を要求しているのか理解できない。ただ口元をじっと見つめていました。結局、入国カードがないことが分かりました。ロンドンへ向かう機内で手渡されたのでしょうが、どうも眠っていたため、カードはもらっていないし、当然記入もしていません。

やっとイギリスへ到着したかとおもった矢先、あえなく入国拒否され、日本へ強制送還ではと慄(おのの)き当惑しました。予期せぬ事態にたじろぎ、まるで車のヘッドライトに誤って飛び込んでしまって立ち竦(すく)むウサギのようでした。しかし、その後どうなったのか、記憶が定かではありません。結局、なんとか入国できたのですから、特別な配慮(?)を受けたのでしょう。不法渡航者やテロリストには見えない、純朴そうで穏やかな容姿が幸いしたようです。まずはメデタシ、メデタシ。しかし、先が思いやられる英国入国の初日でした。

ヒースロー空港からは、『ロンドン・タクシー』の名称で有名な、大きな黒塗りの箱型タクシーに乗りました。サブウェイ(Subway) と呼ばれている地下鉄を利用することも出来ましたが、到着早々、大都会ロンドンで迷子になってもいけないと思い、結局タクシーを拾いました。目的の駅を告げると、赤ら顔の運転手が快く応えてくれました。自分の拙(つたな)い英語が通じたことに、いたく感動しました。「どこから来たのか?」、と訊かれたので、「日本からだ」、と答えると、「旅行か?」、とまた質問してきます。「学生だ」、と答えると、納得したように車を走らせました。

タクシーの窓から望むロンドンの街並みは素晴らしいものでした。古色蒼然(そうぜん)とした石造りの建物群は、英国の重厚な歴史を感じさせました。広い通りには、赤い2階建てバスが走っていました。ゴシック様式の教会の塔が聳(そび)えていました。当然のように、街は英語の看板であふれています。

突然、広大な緑の公園が見えたかと思うと、また石造りの街並みが続いていました。まるで映画のセットのようでした。窓の外を流れる両サイドの景色は、見るものすべて珍しく、もう英国に居るんだ、と再認識させるのに十分でした。これから始まる異国での生活を思うと、さらなる期待に胸は高鳴りました。

(つづく)

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