2014年5月24日土曜日

幕臣 小栗上野介忠順

ワシントン海軍造船所見学時の遣米使節
1860年4月5日 前列右から2人目が小栗忠順

今日は、横須賀開国史研究会の総会と、その後に行われた記念講演に行ってきました。

講演の演題は、「幕臣小栗上野介忠順の幕政改革構想と横須賀製鉄所」です。講師は、国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏氏です。

小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)と言っても、同じ幕末の坂本龍馬や勝海舟などのように有名ではありませんが、歴史オタクの間では知らない人はいないというほどの幕末の偉人です。

小栗家祖先の小栗忠政は、徳川家康に少年の頃から仕え、40年余り三河武士として家康に近侍し、旗本として数々の戦場で活躍しています。

家康に、「又一つ首級(くび)をとったか」とほめられ、「名を又一と改めよ」と言われています。それ以来、小栗家の当主は又一を世襲し、幕末の忠順も通称は又一です。ちなみに、小栗旬とは関係はなさそうです。

旗本の中でも名門の小栗は、その怜悧な頭脳によって、官僚のトップといえる勘定奉行にまで昇りつめます。勘定奉行というのは、今で言う財務省と法務省を併せた事務次官のような職です。

しかし、歯に衣を着せぬ言動が多かったようで、まわりに敵も多く、勘定奉行を何度もクビになっています。あまりに頭が切れすぎて、ほかの幕臣連中を馬鹿にした気持ちがあったのかもしれません。

そんな小栗ですが、安政6年(1859)、日米修好通商条約の批准のため、米軍艦ポーハタン号に乗って渡米しています。並行して咸臨丸で勝海舟も同じく渡米しています。この渡米中に、幕府に一大事件が起こります。大老の井伊直弼が水戸浪士らに白昼暗殺された、いわゆる桜田門外の変です。

ポーハタン号の士官だったジョンストン中尉が、日本側遣米一行の事を書いたものの中に、小栗を描写した部分があります。「小栗は確かに一行中で最も敏腕で実際的な人物であった。使節らが訪問せし諸所の官吏との正式交渉は、全部、彼によってのみ処理されたのである。彼は40くらいの年配で小男であったが、骨相学の上より判断すれば、優れた知的頭脳の持ち主であった。少しばかりアバタのある彼の顔は智力と聡明とで輝いていた」と書いています。

小栗は、ワシントンで大統領のブキャナンに謁見し、ニューヨークから大西洋まわりで帰国しています。つまり日本人で始めて世界一周をしたことになります。当時の侍の社会から突然世界を見ることになり、物凄いカルチャーショックを受けたことでしょう。

やはり小栗の一番の功績は、何と言っても横須賀に製鉄所を造ったことです。フランス公使ロッシュに紹介してもらった海軍技術将校ヴェル二ーのもと、そのフランスから莫大な借金をして着工しますが、実際にドックが完成するのは、彼が亡くなった3年後のことです。

小栗は、早々に恭順の意思を固めている徳川慶喜に、薩長の新政府軍との戦いを進言します。苛烈な主戦論者だったようです。立ち上がって奥へ入ろうとする慶喜の袴のすそをにぎって説いたと言われています。彼の唱えた作戦をのちに耳にした新政府軍の大村益次郎は肝を冷やしたそうです。

慶喜が上野寛永寺に謹慎すると、小栗は上州(群馬県)権田村に家族•家来共ども帰ります。しかし、東山道鎮撫総督府の手のものによって逮捕され斬首されます。翌日、養子の又一も斬首されてしまいます。

後年、ライバルともいえた勝海舟は小栗のことを、フランスに国を売ろうとしたとしてボロクソに言っています。しかし、福沢諭吉は、幕臣でもあった勝が、榎本武揚同様、明治政府の高官になって華族に列したことを痛烈に批判し、小栗に対しては先見の明があったと非常に褒めています。

そう言えば、小栗同様、忠臣蔵の四十七士に打ち入られ首を落とされた吉良も「上野介」でした。同じように首を落とされるという不幸な運命なのでしょうか。

小栗上野介で面白い話は、徳川埋蔵金です。勘定奉行であった彼のことだから、江戸城の金蔵から大量の幕府の金を新政府軍にわからないように埋めて隠したのではないかというものです。その埋蔵金を探すため、いまでも、日々、上州の山の中を掘っている人がいるそうです。

2014年5月22日木曜日

ASKA逮捕について考えてみました。

人生において「成功する」というのは、一体どういうことでしょうか?

ほかの人たちに羨ましがられる地位と名誉を得たこと? それとも、たくさんのお金を稼いで裕福な生活を手に入れたこと? はたまた、誰もなしえない偉業を達成したこと?

「成功する」とはどういうことか、個人により「成功」について様々な考え方があり、解釈の違いがあるでしょう。つまり、これはあくまでその人の価値観の問題であり、どのような場合に「成功した」と感じるかは、人それぞれです。

しかし今般のASKAの犯した罪を考えると、「成功する」というのは何なのか? 過去にミリオンセラーをとった楽曲をつくり、スターダムに上り詰めた一人の人間として、人生において彼は「成功した」のでしょうか?

「禍福は糾(あざな)える縄の如し」という言葉があります。幸福と不幸はそれぞれ縄のように紡がれていて、生きていれば幸福感に包まれている時もあれば、また不幸のどん底に突き落とされる時もあります。

しかしながら、自ら麻薬に手を出し、非常な努力の末に手に入れた「成功」をドブに捨てるとは、あまりにもったいなく、情けない。自業自得だと言ってしまえばそれまでですが、ただ今回の事件により、彼の過去の栄光は水の泡となってしまうでしょう。

かつてラジオで聞いた話に、「人の一生はすべてがプロセスであり、成功したかどうかは、そのひとの死ぬ直前までわからない」というのがあります。

生きていれば失敗してつまづくこともあり、頑張ってうまくいくこともあります。しかしそれはあくまでも一連のプロセスであって、最終的な人生の結果ではないということです。しかしながら、日々、一生懸命に努力をし、正直に真面目に生きるということが大切なようです。

そんなことをツラツラと考えると、「成功する」ということは、獲得した地位や名誉やお金によって決められるものではなく、人生最後の日に、「振り返ってみると、これまで山あり谷あり、いろいろとあったが、いまは総じて自分のいままでの生き方に満足している」と思うことができることかもしれません。

ASKAには、犯してしまった罪をこれから悔い改め、真っ当な人生を送って欲しいものです。そして、アーティストとして、また一人の人間として、「成功した」と思えるような日が来ることを祈っています。


2014年5月20日火曜日

PC遠隔操作事件について

PC遠隔操作事件の真犯人は、やはり片山被告人でした。

自分で書いたメールを河川敷に埋めたスマートフォンから指定時間に自動送信させるという、ほかに真犯人がいるように偽装した手口は驚くものがあります。

また、自らの公判中に送信させるという、アリバイ工作の意図もあったようです。まさにIT技術を屈指して、犯した罪から逃れようとした行為は卑劣です。IT社会の現代に特有な、いままでにない新しい形態というべき犯罪です。

今回の事件は、まるで『古畑任三郎』や『相棒』などのドラマの筋書きのようです。つまり、犯人が実際の犯罪の後にとった行動によってアシがついてしまうというストーリーです。まさに劇場型犯罪といえます。

それにしても彼は何故そこまで社会に対する不満や恨みを抱くようになったのでしょうか? 『自分はまったく悪くない。この世の中の他のすべての人たち、また自分を取り巻く社会が悪いんだ。』という、究極の自己中心的で身勝手な被害者意識をもっているようです。

また、『自分はこんなに愛しているのに、どうして彼女は自分のこの気持ちに応えてくれないのか』といった、ストーカー特有の一方向的な心理に通ずるものがあるようです。

これらの犯罪者に共通しているのは、人づき合いが苦手で、他人とのコミュニケーションがとれず、自分の殻に閉じこもりがちな性格があるように思います。自分だけの小さな世界でものを考え、人の痛みや立場を思いやることができない、まだ大人になりきっていない人間であるようです。

しかし一方で、『自分の存在を知ってもらいたい、人に認められたい』といった、自己顕示欲が旺盛であることも特徴です。事件を起こして社会の注目を受けたいという強い欲求があるようです。

親のしつけや学校教育が悪いとか、はたまた現代の人間関係の希薄さに遠因があるとか、さまざまな意見があるでしょうが、これからも同様の犯罪が続くことは確かでしょうね。

2014年5月18日日曜日

「結婚生活でいちばん大切なものは忍耐である」(チェーホフ)


昨日、朝いつものようにマッサージチェアーに座って新聞を読んでいると、部屋の奥から妻が声をかけた。


「あのサァ、今日って何の日?」


――その声の調子には何やら妙に不吉な響きがあった。
これまでの数々の苦い経験によって、このような何気ない質問には、女特有の「毒」が巧妙に仕込まれていることを知っている。

新聞には【安倍政権、集団的自衛権の行使容認へ】の記事がおどっている。

(なにを突然そんなことを訊くのか‥‥‥)

コーヒーをひとくち飲んだ。微妙な沈黙が流れた。


「‥‥えっ、今日?」


不意に敵の威嚇攻撃を受け、まだ寝ぼけてボンヤリした頭をフル回転させ、事態の収拾把握に努める。

何も思いつかず苦しまぎれに応えた。


「今日は不燃ごみの収集日でもないし、町内の一斉清掃でもないよね‥‥」


それには何も応えず、敵は沈黙を守っている。こちらの出方をじっと待っている気配が感じられた。

(不気味だ‥‥‥)

結婚生活で培った長年のカンにより、発射された一発の質問には何やら策謀が含まれているように察しられる。

(ちょっと待てよ、今日は何の日だっけ‥‥‥)

敵の不意打ちともいえる先制攻撃に対し、【個別的自衛権】で対応するか思案し、身構えた。


「あのサァ、今日は5月17日でしょう?」


敵は2発目を撃ってきた。こちらに迎撃するスキを与えない。
いまさら【憲法解釈】ウンネンなどで手間取っているヒマはない。

しかし、ひたすら平静を装う。
また新聞を手にとった。

すると、いきなり敵はこちらの動揺を察知したのか、間髪を入れず、ピンポイントに強力なミサイルを撃ち込んだ。


「あのサァ、今日は結婚記念日じゃないの!」


反撃できない。
ただただ笑うしかなかった。


――『実に敵という敵の中で山の神ほど恐ろしい敵はない』(森鷗外)


2014年5月3日土曜日

憲法記念日に夏島を訪ねる。


今日5月3日は「憲法記念日」ということで、憲法に関わる場所へ歴史探索に行ってきました。以前より一度訪ねてみたいと思っていた所です。

憲法といっても、GHQに押し付けられた現行憲法ではなく、新しい国家の礎となるよう起草された、【日本人の、日本人による、日本人のための】大日本帝国憲法、いわゆる明治憲法です。

まずは横須賀から車で横浜方面へ国道16号線を走り、京浜急行「金沢八景駅」を過ぎて右折すると、500メートルほど進んだ左手のロータリーに、【明治憲法起草の碑】が建っています。起草メンバーの一人であった金子堅太郎の書です。



しかしながら、この場所は実際に憲法草案を練っていた場所ではありません。起草メンバーの金子や伊東巳代治は、以前この地点より100メートルほど戻った辺りにあった料亭旅館「東屋」に宿泊し、そこで草案の起草作業に励んでいました。いまではその場所に第一生命のビルが建っており、その脇に説明板が設置されています。



ところがこの東屋で大変なことが起こります。ある夜、当旅館に泥棒が忍び込み、憲法草案などの機密書類の入ったカバンを盗まれてしまいます。幸いにも、翌日、近くの畑道でお金だけを抜かれた状態で無事発見されます。盗んだ泥棒も、まさか大日本帝国憲法の草案が入っていたとは夢にも思わなかったでしょう。なんともおおらかだった明治時代の世相が感じられます。

しかし当の起草メンバー本人たちにしてみれば、一大事です。安全のため、夏島と呼ばれる近くの小島の伊藤博文の別荘に移り、草案を完成させます。この夏島の別荘は手狭であったため(12帖半しかなかった)、当初は伊藤ひとりが寝起きしていたようです。つまりそれまで金子と伊東は「東屋」のあたりから小舟に乗り、草案を携えて、その夏島へ通っていたのです。

4人目の起草メンバーであった井上毅も近くの野島の旅館に宿泊していたようで、彼も小舟に乗って夏島の伊藤の別荘へ通っていたようです。夏島は孤島であり、喧々諤々(けんけんがくがく)の議論を戦わせても誰にも聞こえないため、機密を保持するにも都合がよかったのではないでしょうか。

次にその夏島を目指しました。16号線を横須賀方面へ戻り、京急急行「追浜駅」の前を左折して、真っ直ぐな追浜商店街の道を抜けると、そこは広大な日産自動車工場や住友重機械工業横須賀製造所などの建物が連立する工業地帯でした。

夏島は一体どこにあるのかと探しましたが、一向に見つかりません。地図で調べてみると、夏島という孤島は無くなっていました。どうも大正時代に追浜との間の海が埋め立てられ、陸続きとなってしまったようです。その後、一帯は横須賀海軍航空隊の基地となり、少年飛行生制度の「海軍飛行予科練習生(略称よかれん)」の訓練基地とされ、終戦後はアメリカ軍に接収されて1972年に返還されたようです。

夏島側から野島方面を望む。手前は工場群。右手奥には八景島シーパラダイス。
その平坦な工場群の中を奥へ進むと、右側に「明治憲法草案起草の跡」がありました。その記念碑の文章を読むと、憲法起草の場所として使われた伊藤博文の草庵は、この記念碑の200メートル南にあったらしく、現在は日産自動車の敷地内に位置するとのことで、ここへ移設されたようです。ほとんど目立たないこの場所に佇むと、「坂の上の雲」を目指して突き進んだ明治という日本の記念すべき場所であったことに想いを馳せ、感慨深いものがありました。



この起草碑のすぐ横には、いまから9,500年前という国内最古級の「夏島貝塚」もありました。



ちなみに起草メンバーのひとり、金子堅太郎は、初代内閣総理大臣伊藤博文の側近として、その後大活躍します。米ハーバード大学を卒業し、その大学OBとして面識のあったセオドア・ルーズベルト大統領を通じて、日露戦争後のポーツマス会議においてロシアとの講和成立に貢献しています。

金子はもともと九州福岡藩の出身ですが、彼の先祖である「金子十郎家忠」は、源頼朝が鎌倉に幕府を開く以前、衣笠城を居城とする三浦一族を攻めています。その陣屋跡が意外にも我が町内の一画にあります。

さて、改憲か護憲か、これから益々議論が深まっていくことでしょうが、殊に近年の中国の台頭や北朝鮮の核開発問題などを考えると、時代に即した、現実的な憲法が必要とされてきているのではないでしょうか。

伊藤博文は憲法について西欧で法学を学んでいますが、その中で、憲法についてこう教えられたそうです。「憲法は法文ではない。精神である。そして法は、民族精神の発露である」と。

後記

このブログを書き終えて、ふと気づいたことがあったので、書き加えます。この夏島は、縄文時代の貝塚は別として、大日本帝国憲法を生んだ地として、また、中国大陸や南方戦線へ送るため、まだ年若い青年たちを戦闘機乗りにさせるため訓練をした地として、そして世界に誇る自動車産業の拠点として、日本の近代からの歴史が不思議と存在する因果な地であると言えます。。


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