2015年11月1日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(25)」

マドリッドでは、そのほかに荘厳な王宮やプラド美術館を訪ねました。とくにプラド美術館は素晴らしかった。スペインを代表する画家、アル・グレコやセルバンテスなどの絵画が展示されてあり、その独特な色合いと構成は美術鑑賞素人(しろうと)の自分でも感動しました。それぞれの絵に表現されている宗教的背景や歴史を理解できていれば、作品の魅力も増すのではないかと思いました。パリのルーブル美術館も感動しましたが、プラド美術館も引けをとらない芸術の宝庫でした。この貴重な体験以来、絵画芸術の魅力に惹かれ、帰国後も美術館へ足を運ぶようになりました。

マドリッドを後にし、南へ少し下ったトレド(Toledo)という街へ向かいました。おそらく赤居さんがスペインでどうしても訪ねてみたい場所だったようです。トレドはアル・グレコを輩出した街です。城壁に囲まれた中世の街並みは、一見の価値があります。まるで何百年も時間が止まったような雰囲気でした。ゆっくりと古い石畳を歩いていると、タイムスリップしたような感覚におそわれました。街の南側には旧市街を取り巻くようにテージョ川が緩やかに流れています。

トレドの街を散策したあと、進路を東に変え、バレンシア(Valencia)へと向かいました。世界遺産のアルハンブラ宮殿で有名なスペイン南部のグラナダ(Granada)やセビーリャ(Sevilla)へも足を延ばしたかったのですが、やはり時間的・金銭的制約によって泣く泣く諦めました。広大なアフリカ大陸を目の前に、是非ともジブラルタル海峡を見たかった。残念です。したがって、ポルトガルも訪ねることができませんでした。

バレンシアはオレンジなどの果実が豊富で有名です。街の市場に行くと、色とりどりのフルーツを売っていました。あたり一面に甘い香りが溢れていました。ひとつオレンジを買ってナイフを入れると、誤って指を切ったかと思うほど真っ赤な汁が滴り出ました。ひと切れ食べてみると、甘酸っぱい果汁が口の中に広がりました。

バレンシアでは、ビーチへ行きました。真っ白な砂浜と真っ青な空、それに群青色の地中海が目の前に広がっていました。まず一番に眼を引いたのが、スパニッシュ女性の美しさでした。とび色の瞳に小麦色の肌が印象的でした。世界にはこんなに美しい女性たちがいるのかと、唖然としました。赤居さんとしばらく口をアングリと半開きにして、セクシーなビキニ姿のそんな彼女たちを眺めていました。まさに至福の時でしたね(笑)。

(つづく)

2015年9月9日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(24)」

スペインの首都、マドリッドへ向かう列車は、順調に砂漠の中を走っていました。南欧の強い日差しが窓から差し込んできました。ウトウトとしていると、また突然、列車が止まってしまい目が覚めました。窓の外を覗くと、そこは駅でもなく、砂漠の途中の何もないようなところでした。また速く走りすぎて故障でもしたのかと思い、前方を見ると、運転手が昼食をとっていました。驚いたことに乗客は誰一人それについて苦情を言っていません。みんな運転手の食事が終わるのをボンヤリ待っているようでした。なんとも長閑(のどか)な光景でした。

マドリッドに到着しました。パリからの長い長い列車の旅でした。空気は乾いていて、街の雰囲気もフランスとは違っていました。街全体が、開放感に溢れていて、明るく、時間の流れが緩やかで、のんびりしているようでした。しかし治安はあまりよくないようでした。驚いたことに、街のあちこちに公衆電話ボックスがありましたが、その中には肝心の電話機がありませんでした。どうもすべて盗難にあったようで、電話機もろとも外されていました。

スペインといえば闘牛ということで、赤居さんと一緒に闘牛場へ行きました。そこは小さな野球場といった場所でした。派手な衣装を身にまとった闘牛士が現れ、次々と暴れ狂う牛たちの眉間にすれ違いざまに剣を刺していきました。まさにテレビで観たことのある光景です。観客たちの興奮も最高潮に達しました。これこそスペインに来た甲斐があったものです。闘牛ショーを満喫しました。闘牛場の裏手では、牛たちを解体していました。コンクリートの床に真っ赤な血が流れていたのが、今でも鮮明に思い出されます。

マドリッドを訪ねた理由の一つは、以前、ブライトンで同居人だったサルバに再会するためでした。短い期間でしたが、慣れないイギリスでの留学生活を共にした友人でした。ヨーロッパ旅行に出発する前に、あらかじめ手紙で訪ねる予定を伝えていました。再会できる喜びを綴りました。彼の奥さんと会えるのも楽しみの一つでした。サルバも、再会を楽しみにしているとの返信をくれました。現在のようにメールで簡単にやり取りできる時代ではありませんでしたので、手紙の一字一字に心がこもっているようで、愛(いと)おしく感じられました。

サルバとの再会は感動でした。うっすらと涙が出ました。固い握手をして、抱き合いました。日本人以外では始めての友人でしたので、感動はまたひとしおでした。彼はまったく変わっていませんでした。かつてのように立派な黒髭をたくわえていました。その横には奥さんも一緒でした。とても美人でした。陽気な人で、少々寡黙(かもく)なサルバにはよく似合っていました。二人には、マドリッドでも有名なレストランで食事をご馳走になり、王宮にも連れて行ってくれました。彼との友情がまた一段と深まりました。はるばるマドリッドを訪ねて本当に良かった。

(つづく)

2015年8月9日日曜日

世にも怪奇な物語 PART II

以前、夜中ひとりで寝ている折に女性の声を聞いた不思議な体験を書きました。

コチラ → http://c007jp-sam.blogspot.jp/2015/06/blog-post_18.html

とても恐ろしい体験でしたが、その後日談があります。

女性の声を聞いたあと、うちのヤマノカミ(妻)に話したところ、『ご先祖様の一人が、あなたに何か伝えたいことがあるんじゃないの。最近九州では豪雨続きだし、お墓のあたりに土砂崩れでも・・・』と、不安そうに言いました。『まさかぁ・・・』とは思いましたが、気になったので実家の父親に連絡しました。

父親は笑いながら、『気にすんな、お前も長年生きとると色んなことがあるさ。お墓には時々行っとるけん、大丈夫』と、心配もしていませんでした。 それ以来、電話したこともすっかり忘れていました。

ところが、その後、家族で旅行へ行っていた折、突然、父親から携帯に連絡がありました。声の調子が少々興奮しているのようでした。それによると、久しぶりにお墓の掃除に行ったら、古い自然石を使った緒方家代々の墓石のひとつ、夫婦で隣り合って立てられてある墓石の女性側に、矢竹が倒れかかり、その笹が覆いかぶさって、葛(かずら)が絡(から)まっていたとのことでした。なぜか女性の墓石側だけがそういう状態だったようです。

父親はそれを見て、息子(私)が夜中に女性の声を聞いて電話してきたことを思い出し、あまりの不思議さに驚いて連絡をしたとのことでした。やはりあの声の主は、何かを訴えるためだったのでしょうか。

不思議なことはそれだけではありませんでした。その旅行中、周りに草木もない、見渡す限りの砂浜で家族と座って海を見ていると、大きくて美しいアゲハ蝶がずっと離れず回りをヒラヒラと飛び回っていました。スピリチュアルの世界では、蝶々というのは霊的存在だそうです。今思うと、お墓がきれいになったお礼をするために現れたのでしょうか。

やはり、この世の中には不思議なことがあるものだ、と改めて痛感しました。

2015年7月19日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(23)」

パリを出発した列車は、ずいぶんと長い間フランス国内を走りました。列車の単調な揺れと振動音に、疲れてもいたので、床に座り込んでリュックを抱えて眠ってしまいました。ふと眼が覚めて前を見ると、途中から乗り込んできた若いカップルが、同じように座って肩を抱き合って眠っていました。隣を見ると、赤居さんがスヤスヤと寝息を立てていました。

列車が突然音を立てて停止しました。スペインとの国境に到着したようでした。イルン(IRUN)という名の駅でした。これからスペインへの入国手続きをするため、パリから乗ってきた列車を降りました。暗い中、目を凝らしてみると、フランス側の駅舎は大理石造りで、スペイン側は粗末なものでした。そんなところにも、まさに両国の経済力の差が出ているようでした。

入国手続きを済ませると、スペイン側の列車に乗り換えました。本当かどうかは判然としませんが、フランス側とスペイン側では線路の幅が違っているので、乗り換えなければならないようでした。新たに乗り込んだ列車は年季の入った車両でした。それだけで、もうスペインへ入国したんだなぁ、と感慨深いものがありました。

今度は座席も空いていました。長い間、床に座っていたので、お尻が痛くなっていました。古くなってスプリングのあまり効かない座席でしたが、床よりはマシでした。車両が古いので、フランス側の列車よりも揺れや振動が大きいように感じました。しばらく走って窓の外を眺めると、一面砂漠のような景色が広がっていました。

太陽が次第に上り始めました。列車内の冷房もあまり効かないようで、暑くなってきました。汗がじっとりと出てきました。しばらく砂漠の中を走っていると、突然、車両の両サイドから白い煙が立ちのぼってきました。故障かな、と思って、隣の座席の乗客に尋ねると、たぶん速く走りすぎたので車輪と車軸との摩擦で煙が出たんだろう、と屈託(くったく)のない顔で笑っていました。唖然(あぜん)としてしまいました。

窓の外を見ると、運転手が車輪のあたりを調べていました。しきりに首を傾げているその様子には、別段、慌てているようでもなく、よくある不具合のようでした。隣の乗客が言ったことも、まんざら冗談ではないのかな、と思えました。その後、何事もなかったように、列車はまた走り出しました。目的地のマドリッドは、まだ遥(はる)か遠くにありました。

(つづく)

2015年7月7日火曜日

「20歳(ハタチ)のころ(22)」

パリでは、結局2泊しました。もっと美術館巡りなどもしたかったのですが、時間的、金銭的制約もあり、希望通りにはいきませんでした。石畳通りに面したカフェに座り、道行く人たちをボンヤリ眺めて過ごしました。

赤居さんはというと、隣でしきりにガイドブック『地球の歩き方』を読んでいました。これから訪ねる場所の確認をしているようでした。まさに赤居さんを頼りにしている旅行でした。赤居さんが一緒に居ないと、確実に路頭に迷ってしまったかもしれません。

パリの街角を彼方此方(アチコチ)歩き回ったので、二人とも汗をかいていました。長髪の頭も次第に痒(かゆ)くなってきていました。そこで市民プールへ行くことにしました。思いっきりシャワーを浴びて、温泉にでも浸かっているように、プールでしばらくプカプカ浮いていました。

身体を洗うのに石鹸を使えたらよかったのですが、そうも出来ませんでしたので、プールの水でゴシゴシと身体を擦(こす)りました。赤居さんも同じように擦っているのを見て、思わず爆笑しました。憧れのパリに来て、プールでしきりに身体をクネクネさせながら擦っているのは、なんとも滑稽でした。まわりにいた人たちに気づかれはしませんでしたが、さぞかし迷惑だったでしょうね。二人ともサッパリとリフレッシュして、次の目的地であるスペインのマドリッド(Madrid)へと向かいました。

夕方、パリの駅を出発しました。マドリッドへは次の日の到着予定でした。夕暮れのパリは美しく、立ち去るのは名残惜しい気持ちがありました。しかし、これからヨーロッパ中を訪ね歩くのですから、そうも言ってはおれません。列車に乗り込むと、座席はどれも一杯でした。仕方ないので、赤居さんと車両どうしの連結部分脇の床に座り込みました。このまま夜通しここで過ごすのかと思うと、憂鬱(ゆううつ)になりました。

時折、立ち上がっては、出口ドアの窓を通して、外を流れる景色を眺めていました。暮れなずむ空には、ぽっかりと銀(しろがね)色の月が浮かんでいました。パリの郊外に出ると、一面、どこまでも田園風景が広がり、フランスは豊かな農業国であるということが分かりました。列車は単調な振動音を繰り返していました。月明かりに照らされた風景を見ていると、旅愁が感じられました。月が列車と並走していました。次に訪ねるマドリッドでは、ブライトンで同居していたサルバに再会する予定でした。手紙には、奥さんと一緒に首を長くして待っている、とありました。

途中、どこの駅かは分かりませんが、若いカップルが白い子犬を連れて、乗り込んできました。二人とも大学生のようでした。私たちの反対側の床に肩を寄せあって座っていました。子犬がそんな二人のまえでクンクンと鼻を鳴らしていました。お互い愛し合っていて、とても幸せそうでした。30数年経ったいまでも、古い映画のワンシーンのように、その情景が浮かんできます。いまでも覚えているのは、そんな二人の姿を横目で見ていて、余程、羨(うらや)ましかったのかもしれません(苦笑)。あの二人はその後、きっと幸せな結婚をしたでしょうね。そして、おそらく犬を飼っていることでしょう。

(つづく)
 

2015年6月18日木曜日

世にも怪奇な物語

昨夜、今まで経験したことのない出来事がありました。いま思い返しても、とても不思議です。まさか自分自身にそんなことが起きたこと自体、いまだに信じられません。

夜中、ベッドにひとりで寝ていると、突然、女性の声が聞こえました。明らかに女性の声でした。左側を下にして横向きに寝ていたので、ちょうど右耳の近くで聞こえたのです。その声は、はっきりと聞こえました。内容はわかりませんでしたが、若い女性の声だったのは確かです。一瞬で眼が覚めました。しかし、あまりの恐怖に眼を開けることができませんでした。

最初は、隣の部屋で寝ている娘のひとりが、また寝言でも言っているのかと思いましたが、その女性の声は明瞭な音で、部屋の中から聞こえているのは明らかでした。寝室のドアは閉まっていましたし、そこには、私しかいませんでした。もちろん、テレビもラジオも消してありました。若い女性の低くて澄んだ声でした。その声は、部屋の中で続いていました。

とうとう自分にも聞こえてしまった、と思って、しばらく怖くて眼を開けることができませんでした。恐怖で身体が震えてきました。その声に対して何も出来ず、ベッドにそのままの状態でじっとしていました。震えが止まりませんでした。すると、声が消えたので、意を決して、眼を開けました。しかし、暗闇で何も見えませんでした。

声が聞こえた方に向かって、「誰ですか? どうしましたか?」、と声をかけました。しかし部屋の中はシーンと静まりかえっていました。『彼女』は、何も答えてくれませんでした。何度か声をかけましたが、沈黙が続きました。すると、何故か今までの恐怖は消え去り、震えもおさまりました。ベッド脇の目覚まし時計を見ると、3時を少し過ぎていました。

一体、彼女は誰だったのでしょうか? また、どうして私に声をかけたのでしょうか? 声の調子は、悲しんでいるようでも、苦しんでいるようでもありませんでした。先祖のひとりが何かを告げに来たのでしょうか? それとも行きずりの霊とたまたま波長が合ってしまったのでしょうか? あくまで幻聴だったということもありえますが、なんとも不思議です。

早速、一階に寝ていた妻を起こしました。何度か女性の声が聞こえた、という私の話を聞いた彼女は、また冗談を言っている、と思っているようでした。しかし異様な体験をした真剣な様子に、本当に起きたことだと信じてくれました。霊の声を聞いたのは、もちろん生まれて初めてでした。

また今夜も彼女は現れるのか、今からドキドキしています。

2015年6月14日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(21)」

パリでは、まずは最初にお決まりの観光コースとして、ルーブル美術館へ行きました。大理石造りの立派な建物で、それぞれの展示スペースの広さには驚きました。やはりルーブルに来たからには、レオナルド・ダビンチ作のモナリザを観なければと思い、眼前にその「謎の微笑」を見たときには感動しました。絵を前に右や左に動いても、モナリザの瞳がどこまでもこちらを見詰めて追いかけてきました。まるで生きているようで、なんとも不思議でした。流石(さすが)は天才ダビンチだ、と感心しました。ふと横を見ると、ハリウッド・スターのジェーン・フォンダが同じようにモナリザを鑑賞していました。

ルーブル美術館は、ミロのビィーナスなどの古代ギリシャの芸術作品や、エジプトの遺跡からナポレオンがかき集めたという数々の品々、そして膨大な数の有名絵画が展示されてあります。それぞれの作品をじっくり鑑賞して歩いていると、一日あっても足りないほどの規模です。残念ながら時間的制約もあり、結局、足早に観て歩かなければなりませんでした。いま思うと、もう少し予定を延ばして滞在する必要があったようです。パリは芸術・文化の街と言われていますが、ルーブル美術館はその象徴的な存在です。

パリのどこをどう訪ねて廻ったのか、いまでは記憶にありません。シャンゼリゼ通りを凱旋門へ向かってブラブラと歩き、お決まりのようにエッフェル塔を手のひらに乗せたような写真を撮ったのは覚えています。それと、「おノボリさん」の文字通り、塔に登ってパリの街を一望しました。セーヌ川沿いを散策し、せむし男で有名なノートルダム寺院も訪ねました。お腹が空いたので、フランスパンのハム・チーズサンドを買って食べました。まるで煉瓦(レンガ)のように硬いパンでした。

芸術家たちの溜り場ともいわれているモンマルトルの丘あたりへも足を運びました。辺りはもう日が暮れて薄暗く、古いアパルトマンの立ち並ぶ路地を赤居さんとトボトボと歩いていると、妖しい娼婦に何度も声をかけられました。一日中、歩き回っていたので、疲労困憊(こんぱい)している二人には、正直もうそんな元気は残っていませんでした(苦笑)。どんな女性でも美人に見える設定条件に、『夜の目、遠の目、傘のうち』、と言われていますが、薄暗い中でみる娼婦たちは、皆すこぶる美人でしたね。

(つづく)

2015年6月7日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(20)」


ドーバー海峡を無事横断しました。

フェリーの乗り心地は上々でした。よほど興奮していたのかもしれません、フランス側のカレーに到着したあたりの記憶が欠落しています。その後、どのようにパリへ向かったのか、遠い微かな記憶を探ってみても、あいにく覚えていません。おそらく夕暮れ迫る頃にカレーへ到着し、入国審査を済ませ、その足でパリ行きの列車に乗ったのでしょう。カルガモの雛(ひな)のように、旅慣れた赤居さんに遅れないように後ろをついてゆくので必死だったのかもしれません。

カレーからパリまでは急行で1時間半ほどで到着します。パリに着くと、辺りはすでに暗く、やっと安ホテルを探して、ベッドへもぐりこみました。情景の記憶は曖昧(あいまい)ですが、臭いについての記憶は比較的残るようで、ベッドに入ったときに嗅いだ饐(す)えたようなカビの臭いを覚えています。あくまで学生の貧乏旅行ですから、文句はいえません。一応、最初の目的地であるパリへ無事にたどり着いたことにホッとしました。

そんな次の日の早朝、突然ものすごい音がして、ベッドから跳ね起きました。何事が起きたのかと、一気に窓を開けてみると、その目の前に教会の巨大な鐘(かね)がありました。ゴゥオーン・ゴゥオーンと荘厳な鐘の音がホテルの部屋中に響きわたりました。窓際に立って、呆然とその鐘を見つめていました。パリの朝日がその鐘を輝かせていました。

昨晩ホテルにチェックインしたときには夜も更けていたので、ホテルの目の前が教会の尖塔であることに気づきませんでした。ただ驚いてしまって、すっかり眼も覚めてしまいました。パリでの第一日は、こうして始まりました。まるでヨーロッパ旅行スタートの号砲のようです。

後年、同じような経験をしたことがあります。結婚してまだ日も浅い頃、神戸の祖母が亡くなりました。その葬儀は禅寺で行われ、新妻と本堂に泊り込みました。するとまだ夜も明けやらぬ頃、突然、寺の釣鐘(つりがね)がすぐ近くで鳴り響きました。その轟音に即座に飛び起きてしまいましたが、となりで寝ていた妻はスヤスヤと寝息を立てていました。まるで何事も起こっていないというように、ピクリともしていませんでした。その安らかな寝顔を眺めながら、これはスゴイ女を嫁にもらった、と苦笑しました。

(つづく)
 

2015年5月27日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(19)」

結局、ヨーロッパ旅行へは、赤居さんと二人で出発することになりました。関戸さんは、あいにく夏季特別講習の予定が入ってしまって、私たちより遅れてイギリスを出発することになりました。イタリアあたりで会おうということになりました。もう30年以上も前のことですから、実際、何処でどのように再会したのか記憶が欠落していて、どうしても思い出せません。当然、携帯電話もない時代ですから、どのようにお互い連絡をとりあって落ち会ったのか、まったく憶えていません。

関戸さんが始めから同行しないのは至極残念でした。この旅行のもともとの発案者であるにも拘(かかわ)らず、一緒に出発できないことになり、関戸さんはしきりに恐縮していました。しかし、再会を期して赤居さんとロンドンへ向けて出発しました。これからの旅がどのような展開になるのか、炭酸水の気泡が沸々と湧き立つように、胸は期待で次第に膨らんでいきました。

ケンブリッジ駅から南に真っ直ぐロンドンのリバプール・ストリート駅(Liverpool Street Station)を目指しました。到着後、地下鉄に乗り換えてヴィクトリア駅(Victoria Station)まで行き、それから東へと向きを変え、フェリー乗り場のある東海岸のドーバー(Dover)へと向かいました。ドーバーは、海峡を渡ってフランス側のカレー(Calais)へと向かう、イギリス側の出発地点です。1994年に英仏海峡トンネル(英国名 the Channel Tunnel 仏名 le Tunnel sous la Manche)が開通し、いまでは列車によって両国は繋がっていますが、その当時はもちろんありませんでした。

紀元前55年、かの有名なローマ帝国のシーザーが、このドーバーの北の海岸に上陸しています。彼は、その当時のイギリスを、ローマ帝国の属州<ブリタニア>とする 端緒をつくっています。また17世紀には、革命によって大陸へ亡命していたチャールズ2世が、1660年の王政復古によって帰国の第一歩をしるしたのもこのドーバーの海岸です。大勢の群衆、貴族、軍隊に埋めつくされた歓喜の中を、王政復古の立役者ともいえるモンク将軍が渚(なぎさ)まで国王を出迎えています。

フェリー乗り場は、同じ学生たちの旅行者で溢れかえっていました。みんな判で押したように同じようなヨレヨレのTシャツに擦り切れたジーンズといった格好でした。背中には、同様に大きめのリュックを背負っていました。かれらも夏休みを利用して、ヨーロッパ各地を旅行するようでした。フェリーや鉄道を乗り継いで気ままに旅をするというのは、やはり時間はたっぷりあるけど、フトコロは寂しいという同じ立場のようで、妙な仲間意識を覚えました。

出国手続きを済ませると、'Sea Link'と船腹に大きく書かれたフェリーは、ゆっくりと岸壁を離れました。一路、フランス側のカレーへとその船先を進め、ドーバー海峡を渡ります。振り返ると、イギリス側の白い石灰岩の海岸線が望めました。不思議なことに、故郷を離れるような想いに駆られました。くだけ散る波の音と海鳥の鳴き声があたりに響いていました。これから始まるヨーロッパを巡る旅に、一抹(いちまつ)の不安や期待が交錯していました。赤居さんとふたり、船のデッキに立ち、全身に潮風を浴びていました。イギリスは、次第に離れていきました。

(つづく)

2015年5月13日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(18)」

ヨーロッパ旅行への準備を始めました。あくまで野宿覚悟の貧乏旅行ですから、まるでヒマラヤにでも登るのかと思うほどの大きめのバックパックや寝袋を購入しました。それに折角の旅行ですから、記念になるような写真を撮るため、ライオン・ヤード近くのカメラ店で新たに一眼レフを購入しました。もちろんメイド・イン・ジャパン(Made in Japan)です。店員も、日本で買った方が安いんじゃないか、と冗談を言って笑っていました。それもそうだな、と思いました。それと同時に、少々散財したかな、と後悔しました。

赤居さんの練りあげた旅行計画は、次のようなものでした。まずはロンドンへ列車で行って東へと向きを変え、フェリーでドーバー海峡を渡ってフランスは花のパリを訪ねる。ルーブル美術館でモナリザを鑑賞して芸術的感性を刺激し、シャンゼリゼ通りをぶらついて凱旋門を見上げ、エッフェル塔に登ったあと、モンマルトルの丘のカフェで詩想に耽る(ふけ)る。そして一路、列車でスペインのマドリッド、トレド、そしてバルセロナへと足を伸ばして建設中のサクラダ・ファミリア教会を見物し、そのあと地中海沿いにモナコやフランスのニースに立ち寄って、ビーチでビキニやトップレスのオネェイちゃん達を眺めながら眼の保養をする。

イタリアに入ってからは、ジェノア、ミラノ、ローマ、フィレッチェと歴史遺跡群を訪ねて知的興奮を覚え、水の都ベニスから一路北へ向かって、衝立(ついたて)のように眼前に聳(そび)えるスイス・アルプスを仰ぎ見て感動し、オーストリアの音楽の都ザルツブルグやウイーンへと巡ってクラッシック愛好家のような振りをしてワルツなどを堪能する。その後ドイツへ向かって、ミューヘンのビール祭りでたらふく美味しいビールを飲み、フランクフルトで地元本場のソーセージを食して英気を満たし、オランダのアムステルダムでは運河沿いの飾り窓を巡って性風俗の社会見学をする、等など。

正直、ポルトガルのリスボンやギリシャのアテネへも足を伸ばしたかったのですが、知り合った両国の留学生もいなかったし、時間的・金銭的余裕もなかったので、泣く泣く諦めました。しかし、ほぼヨーロッパ全域をカバーした旅程でした。途中、それぞれの友達がいたので、別行動をとることもありましたが、まさに三人での珍道中となりました。旅は人生を豊かにする、と言いますが、まさしく貴重な体験をすることができました。

(つづく)

2015年5月4日月曜日

「20歳(ハタチ)のころ(17)」


関戸さんに関しての話は尽きません。人間的にも非常に魅力的でした。長野の実家は運送業を営んでいるとのことでした。その関係もあって、大学卒業後は日本通運本社に就職したそうです。入社式では、新入社員総代として挨拶をしたようです。英国留学によって得られた貴重な財産の一つとして、関戸さんと知り合えたことだったように思えます。人生において、人との出会いは大切です。そのことをつくづく感じさせます。

当初から関戸さんは、ケンブリッジから英国北西部の大学へ転入する予定でした。かれの留学の目的のひとつでもあった、本場のラグビーを体験したいとの希望を叶えるためです。国際関係論を学んで、政治の道へ進みたいという希望も語っていました。日本へ帰国した後は、かねてから交際していた彼女と結婚し、その長野での結婚式には、私も九州から参列しました。関戸さん夫婦はその後、仕事の関係上、シンガポールでしばらく生活したようです。

ある天気の良い日、関戸さんといつものように近所のパーカーズ・ピースと呼ばれる広い公園の芝生に腰をおろして、チャーシュー・フライド・ライスを食べていました。見上げると、真っ青な空が広がっていました。そよ風が吹いていました。そんな中、空腹も満たされ、ふたりで他愛もない話をしていると、関戸さんがふいに、夏休みを利用してヨーロッパを旅行してみないか、と芝生に横になりながら呟きました。もちろん赤居さんも一緒です。ワインバー『シェイズ』で親しくなった留学生たちを訪ねるのもいいな、と笑っていました。夏休みになると、一旦、母国へ帰る留学生たちも多いからです。

それを聞いて、「せっかくイギリスにいるんだから、3人でヨーロッパを旅するのも面白いかもしれません」、と即答しました。、関戸さんはそれを聞くと、赤居さんの都合も確かめず、「よし、決まった!」、と両手をパチンと叩いて起き上がりました。それからは、それぞれの希望の訪問地を持ち寄り、旅行の予定を立て始めました。しかし結局は、赤居さんがすべての計画を練り、それに沿って3人は旅を続けることとなりました。

(つづく)

2015年4月25日土曜日

「20歳(ハタチ)のころ(16)」

ケンブリッジでの生活もすっかり慣れ、留学生活を満喫しました。

授業が終わると、ライオン・ヤード(Lion Yard)にある本屋や図書館へ直行しました。学生街ということもあり、図書館内の施設や蔵書も非常に充実しており、様々な本を時を忘れて読んだ記憶があります。まさに、お金はないけど、時間は有り余るほどある、といった生活でした。

殊に、歴史家G.M.トレヴェリアン(G.M.Trevelyan)の『イギリス史』は愛読書でした。辞書を頼りに、没頭しながら読みました。その中でも、ノルマンディー候ウイリアム征服王の記述は、とても興味深いものがありました。夫婦ともども異常なほど小柄で、殊に征服王はその晩年、腹部が異様に膨らみ、亡くなったときに柩(ひつぎ)に収まりきらず、無理に押し込むとお腹が破裂して、あたり一面、異常なほどの臭気が漂ったそうです。ロンドンへの小旅行の折、ウエストミンスター寺院内の奥でウイリアム王夫妻の柩(ひつぎ)を見ましたが、やはりその小ささには驚きました。まるで子供のようでした。

関戸さんは、大学教授のお宅にホームステイをしていました。ケム川(Cam River)沿いの白壁に大きな木組みの家だったような記憶があります。関戸さんは、その明るくて、ひょうきんな性格のおかげで、ホームステイ家族みんなからも親しくされていたようです。神経質そうな銀髪の奥さんと、中学生くらいの可愛い娘がいるといっていました。その娘から日本について様々な質問を浴びせられ、ひとつひとつ答えるのに苦労している、と笑っていました。

その質問のひとつに、「どうして日本人は電話をしているときも、受話器を持ったままお辞儀をするのか?」、と訊いてきたそうです。関戸さんがどのように返答したかは覚えていません。関戸さんによると、その娘は学校での成績も優秀らしく、夜中の3時くらいまでひたすら本を読んでいると驚いていました。ある日、「三島由紀夫の作品をどう思うか?」と訊かれたそうです。イギリスの中学生が、遠い日本の三島由紀夫をすでに読んでいるという事実に愕然(がくぜん)としたそうです。

(つづく)

2015年4月19日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(15)」

ロンドンへは何度も足を運びました。とても魅力的な都市です。大きなテムズ川が市の中央を流れていて、歴史的建造物が所狭しと並んでいます。広大なハイド・パーク(Hyde Park)やバッキンガム宮殿につながるセント・ジェイムズ・パーク(St. James’s Park)など、緑が豊かで美しく、散策や憩いの場所として大好きでした。

歴代のイギリス王が埋葬されてあるウエストミンスター寺院、テムズ川沿いの国会議事堂のビッグベンや血塗られた歴史のロンドン塔など、歴史好きにはたまらない場所が数多くあります。また大英博物館は何度行っても飽きることはありませんでした。バッキンガム宮殿へと真っ直ぐ伸びるザ・モール(The Mall)を壮麗に行進する衛兵交代式も一見の価値があります。

イギリスには通常のホテルとは別に、B&Bといってベッド・アンド・ブレックファースト(Bed & Breakfast) と呼ばれている簡易ホテルが各地にあります。一度、赤居さんやスイス人留学生の女性二人とロンドンへ小旅行へ行ったことがありました。宿泊の予約もせず行き当たりばったりの旅行だったので、どこもホテルは予約でいっぱいでした。

B&Bをやっと一軒探し出し、宿泊をお願いすると、4人部屋の一つしか空いていないということでした。仕方ないので(?)、そこへ泊まることになりました。しかし、すぐ隣のベッドで金髪の若い女性が二人寝ていると想像しただけで、その夜は何度も寝がえりをうって、なかなか寝つけませんでした。赤居さんも同じ心境だっただろうと思います。若い頃、特に、男の妄想(もうそう)というものは、制御不能になると、果てしなく限りがありません。

手元には、タワー・ブリッジ(Tower Bridge)を背景に、テムズ川沿いで撮った古い写真があります。雨の多いロンドンのことですから、手には傘を持って写っています。女性ふたりと並んで撮ったので、赤居さん同様、妙にニヤけて写っています。明治の文豪、夏目漱石はロンドンでの留学中、神経衰弱になってしまったそうですが、私にとって、当初のホームシックを克服した後は、まさに充分に英国での生活を満喫していました。

(つづく)

2015年4月13日月曜日

「20歳(ハタチ)のころ(14)」

ブライトンでの短期語学留学を終えました。それとともに、スペイン人の留学生サルバとも別れることとなりました。彼は、日本人以外では初めての友人でした。短いながらも異国での生活を共にした経験は、国際感覚を養う上において貴重な糧でした。人種や国籍はどうであれ、人間として心が通じ合う関係とは何と素晴らしいものか、と感じました。

サルバとの別れは非常に辛いものがありました。お互いに眼に涙をため抱き合い、再会を誓いました。母国を離れ、勉学に励む同じ留学生として、別れはさらに胸に堪えました。彼とは、留学後半のヨーロッパ旅行でマドリッドに立ち寄った折、奥さんともども再会を果たしました。非常な努力家でしたので、後年は、さぞかし銀行内でも偉くなったでしょう。

ホームステイ先のウェルズさん老夫婦も、涙を流していました。滞在中には、実の子供のように接してくれました。夫婦には、スティーブ・ジョブズに似た息子さんが一人いました。たまに遊びにきた折には様々なことを話しました。とても紳士的な人でした。やはり人種は違っても、人間としての繋(つな)がりや暖かさが身に染みました。

語学学校の同級生たちともお別れのパーティをしました。海の見える学校の教室でした。クラスメイトひとりづつと抱き合って、別れを告げました。すると突然、金髪のフランス人のクラスメイトが抱きついてきて、キスをしました。クラスでもほとんど話したことがなかったのに、彼女の突然の行動に戸惑ってしまいました。呆気にとらわれて茫然(ぼうぜん)としてしまいました。しかし、なぜか嬉しさが込み上げてきました。

ブライトンを発って、ケンブリッジへ向かう途中、ロンドンへ立ち寄りました。英国留学を勧めてくれた神戸の叔母さんの知り合いを訪ねるためです。叔母さんから英国滞在中に一度は訪ねるように言われていました。ロンドンの郊外に住む日本人家族です。小さい女の子がひとりいて、ご主人は、日本大使館近くの和食レストランで働いていました。英国にはもともとレーサーを目指して来たけど、思い通りにはいかなかった、と苦笑していました。わざわざ会いに来てくれたことを喜んでくれて、歓迎してもらいました。とっておきのスコッチ・ウイスキーをシコタマ飲まされ、死ぬかと思うほどトイレで嘔吐(おうと)したのが、「苦い」思い出です。

日本は、はるか彼方(かなた)にありました。

(つづく)

2015年4月3日金曜日

「20歳(ハタチ)のころ(13)」

ブライトン(Brighton)でのホームステイ先は、当初、語学学校が推薦してくれた家族のお宅でした。クイーンズ・パーク通り(Queen's Park Road)にありました。その名前が示すように、通りから一歩中に入った裏手には、広く美しい緑地が拡がっていました。イギリスの公園は、どこもよく手入れされた花壇や芝地があります。まさにイングリッシュ・ガーデン(English Garden)です。散策するのには気持ちの良い場所です。

ホームステイ先での同居人は、スペイン人の同じ留学生でした。スペインの首都、マドリッド(Madrid)出身でした。小柄ですがガッチリとした体型をしていて、黒く濃い髭をたくわえていました。サルバドール・ロペス(Salvador Lopez)という名前です。30代前半の銀行員でした。いつもは短く『サルバ』と呼んでいました。仕事の関係で英語が必要になり、短期での語学留学だ、と言っていました。すぐに彼とは気が合って、友達になりました。夕方になると、よく近所のパブ(Pub)へビールを飲みに行きました。

パブは街のあちこちにあって、気楽にビールを飲んだり、軽食をとることができます。どこのパブも歴史を感じさせる店構えと落ち着いた内装です。ビールはパイント(Pint)で注文します。1パイントは568mlで、ビール専用のパイント・グラス(Pint Glass)になみなみと注がれて出てきます。ルート・ビール(Root Beer)と呼ばれている黒ビールもよく飲みました。たまには気取って、ドライ・マティーニ(Dry Martini)を注文したりしました。この頃になると、お酒が美味しい、と思うようになりました。

サルバは、このホームステイ先が気に入っていないようでした。朝食にシリアルと牛乳を出してくれましたが、どうも牛乳は水で薄めてあるし、シャワーを使う時間を制限したりする、と不満を洩らしていました。ランドレディ(Landlady) は、高校生の息子がいるシングル・マザーでした。生活は苦しそうでした。日常生活において、家族との会話も一切ありませんでした。そんなある日、サルバが突然、一緒に他のホームステイ先を探さないか、と言い出しました。英会話上達の為にも、自由に会話ができる家庭を希望をしている、とのことでした。したがって、この最初のホームステイ先には数ヶ月も滞在しませんでした。

次に移った先は、ディッチリングズ通り(Ditchlings Road)にありました。イギリス特有の棟続きのタウンハウスで、なだらかな坂の途中にありました。裏庭には、綺麗に手入れされた鮮やかなバラが幾つも咲いていました。ウェルズ(Wells) さんという老夫婦のお宅でした。食事中は色んな話をしたり、ご主人が所有しているボートで近くの川を遡ったりしました。どこまでも拡がる草原地帯の中をゆっくりと流れる川を遡り、途中、岸辺でピクニックをしたりしました。もう30数年も昔のことですから、ウェルズさん夫婦もとうに亡くなっているでしょうね。大変お世話になりました。

(つづく)

2015年3月27日金曜日

「20歳(ハタチ)のころ(12)」

英国留学の当初は、ケンブリッジではなく、ブライトン(Brighton)という街に住んでいました。ロンドンのビクトリア(Victoria)駅から列車で真っ直ぐ南に下ったところにある海辺の保養地です。サセックス(Sussex)州に属しています。いつもどんよりとした天気のイギリスには珍しく、陽光あふれる明るくて緑豊かな街です。海岸線は、白い石灰岩の断崖が続います。街の前面には、大西洋が広がっています。

まずは英会話を習得するため、数ヶ月間、語学学校へ通いました。クラス担任の先生は、リンダ(Linda)とセーラ(Sera)という二人でした。ふたりとも若くて、美しく魅力的な女性でした。特にリンダは、小柄でしたがスタイルもよく、鳶色(とびいろ)の瞳と小麦色の肌が印象的でした。いつも胸元が微妙に開いた、身体に密着したTシャツを着ていました。純粋無垢(むく)な青年(?)には、少々刺激が強すぎましたね。時折、目のやり場に困って、授業に集中できないこともありました。

セーラも清楚な美人で、いつもブロンドの髪をポニーテールにして、深く澄んだブルーの瞳が輝いていました。リンダとは違って、質素で地味な服を好んで着ていましたが、淡い色合いでセンスがあり、よく似合っていました。まだ新婚で、イケメンのご主人がいつも終業時に迎えにきていました。セーラはリンダ同様、非常に優秀で、クラスメイトによると、二人とも一流大学を卒業している才媛だ、とのことでした。

授業内容は、文法や発音、または作文などがありました。授業の一環として、さまざまな話題について、クラスで議論(Discussion)や討論(Debate)もしました。当時は、日本経済の隆盛期で、メイド・イン・ジャパンの製品が世界を席巻していました。ある日の授業では、南米チリから来ていた留学生が、日本製品について討論を始めました。かれは日本車がいかに優れているか強調しましたが、その異常なまでの世界市場への販売行動に危惧(きぐ)を抱いていると話しました。

しかし悲しいことに、日本人として、それに対する反論ができませんでした。英語力の問題は明らかでした。それと同様に、日本車の海外への輸出や貿易問題について、一切考えたこともありませんでした。それに関する知識も持ち合わせていませんでした。いかに自国のことを知らないのか、身に染みました。反論に窮していると、セーラが助け舟を出してくれました。日本のメーカーがただ単に製品を売るだけではなく、アフター・サービスも優れていることを話してくれました。英会話を勉強する前に、まずは様々な問題について基本的な知識を得ていないと、内容のない会話を続けるだけになってしまうことを痛感しました。

授業が終わると、ひとり浜辺に出て海を眺めて過ごしました。砂浜に腰を下ろして、ボンヤリと遥かな水平線を見つめていました。穏やかな海がどこまでも続いていました。カモメが鳴いていました。その声はなんとも哀愁を帯びていました。この海の先に広大な大西洋が広がっていて、その南にはアフリカ大陸があるのかと思うと、不思議な気持ちでした。その当時、スーパートランプ(Supertramp)の『ブレックファースト・イン・アメリカ(Breakfast in America)』という曲が流行っていました。いまでもこの曲を聴くと、その物悲しい旋律(せんりつ)と相まって、あの頃の記憶が鮮やかに蘇(よみがえ)ってきます。

(つづく)

2015年3月14日土曜日

「20歳(ハタチ)のころ(11)」


ワインバー、『シェイズ』での楽しい思い出は尽きません。毎週金曜の夜は、まさにドンチャン騒ぎでした。まるで新選組が京都の角屋で総揚げをしたような喧騒(けんそう)でした。貧乏留学生の身分で、浴びるほどワインを飲み、唄い、踊りましたね。それは忘れがたく、懐かしい映画の一シーンのように、今でも鮮やかに蘇(よみがえ)ってきます。

他の留学生たちとも素晴らしい時間を過ごせたように思います。おかげで沢山の友人もできました。かれらが帰国したあとも、関戸さんや赤居さんと一緒に、夏休みを利用してヨーロッパ各地を訪ね歩きました。訪ねるたびに、大歓迎してくれました。あれから30数年が経ってしまって、かれらとの連絡が途切れたことは誠に残念です。

まさに金曜日の夜は羽目をはずして遊びました。しかし、そのほかの日は、いま思い出しても、本当に良く勉強しました。まあ一応学生ですから、当然といえば当然ですが、一生のうちであれほど勉強したこともありません。寝食を忘れて勉学に励んだといった日々でした。あの当時使った辞書やテキスト類を見ると、もうボロボロで、赤いボールペンでやたら下線を引いたり、丸で囲ったりしていますから、必死で勉強に打ち込んだ痕跡がうかがえます。

週末は一日中図書館にこもって、辞書と首っ引きで様々な本を読みました。ケンブリッジは、万有引力を発見したアイザック・ニュートンや、進化論のチャールズ・ダーウィン、経済学者のジョン・メイナード・ケインズ、はたまた理論物理学者のスティーブン・ホーキング博士など、人類の歴史において、社会の変革に大きく貢献した著名人を多数輩出しています。トリニティー・カレッジ(Trinity College)の正門の横には、ニュートンが万有引力発見のキッカケをつくったと伝わる林檎(リンゴ)の木が分枝してあります。

このトリニティ・カレッジの古色を帯びた正門は、グレート・ゲートウェイと呼ばれていて、創立者のヘンリー8世の彫像が掲げられてあります。このヘンリー8世は、気に入らなくなった妻たちをロンドン塔へ幽閉し、断頭台で処刑しています。離婚できないカトリックの教えに対抗し、自ら英国国教会をつくった何とも身勝手な王様でもあります。

この彫像にはこんな話があります。像は、左手に英国国王の象徴ともいうべき、頂に十字架のついた宝珠を持ち、右手には王枝を掲げています。しかしよく見ると、王枝の代わりに椅子の脚が挿してあり、一見して、誰も気づきません。実は椅子の脚だ、と云われてはじめて気づく程度です。

十九世紀頃、学生たちが酒に酔って、夜な夜なその門楼によじ登り、いたずらに王枝を引き抜き、その代わりに椅子の脚を挿したらしいのです。大学側が取り替えるたびに、王枝は椅子の脚にとって換わってしまって、大学側もすでに諦めたのか、いまもその状態が続いています。当のヘンリー8世も、あの世で苦笑しているに違いありません。

(つづく)

2015年3月4日水曜日

「20歳(ハタチ)のころ(10)」


関戸さんの『南京玉すだれ』は、各国の留学生たちの話題の的(まと)となりました。面白い日本人がいるとのウワサが広まり、ワインバー、『シェイズ』は、金曜日の夜になると、留学生たちで溢れ返りました。次第に客たちの酔いがまわり、場が盛り上がり出すと、関戸さんのパフォーマンスを促す声が上がりました。「ケイジ! ケイジ!」、と関戸さんの名前を連呼します。関戸さんは、まるで、『シェイズ』お抱えの専属芸人のようでした。

みんなの熱望に応えるように、関戸さんは片手を高々と上げると、部屋の中央へと進み出ます。「待ってました!」とばかり、歓声が沸き起こりました。今か今かと奇妙な日本の『Dance & Song』を待っていた聴衆の興奮は最高潮へ達します。関戸さんは、みんなの視線を集めるように一息つくと、やおら軽妙なステップと手拍子を始めました。

♪ア、さって、ア、さって、さては南京玉すだれ♪ 

関戸さんは、いつものように声を張り上げて唄いました。その歌声は地下の狭い小部屋に響き渡ります。留学生たちも、もうすっかり慣れたこのリズムに合わせるように、テーブルを叩き、両足を踏み鳴らし始めます。店のマスターも、「また始まった・・・」、といったように諦(あきら)めたような仏頂面をしています。そんなことには一向にお構いなく、関戸さんのパフォーマンスは続きます。

そんな中、赤居さん同様、同じ日本人として、関戸さん一人に任せるわけもいかないという気持ちを抱き始めました。そのうちに、したたかに酔った勢いにまかせ、ふたりは関戸さんと一緒に唄い踊り始めました。もうすでに恥ずかしいという気持ちは消え失せていました。新たなバック・ダンサーの登場に、留学生たちのヤンヤヤンヤの喝采が巻き起こりました。「ブラボー! ブラボー!」の叫び声が、店内に響き渡りました。その喧騒の中で、ひたすら3人は我を忘れて唄い踊りました。陶酔の域に達していました。一緒に踊りだす留学生たちもいました。

いま振り返ると、なんとハチャメチャな遊びをしていたのかと、呆れて苦笑してしまいます。関戸さんによると、『南京玉すだれ』は、学生時代、ラグビー部の宴会の余興で披露していた出し物(?)の一つだったそうです。こんなにウケるとは思わなかった、と笑っていました。全身全霊を込めて、集中して演じる(?)ことがウケるコツだ、と胸を張っていました。ラグビー部の飲み会のあとなど店を出ると、「国歌斉唱!」と叫んで、一列に立ち並ぶ後輩が歌う『君が代』に合わせて、歩道の脇にある電信柱によじ登り、おまわりさんによく怒られた、と屈託もなく笑っていました。

(つづく)

2015年2月23日月曜日

「20歳(ハタチ)のころ(9)」

ワインバー『シェイズ』に通い始めると、日本人留学生としても、お国の歌を披露しようということになりました。しかし何を唄ったらよいのか悩みました。関戸さんや赤居さんとも話し合いましたが、良いアイデアがありません。各国の留学生たちにインパクトを与える歌が欲しかったのです。

毎週金曜日の夜になると、あいも変わらず『シェイズ』へと向かいました。留学生仲間はすでに来ていて、地下の小部屋は彼らで占められていました。いつものように白ワインをオーダーし、乾杯しました。お気に入りは、『リープフラウミルヒ(Liebfraumilch)』といって、軽くて甘いドイツワインでした。『聖なるミルク』という意味だと誰かに教わりました。「よし今夜も、聖母マリアのお乳で乾杯しよう!」と言っては、ワイングラスを傾けました。

店内を各国の言葉が飛び交い、歌や踊りが始まりました。笑い声や歓声が渦巻いて、話している相手の声が聞きづらいほどでした。喧騒(けんそう)は次第に高まり、狭い地下の店内に響き渡っていました。そのとき突然、盛りあがっている留学生たちの前に、関戸さんがおどり出ました。

「レディース・アンド・ジェントルメン!」

関戸さんは、留学生たちを睥睨(へいげい)するように、高らかに声を発しました。その声は裏返っていました。禿げ上がった頭が照明に光っています。一体何が始まるんだろうと、一瞬、水を打ったように静まり返りました。留学生たちは好奇心の眼を一斉に関戸さんへ向けました。

関戸さんは、突拍子もない声で何やら唄い出しました。そして踊り出しました。手拍子をとりながら、軽快にステップを踏み始めます。

♪ア、さって、ア、さって、さては南京玉すだれ♪

留学生たちは、突然始まった目の前の状況に呆然(ぼうぜん)としていました。珍奇なひとりの東洋人が唄い、踊り出したのですから、唖然(あぜん)としていました。関戸さんは、周りのそんな動揺には目もくれず、ひたすら高らかに唄い、踊り続けました。

♪ちょいと伸ばせば、ちょいと伸ばせば、すだれ柳にさも似たり♪

関戸さんは、片方の腕を柳の枝に似せて、ブラブラさせました。当然、各国の留学生たちには、一体それが何を意味しているのか皆目見当もつきません。大きく眼を見開いて、興味津々な表情で、かれのパフォーマンスに魅了されています。関戸さんの奇怪な、『Dance & Song』は続きます。

♪すだれ柳が、すだれ柳が、お眼にとまれば、もとへと返す♪

ブラブラとさせていた腕が、「もとへと返り」ました。留学生たちは、まだ状況がつかめていません。お互いに顔を見合わせています。しかし笑いが込み上げてきているようで、次の展開を期待しているようでした。関戸さんは、また軽快なステップとともに、手拍子を始めました。

♪ア、さって、ア、さって、さては南京玉すだれ♪

留学生たちは、その手拍子に合わせ始めました。その慣れないテンポが面白いらしく、ヤンヤの喝采(かっさい)が起こりました。関戸さんは、彼らの注目の中、続けます。

♪ちょいと伸ばせば、ちょいと伸ばせば、東京タワーにさも似たり♪

突然、今度は両腕を頭の上に突き上げ、三角形の塔のような形をつくりました。留学生たちの手拍子は続いています。

♪東京タワーが、東京タワーが、お目にとまれば、元へと返す♪

関戸さんは突き上げた両腕を、「元へと返し」ました。汗でつややかな光が増し始めた頭と、その一心不乱に踊る姿が、さらなる笑いを誘いました。

♪ア、さって、ア、さって、さては南京玉すだれ♪ 

関戸さんは、『Dance & Song』が終わると、聴衆に対し、深々と頭を下げました。玉のような汗が流れていました。留学生たちは、目の前で繰り広げられた光景に、ある種の感動を覚えていました。指笛が鳴っていました。拍手が鳴り響いていました。関戸さんは、まさにステージ上でスポットライトを浴びるスターでした。

「サンキュー! サンキュー!」

関戸さんは両手を高々と掲げ、鳴り止まない歓声に応えていました。惜しみない拍手は続きました。

(つづく)

2015年2月14日土曜日

「20歳(ハタチ)のころ(8)」


キングス・カレッジ(King’s College)の差し向かいに瀟洒(しょうしゃ)なワインバーがありました。石畳のキングス・ロード(King’s Road)に面したガラス張りのお店で、『シェイズ(Shade’s)』という名前でした。『薄暗がりの』といった意味でしょうね。

分厚く大きな扉(ドア)を押して店内に入ると、せまい螺旋(らせん)階段がありました。手すりを伝って薄暗い地下へ降りてゆくと、そこはワイン貯蔵庫といった穴倉(あなぐら)のような場所でした。暗めの照明で、壁は一面、白いペンキで塗られていました。いくつかの小さな部屋に分かれていて、それぞれに年季の入った木製のテーブルや椅子が置かれていました。

どのような経緯で『シェイズ』へ通い始めたのか覚えていませんが、おそらく関戸さんに誘われたのではないかと思います。貧乏学生の身分で、自らワインを飲みに行くわけはありませんし、別段ワインが好きでもありませんでしたから。しかし金曜の夜になると、飽きもせず関戸さんや阪大出の赤居さんたちと足しげく通いました。

以前書いたように、この阪大出の赤居さんは、最初バリバリの大阪人だと思っていましたが、のちに滋賀県出身だと知りました。長髪の天然パーマで、いつも丸眼鏡の奥で細い眼が笑っていました。どうも私同様に関戸さんの人柄に惚れ込んだようで、出かけるときにはいつも3人一緒でした。性格は、穏やかで心優しく、涙もろいところがありました。留学期間後半になって、ケンブリッジで知り合ったヨーロッパ各国からの留学生たちを、バックパックを背にして3人で訪ね歩きました。この時の珍道中も忘れがたいものがあります。その話は、またこのブログで書こうと思っています。

『シェイズ』は、ケンブリッジの留学生たちの溜り場のようなお店でした。したがって、知り合ったヨーロッパ各国の留学生たちとは、このワインバー『シェイズ』で友達となりました。お酒が入って酔いがまわると、人種や国境の壁はたちまち崩れ、人類みな兄弟となります。特にラテン系のイタリア人やスペイン人たちは陽気で、ワイングラスを掲げて、お国の歌を唄い始めます。歌詞の意味など皆目わからないのに、かれらと腕を組みながら一緒に身体を揺らしました。歌声は地下の穴倉全体に響きわたり、静かにワインを味わいたい他のお客さんには、さぞかし迷惑だったでしょうね。

いま思い出せる友人たちの名前では、イタリア人のパオラ、マリア、ジュリアーナ、オーストリア人のダギー、スイス人のクラウディア、キャサリンなどです。不思議なことに、すべて女性の名前しか覚えていません。それもみな魅力的な女性たちです。記憶力とは、対象物にいかに興味をもったかでその強弱が決定するそうですから、30数年経ったいまでも覚えているというのは、われながら笑ってしまいます。

(つづく)

2015年2月9日月曜日

一旦停止違反に対する抗弁書

神奈川県警察本部長殿、

私は、平成27年2月7日(土曜日)、午後3時21分ごろ、横須賀市小川町付近の道路を自家用車で運転中、一時停止指定場所において停止しなかったという交通反則告知を受けました。告知は、横須賀警察署高坂文憲巡査部長より行われました。しかしながら、私はこの告知、またはそれに伴う告知書交付について、一切納得できません。

私は一時停止をし、右側からの車両が来ていないのを確認し、再度、確認するため一時停止線を少し越えて車を進め、左折しました。その後、50メートルほど進んだ地点で、高坂巡査部長により車を止められ、一時停止違反です、と告知されました。その折、一時停止をした旨、抗弁いたしましたが、聞き入れていただけませんでした。私は、反則告知書の受け取りやそれに対するサインの拒否もできましたが、高坂巡査部長に対し、私の言い分を書面によって訴えたいので、どちらへ提出したらよいのかお聞き致しました。しかしながら、自分では分からないとの返答があり、週末は担当部署が休んでいるので、月曜日、2月9日に横須賀警察署交通指導係へ連絡をしてくれとのことでした。

2月9日(月曜日)に横須賀警察署交通指導係へ電話をし、岩崎氏とお話をしました。その折、私はどうしても反則したとは思っていないと訴え、この私の言い分を書面によって送付したいが、どちらへ郵送したらよいか助言を受けました。岩崎氏は、そのような書面を送っても、検察官が双方の意見を聞き、現場検証なりを行った後に判断しない限り、反則告知が覆ることはないとのお話でした。

しかしながら、あくまで私は抗弁したいとの意志を伝えましたところ、神奈川県警本部か本庁への郵送をとのことでしたので、ここに書面によって、私の言い分を訴えたいと思います。私が一時停止したことを高坂巡査部長が見落とした可能性もあり、また一方的に違反者として告知され、検察官を通さないと一切の抗弁ができないシステムの矛盾にも理解に苦しむものです。しかしこれによって、誠に不本意でありますが、この行政処分(反則金と点数)を断固拒否するものではないことをご理解ください。あくまでも私には非がなかったということを訴えるものであり、私の質問に対して即答できなかった巡査部長の職務に不満を表すものです。

再度になりますが、私は反則を犯したとは考えておらず、納得がいきません。私が一時停止を行わなかったというような録画した映像でも残っているのでしょうか? 私は当該横須賀市小川町の道路は何度も通行しており、一時停止線があるのも承知していました。したがって、私が停止を怠ったとは考えられません。高坂巡査部長によると、私の停止は、停止したとは認められないとのことでしたが、一旦停止後、徐々に右側からの車両を確認するため停止線を越えただけで違反であるというのはどうしても納得がいきません。私が一旦停止したことを証明出来る第三者またはドライブレコーダーを搭載していないのが残念です。また、お互いの主張をし続けても水掛け論になることも承知しております。しかし私の言い分をお伝えしたく、ここに書面によりお送りいたします。この私の言い分に対して、書面によってご返答いただければ幸甚です。

何卒、よろしくお願いいたします。

2015年2月7日土曜日

「20歳(ハタチ)のころ(7)」

搭乗したアエロフロート機は、ようやくモスクワ空港に到着しました。着陸する直前まで、旧型の機体は一層ギシギシと不気味な音を立て続けました。モスクワの空は、薄墨を流したような厚い雲に覆われていました。まるで地の果てにたどり着いたように感じました。

モスクワ空港は、それ自体が強固な要塞(ようさい)のようでした。あたりはぴんと張りつめた異様に冷たい空気に包まれていました。到着ロビーへ出ると、早速ロンドン行きの飛行機に乗り換えるため、搭乗ゲートを探しました。

空港内をウロウロしていると、数人の厳(いか)つい警備の軍人が小銃をかかえて立っているのがみえました。モスクワ五輪を控えているので、特別に警戒しているようでした。空港のスタッフも、能面のように表情がありません。ロビーの壁には巨大なレーニンの肖像画が掲げられていました。この共産主義国から脱出しなければと焦(あせ)りました。足早に次の乗り換え便へと急ぎました。

乗り換えた飛行機は、無事にモスクワ空港を離陸しました。その後、ヨーロッパ各国の上空を横断し、ドーバー海峡を超えて、ロンドンへと近づきました。眼下には、テレビで見たような英国の街並みが拡がっていました。その風景を見つめていると、ようやく念願の留学が叶うという感傷に浸り、次第に胸があつくなりました。

着陸が近づき、窓の外を覗くと、陽光に輝くテムズ川をはさんで、赤褐色のレンガ造りの建物群が拡がり、緑の広い公園が市街地のそこここに点在しているのが見えました。空から見るロンドンの街並みは、かつての大英帝国の偉大さを感じさせました。

ロンドンのヒースロー空港に到着すると、入国審査でいきなり問題が発生しました。強面(こわもて)の審査官がしきりに何か言っているのですが、それが解らない。こちらも初めての経験のため動揺してしまって、一体かれが何を要求しているのか理解できない。ただ口元をじっと見つめていました。結局、入国カードがないことが分かりました。ロンドンへ向かう機内で手渡されたのでしょうが、どうも眠っていたため、カードはもらっていないし、当然記入もしていません。

やっとイギリスへ到着したかとおもった矢先、あえなく入国拒否され、日本へ強制送還ではと慄(おのの)き当惑しました。予期せぬ事態にたじろぎ、まるで車のヘッドライトに誤って飛び込んでしまって立ち竦(すく)むウサギのようでした。しかし、その後どうなったのか、記憶が定かではありません。結局、なんとか入国できたのですから、特別な配慮(?)を受けたのでしょう。不法渡航者やテロリストには見えない、純朴そうで穏やかな容姿が幸いしたようです。まずはメデタシ、メデタシ。しかし、先が思いやられる英国入国の初日でした。

ヒースロー空港からは、『ロンドン・タクシー』の名称で有名な、大きな黒塗りの箱型タクシーに乗りました。サブウェイ(Subway) と呼ばれている地下鉄を利用することも出来ましたが、到着早々、大都会ロンドンで迷子になってもいけないと思い、結局タクシーを拾いました。目的の駅を告げると、赤ら顔の運転手が快く応えてくれました。自分の拙(つたな)い英語が通じたことに、いたく感動しました。「どこから来たのか?」、と訊かれたので、「日本からだ」、と答えると、「旅行か?」、とまた質問してきます。「学生だ」、と答えると、納得したように車を走らせました。

タクシーの窓から望むロンドンの街並みは素晴らしいものでした。古色蒼然(そうぜん)とした石造りの建物群は、英国の重厚な歴史を感じさせました。広い通りには、赤い2階建てバスが走っていました。ゴシック様式の教会の塔が聳(そび)えていました。当然のように、街は英語の看板であふれています。

突然、広大な緑の公園が見えたかと思うと、また石造りの街並みが続いていました。まるで映画のセットのようでした。窓の外を流れる両サイドの景色は、見るものすべて珍しく、もう英国に居るんだ、と再認識させるのに十分でした。これから始まる異国での生活を思うと、さらなる期待に胸は高鳴りました。

(つづく)

2015年1月30日金曜日

「20歳(ハタチ)のころ(6)」

「サア、英国へ出発!」、と故郷を旅立つ当日は、家族全員で駅まで見送りにきてくれました。新しく買った合皮革のスーツケースは、これ以上は入らないほど膨(ふく)らんでいました。英国の冬はさぞかし厳しいだろうと、母親が厚手の下着やセーターをこれでもかと詰め込んでいました。当座のお金も、用心のため、そのほとんどをトラベラーズ・チェック(Traveler’s Check)に換えていました。

駅のホームでは、家族全員が口数も少なく、列車の予定時刻を待っていました。母親が泣いていました。妹は心配そうな顔をしていました。弟は当時まだ小学生でしたから、母親の脇に所在なさそうに立っていました。父親は毅然(きぜん)としていました。しかし内心ではさぞかし心配だったでしょう。しきりに煙草を吸っていました。

『なごり雪』の歌詞ではありませんが、♪汽車を待つ彼らの横で僕は、時計を気にしていました。 重いスーツケースを引いて列車に乗り込もうと振り返ると、悲しそうな顔が並んでいました。母親はまだ泣いていました。そんな家族の気持ちとは裏腹に、当の本人は、これから旅立つ期待に胸を膨(ふく)らませていました。まさに、「親の心、子知らず」といった情景です。動き始めた列車の窓から手を振ると、ホームにたたずむ家族が次第に遠くなっていきました。思わず涙が出ました。

さて、念願の英国留学へと出発したのですが、不思議なことに、それから成田空港までの記憶がすっぽりと抜けています。途中、神戸の叔母さんの家に立ち寄ったのか、そのまま成田まで直行したのか、まったく憶えていません。東京に着いて、成田までシャトルバスに乗ったような微(かす)かな記憶がありますが、その時の情景が浮かんできません。心はもうすでに英国へと飛び立っていたのかもしれません。

英国へは、当時のソ連の飛行機、アエロフロート航空(Aeroflot)で行きました。神戸の叔母が海外旅行好きだったので、おそらく彼女が旅行会社に連絡し予約をしてくれたのでしょう。乗ったアエロフロートの機体は不気味に銀色に光っていて、ソ連という国の印象も相まって、妙に冷たく感じました。スチュワーデスはみな大柄で、見るからに威圧的でした。旧型の機体らしく、揺れるたびにギシギシと異様な音がしました。海外旅行の経験もない地方の純朴な(?)青年にとっては、まさしく不安だらけの旅立ちでした。

成田を飛び立ってしばらくすると、張り詰めていた緊張感が解けたのか、眠ってしまいました。ふと眼が覚めて、小窓を覗(のぞ)くと、眼下には広大な森林が地平線まで続いていました。その大地のスケールの大きさには驚きました。森が果てしなく拡がっていて、それ以外は一切何もありません。おそらくシベリア上空を飛んでいたのでしょう。それから数時間ほど眠って、また下界を見ると、まったく同じ景色が拡がっていました。森は限りなくどこまでも続いていました。地平線というものを見たのは、この時が初めてでした。

(つづく)

2015年1月25日日曜日

「20歳(ハタチ)のころ(5)」


留学生活が長引いてくると、少しは節約しなければ、と思い始めました。切り詰めるのは食費です。夕食は、安いフランスパンを買って、よくハムやチーズなどをはさんで食べました。コンクリートのように硬(かた)いパンでしたね。しかし日持ちがよかったので、何本か買って、毎日齧(かじ)りついては飽きずに食べました。

またはキングス・カレッジ(King’s College)の前にあるマーケット・プレイスまで歩いて、フィッシュ・アンド・チップス(Fish & Chips)や、即席のマッシュポテト、缶詰のビーンズなどを買って食べたりもしました。散歩がてら、ケンブリッジのメイン・ストリートというべき聖アンドリュース通り(St. Andrew’s Street) を上って、ショッピング・モールのあるライオン・ヤード (Lion Yard) あたりの安食堂へも行きました。

その食堂は、『ゴールデン・ボールズ(Golden Balls)』という妙な名前でした。シミのついたメニューには、イギリスの家庭料理ものっていました。ケンブリッジの主(ぬし)ともいえる『あんちゃん』も、この食堂は行きつけらしく、「今日もあの『キンタマ』でよ、ミートボール食ってきたぜ」、とよく言って豪快に笑っていました。

この『ゴールデン・ボールズ』では、かれは日本語でしか注文しませんでした。一切英語を話さないのです。「オイ、ネエちゃんョ、いつものコレとコレな。ハラへってるから、早くしてくれよな」、といった調子です。若いウェイトレスも、いつものことなのか、かれの注文どおりの料理を運んできました。なんとも不思議な光景でした。

たまには栄養をつけるため、少しは贅沢(ぜいたく)な食事もしなければと思いました。しかし、絶えず懐(ふところ)の寒い身にはそうも出来ませんでした。殊になかなか陽の落ちない白夜など、おなかを空かしてトボトボと歩いていると、家々の窓に灯る穏やかな明かりがやたら目について、無性に日本へ帰りたくなりました。「どうして僕はこんなイギリスまで来たんだろう?」、と自問しました。

とくにクリスマス・シーズンになると、街は華やいでいます。あたりは一様にイルミネーションで飾りつけられ、クリスマス・ソングが流れています。学生のカップルが楽しそうに腕を組んで歩いているのを見るたびに、羨(うらや)ましげに眺めていました。当時は、ポール・マッカートニーの『ワンダフル・クリスマスタイム(Wonderful Christmastime)』という曲が、やたらどこでも流れていました。

♪Simply having a wonderful Christmastime♪

♪Simply having a wonderful Christmastime♪

ポールのそんなやけに陽気な歌声があふれる街の雰囲気とは裏腹に、遠く離れた家族のことを思うと、淋しさで胸がいっぱいになりました。親元を離れて生活したのも始めてでしたし、ましてや異国の空の下、心細い思いが絶えず心を支配していました。しかし、いま思うと、若い頃、このように孤独に耐える日々を過ごしたのは、貴重な経験でした。勉学では得ることのできない、心の成長にとって必要な養分だったのかもしれません。

そんな時は、よく故郷の両親に手紙を書きました。電話をすることもできましたが、その当時、国際電話料金は高額でしたので、よほどのことがない限り連絡はしませんでした。留学期間、一度だけ電話をしました。金の無心をしたような覚えがあります。それ以外は、ひたすら手紙を書きました。薄いエアメール用の便箋(びんせん)と封筒を使いました。健気(けなげ)にも、親に心配をかけないように、変わらず元気でいることを伝えました。

当然、当時はインターネットやメールなどの便利で安価な通信方法はありません。淋しさを紛らわすためコツコツと手紙を書きました。普通郵便で1週間から10日ほどかかったようにおもいます。実家には、探せば今でもその手紙の束があるはずです。そこには、20歳(ハタチ)のころの思いがたくさん詰まっているような気がします。

いま子供を持つ身になって思うと、両親もよく思い切って息子を留学させたものです。金銭的な負担もあったでしょうし、誰ひとり知り合いもいない異国へ旅立たせた心境は察して余りあるものがあります。しかし私の、留学したい、という強い希望と、英国留学の経験があった今は亡き神戸の叔母の勧めもあり、決心したものとおもいます。両親の決断には、いまでも感謝の気持ちでいっぱいです。

(つづく)


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