2010年7月20日火曜日

桶狭間の戦いについて

日本史上あまりに有名な桶狭間の戦いは、尾張をほぼ統一した織田信長にとって、天下統一への第1歩となったことは疑いのない歴史的事実です。駿河・遠江・三河の3カ国を治める今川義元の2万5千の軍勢を、たった2千の軍で見事にうち破った奇跡ともいうべき戦いです。

しかし織田信長の進軍経路が、つい近年まで間違って伝えられていたことはあまり知られていません。永禄3年5月19日未明、織田方の鷲津砦と丸根砦陥落の報告に、籠城をつよく勧める老臣たちを振り切るように清須城を数騎で飛び出した信長が、熱田神宮で後続部隊を待ち、丹下砦から善照寺砦へ進み、鎌倉往還へ大きく迂回して、太子ヶ根から桶狭間で昼食のため休憩中の義元本隊へ奇襲攻撃をかけたように近年までは伝えられていました。

その理由として、善照寺砦から真っ直ぐに中島砦へ進むと、鷲津砦と丸根砦から進軍が丸見えになってしまうからのようです。その両砦の後方には、前日までに兵糧を運び入れているその当時義元側の松平元康(後の徳川家康)が陣を構えています。そのような危険を冒してまで中島砦へ向かうわけがないという理由からのようです。

しかしながら最近の研究では、信長は善照寺砦から真っ直ぐに中島砦へ進み、東海道を下って、桶狭間山に陣取る義元本隊へ山の反対側から駆け上がり奇襲をかけたようになっています。その理由として、善照寺砦から中島砦の間には窪地が多く、その窪地に身を隠しながら進軍できたこと、そして、鷲津砦・丸根砦と中島砦の間には沼地が広がり、発見されても追撃できなかったことなどです。ちょうど梅雨時で突然の雨に両砦からの視界が遮られていたことも幸運だったようです。つまり、いままで信じられていた経路とはまったく違っていたことになります。信長の性格からして、個人的には、この新たに提唱された進軍経路の方が、相応しいような気がします。

信長はその豊富な情報力で、それら地域の地形を事前に把握しており、たまたま天候も見方したのが大勝利に結びついたようです。信長は、詳細な戦略を当日まで近習でさえ明かさなかったそうですが、彼の頭の中には全て作成されており、出陣当日の清須城の大広間で「敦盛」を3回舞った時には、心に強く秘めたものがあったようです。

歴史の解釈は、これからも様々に書き換えられうるもののようです。またそこに、歴史研究の面白さがあるように思います。


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