2011年6月4日土曜日

運動会

今日は娘ふたりの小学校の運動会だった。いやはや疲れたぁ~。まったくクタクタだ。関東は梅雨に入ったというのに、今日は幸運にも快晴で、まるで真夏のような陽気であった。おかげで日焼けしてしまい、顔や腕は赤くなっている。

平間洋一氏の『軍都 横須賀』によると、日本で最初の運動会があったのは明治7年(1874)3月16日で、海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)において、短距離(300ヤード)、中距離競走(600ヤード)、長飛(幅跳び)、高飛、玉投(砲丸投げか玉入れかは不明)、飛椅(跳び箱)、二人連三脚徒(二人三脚)、竿飛(棒高跳び)、三段飛びなどの18種目があり、審判員はイギリスの顧問団だったらしい。

興味深いのは、この運動会の開催に際して、兵学寮頭から海軍大臣に対して、「運動会の目的は単に生徒の遊技会ではなく、教育と言えば学術のみを強調し、体育の重要性を知らない。この競技会を広く有識者や国民に知らせ、『文弱の弊風』を打破せんとするものなので、広く国会議員や大臣、各官庁や東京府などの官吏に通知されたい」との依頼文書を出していることである。まさに明治という時代の威風が表れている。

しかし、日本で最初の運動会はそれよりも7年前、横須賀の製鉄所内で行われていたとも言われている。慶応4年(1868)6月27日、「仏蘭西大君(ナポレオン3世)の祭礼」として、フランス人と日本人が『うち交わり、さまざまの面白きこと致す』との張り紙が出され、フランスの顧問団が指導して、「綱渡」「帆柱登り」「両足を袋に入れて走る競技」「走馬競技」「青竹渡り」「日本人の相撲」「飛車にて差水の曲(内容不明)」などの競技が行われ、夜は花火も打ち上げられたそうである。

300年続いた徳川幕府が瓦解し、まだ2ヶ月も経っていない時期に、このような競技を開催したというのは大変面白い。日本人にとって娯楽が乏しかったその当時、この運動会、大変な賑わいになったのではないだろうか。

2011年6月3日金曜日

書評 ー 吉村昭「海も暮れきる」


漂泊の俳人、尾崎放哉の8ヶ月間におよぶ結核による死への悲壮な日々を、巧緻で淡々とした文体で描いた人物伝である。

大正時代末、東京帝国大学法科を卒業し大手保険会社の要職にいたエリートが、酒を飲むと悪態をつくという酒癖の悪さがもとで職を捨て、流浪の人生へと転落していく。若く美しい妻とも別れ、寺男として全国各地の寺を転々とし、最晩年には、終の棲家と決めた小豆島にある西光寺の分院南郷庵の庵主として、結核菌に冒されながら孤独で貧しい生活をおくる。その悲惨な日常の中で、自由律の作風で、「咳をしてもひとり」や「いれものがない両手でうける」など、極限にまで削りとられた数々の句をつくる。

若い頃、結核で同様に8ヶ月ほどの闘病生活を経験した吉村昭でしか書き得ない、放哉の日々刻々と衰弱していく肉体と死の恐怖に揺れ動く精神の記述には、ページをめくるたびに引き込まれる。吉村昭作品の中でも、実弟の癌闘病を克明に描写した『冷い夏、熱い夏』と並び、死生観について考えさせられる秀作である。

この小説を読むと、明治から昭和にかけての文明批評家、長谷川如是閑の次の言葉を思い起こさせる。

「生命は刹那(せつな)の事実なり、死は永劫(えいごう)の事実なり」

2011年6月2日木曜日

放射能について

毎朝、新聞で地域の放射線量をチェックしている。わずかながらではあるが、少しずつ減ってきているようだ。その日の風向きや天候などによって、数値の変動はあるようだが、0.05~0.06マイクロシーベルト台を上下しながら、比較的落ち着いてきているような印象をうける。しかし、まだまだ完全に安全なレベルには達してはいない。一日も早い福島第一原子力発電所での放射能の封じ込めが待たれる。

放射性物質というのは目に見えないし、無臭であり、空気中に拡散するのが怖い。知らない間に体内へ取り込まれ、様々な健康被害を引き起こしかねない。またその影響は子孫にまで引き継がれるという。しきりに政府は、「いますぐ」健康に影響を及ぼすレベルではないと繰り返し説明しているが、いったい誰が将来にわたって保証してくれるのだろうか。やはり国家のエネルギー政策を根本から見直し、原子力に頼らない電力供給の道を探らなくてはいけないと思う。

2011年6月1日水曜日

Let's conserve electricity!

3月11日に起きた東日本大震災により、福島第一原子力発電所での発電が不可能という状態になり、今年の夏に向けての節電が重要な課題になっている。我が家でも、余分な照明はこまめに消し、低俗なテレビ番組もダラダラと観ないようにしている。オフィスでも廊下など無駄と思える照明は消し、ブラインドを開けて自然光をとり入れるようにしている。節電は、一人一人が絶えず意識し、この夏の大規模停電を回避できるように努めたい。

横浜に住んでいる弟は火力発電所関連の仕事をしている。彼の話によると、東電はいま世界各地から発電機を大量に購入しているそうだ。その数や、ハンパではないらしい。アメリカのGEやホワイト・ウェスティングハウスなどの旧型発電機なども、船便で輸送すると時間がかかりすぎるので、空輸しているとのこと。まさに東電はできる限り電力を確保するため、その潤沢な資金を元手に湯水のごとく金を使い、なりふりかまわず発電機を買いあさっているのだ。その購入した発電機を、段階的に縮小してきた火力発電所内の敷地に並べ、夏場の電力需要に応えようとしている。それら発電機によるCO2の排出や近隣住民への騒音被害など目下眼中にないといった状況のようだ。政府も見て見ぬふりをしているのかもしれない。

ソフトバンクの孫正義氏が、全国の休耕地を利用した太陽光発電へ触手を動かしている。さすがに経営の決断がはやい。今般の原子力発電の問題を受け、今の状況をビジネスチャンスと見ているようだ。地方自治体の首長たちも興味を示している。これからの時代は、風力や太陽光のような自然エネルギーを利用した安全な環境に優しい発電が必要となってくるだろう。また、蓄電技術も重要なカギになってくるだろう。これらの分野での、技術大国日本のリーダーシップが求められている。

さてと・・・、今日のブログもこれくらいにして、節電のため、そろそろパソコンの電源を切ろうかな(苦笑)。

2011年5月31日火曜日

今の政治状況について

自民党の内閣不信任決議案提出に、小沢一郎派の民主党議員たちが賛成にまわるようだ。情けない・・・(嘆息)。

東日本大震災の復興や福島第一原子力発電所での放射能封じ込め対応で大変なこの時期、いったい何をしているのか。憤りを感じるとともに、呆れ返ってしまう。「菅おろし」に割く時間と労力をもっと今やるべきことに集中させるべきではないのか。まったく開いた口がふさがらないとはこのことだ。わが国にとって、このまさに1000年に一度の大災害に対して、政府がこのテイタラクでは我々国民にとっては悲劇だ。いまはトップを代えるよりも、与野党一致団結し英知を結集して、この困難に打ち勝っていくことだと思う。

それにしても、小沢一郎という政治家はいったい何をしているのか。お膝元の岩手では多くの被災者がいまでも不自由な避難所生活を強いられ、放射能による農産物への風評被害も深刻な様相を呈してきている。震災発生後、真っ先に現地へ行って、その豪腕といわれる指導力を発揮すべきではなかったのか。ダム工事での利権をむさぼることしか頭にないのかもしれない。いまこそ彼の政治家としての底力を見せてほしいものだ。100人ほどいるといわれる彼の取り巻き連中も、この国難を直視し、いま行動すべきことは何かを自問して欲しい。

話は変わるが、最近、豪腕小沢一郎が、力ばかり強い「ジャイアン」に、優柔不断な鳩山由紀夫が、口先だけの金持ちのお坊ちゃま「スネ夫」に見えてしょうがない。誰かドラえもんのような人が出てきて、いまのこの状況を一気に解決する魔法のような秘策をポケットから出してくれないものか・・・。そう言えば、以前、「のび太」にそっくりな首相がいたなァ~(笑)。

2011年5月30日月曜日

書評 ー 吉村昭「冷い夏、熱い夏」


珠玉の作品

いままで数多くの吉村昭作品を読んできましたが、私にとってこの小説は、その中でも珠玉の作品といえます。ひたすら死へと向かう弟を見つめながら、深い兄弟愛と、あくまでもガン告知をしないという葛藤と苦悩とが、硬質な文体によって淡々と語られています。作品全体を流れる静謐な空気と低音な旋律が、死というテーマを一層際立たせています。文学に対する吉村昭という小説家の恐ろしいまでの執念を感じました。

2011年5月29日日曜日

ブログ再開

しばらくぶりにブログ再開です(苦笑)。昨年の10月からですから約半年ぶりです。

この間に起こったことを箇条書きに記すと、

① 年末恒例になった「歴史を訪ねるひとり旅」で、伊豆の下田に滞在した。マシュー・ペリー提督上陸地点やタウンゼント・ハリスが日本に最初に設置した米国領事館の玉泉寺、また、吉田松陰が密航を企て黒船へと漕ぎ出した弁天島や勘定奉行川路聖謨とロシア海軍提督プチャーチンとの間で取り交わされた日露和親条約の舞台となった長楽寺などを見てまわった。その後、西伊豆の戸田(へだ)を訪ね、津波で壊滅的被害を受けたロシア軍艦ディアナ号や、当時、洋船の知識もなく苦労の末に日本人船大工たちによって建造されたヘダ号の資料などを見てまわった。吉村昭著の「落日の宴 勘定奉行川路聖謨」に感動し、思い立った旅だった。

② 年が変わり、1月15日から1週間、アメリカ南部のニューオリンズへ研修。毎年この時期に、世界各地の米軍基地から住宅に関わるスタッフが集まる。ヒルトンホテルでの滞在は快適だった。夜は、ホテル真向かいにあるカジノで遊んだ。見渡すかぎりスロットマシーンが並ぶ巨大なそのスケールには圧倒された。さすがはアメリカだ。歓楽街として有名なフレンチクォーターへも足を運び、全身に音楽と酒を浴びるほどだった。いま思い出しても一体研修で何を得たのだろうかと思う(汗)。研修が終わると、サンフランシスコ郊外にあるフェアフィールドに住んでいる古い友だちを訪ね、1週間ほどお世話になった。ゴルフ場脇にある4ベットルームの邸宅で、室内は日本滞在中にコレクションしただろう数多くの骨董品が飾られ、まるで博物館のようだった。

③ ついに老眼(遠近両用メガネ)を購入した。年はとりたくないものだ。ついでに仕事で使用する、パソコン用メガネも購入。読書用としても重宝している。

④ 3月11日の東日本大震災によって引き起こされた東京電力福島第一原子力発電所の事故に伴って、アメリカ軍人家族の国外退去が始まり、その対応に多忙を極めたが、一旦退去が収まると、1ヶ月ほどはヒマであった。いまではほとんどの家族が帰ってきている。原発の1日も早い収束が待たれる。震災によって亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに、現在も不自由な避難所生活を余儀なくされている方々を思うと、胸が痛む。

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